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【サイケデリック学・瑜伽行唯識学探究記】12495-12502:2024年4月13日(土)

⭐️成人発達理論・インテグラル理論・瑜伽行唯識学の観点から、リスナーの皆様と心の成長を一緒に実現していくことを目指したサイケデリック唯識ラジオの配信をしています。


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。

タイトル一覧

12495. 森有正先生の思想の中に唯識を見出して

12496. 今朝方の夢

12497. 唯識学を学ぶことは自己を学ぶこと

12498. 仏教論理学としての因明学への関心と問答集を紐解く楽しみ

12499. インドとの縁とインドへの想い

12500. 自己と時間/唯識学研究と自らの生き方/古典との付き合い方

12501. 真理探究のためのエッセー的日記の飽くなき執筆

12502. 第75回のゼミナールのクラスからの学び


12495. 森有正先生の思想の中に唯識を見出して  

     

時刻は午前5時を迎えた。つい今しがた、シロシビン・マッシュルームの栽培キットから数本の育ったマッシュルームを収穫し、オーブンにかけた。今回の栽培キットは前回のものよりも収穫量が少ない印象だが、それでもすでに何周か収穫することができており、かなりの数のセッションに用いる収穫が実現されている。前回の品種と今回の品種の違いが体験にもたらす差異はまだ実感することができていない。品種の差異以上に、セット・セッティング・服用量の3つの変数が体験の差異を生み出す力を持っているように思う。とはいえ品種ごとに間違いなく何かしらの差異をもたらしているであろうから、今後はその点により敏感となり、それを言葉にすることができればと思う。今の栽培キットを用いての収穫は、あと1回か2回ぐらいかと思われる。収穫できるところまで活用したら、いったん栽培をやめて、冷蔵庫に保存している乾燥させたシロシビン・マッシュルームをまずは使い切り、そこからまた新しい栽培キットの購入を検討したい。その時にはやはり前回の品種のものを購入することを考えている。前回の品種が一番育ちがよく、本当に相当の数のセッションを実現させてくれるぐらいの収穫をもたらしてくれていた。3ヶ月以上の期間にわたってずっと収穫をもたらしてくれていたので、そのことには本当に感謝している。


今日もまた唯識学の研究に打ち込んでいこう。それと並行する形で、昨日から読み返し始めた森有正全集の続きにも旺盛に取り掛かりたい。唯識学を学び始めて森先生の一連のエッセー日記を読み返してみると、驚いたことに森先生の思想の端々に唯識思想を垣間見ることができるのである。森先生が個人を規定するものとして挙げている経験というのはまさに阿頼耶識を彷彿とさせる意味が込められていて、そうしたつながりを出発点にし、先生の言葉の端々に唯識思想の本質を感じる。先生自身は唯識思想を学んでいたわけではなく、別のルートを通じて唯識思想の奥義とでも言えるような考え方に辿り着いた点にやはり敬意を評せざるをえない。当初の予定では午前中一杯は唯識学の専門書を読み返し、午後に森先生の全集を読み返していく計画を立てていたが、今日は例外的に一気呵成に朝から森先生の全集を読み返すことに時間を充ててみたいと思う。その読書を進めたら再び唯識学の研究に戻ってきて、5月の中旬からゼミナールで扱う唯識学の講座に向けてPPTスライドを作成し、講義動画を作成しておきたいと思う。フローニンゲン:2024/4/13(土)05:19


12496. 今朝方の夢


今朝方も早朝から暖房が自動で入っている。今の気温は12度だが、今日も昨日に続き、日中は比較的暖かく、19度まで気温が上がるようだ。オランダにおいては午後5時ぐらいが一番気温が高くなる傾向にあり、今日もそれくらいの時間に日中の最高気温を記録する。明日からの1週間はまるで冬に戻ったかのような気温が続くようだ。最高気温については10度に満たない日もかなりあり、最低気温も4度ぐらいの日もある。寒さが戻ることを明日からは覚悟しておこう。


今朝方は2つほど記憶に残る夢を見ていたのだが、どちらも共に大学入試に関するものだった。そんな共通点を持つ最初の夢では、小中高時代の女性友達(KE)と高校時代の最終学年で同じクラスだった女性友達(AK)と大学入試に向けた勉強法について話をしていた。話をしていた場所は、小中高時代の女性友達がバイトで働いている大型書店の中だった。受験参考書コーナーで高校時代の女性友達と遭遇し、そこで彼女と少し立ち話をした。彼女はとても勉強ができたのだが、数学だけは苦手意識を持っているようで、数学の問題集として何が良いかを真剣に検討している様子だった。自分も数学の問題集を新たに何か購入しようと思っていたので、その点でお互いの関心が似ていた。すると、小中高時代の女性友達がやって来て、私たちに声をかけて来た。彼女は書店の店員だったこともあり、どこにどのような問題集が置かれているのかについて非常に詳しく、またどのような問題集がよく売れているのかについても把握していた。よく売れている問題集が決して良い問題集とは限らず、自分のニーズに合致するとも限らないが、一応どのような問題集が売れているのかを聞いてみた。そして彼女が教えてくれた売れている問題集をパラパラと眺めてみたところ、やはりそれは自分にはあまり必要のない問題集のように思えた。結局私は何か新しい問題集を購入することはなく、手持ちの問題集を擦り切れるぐらいまで何度も解き返すことをしていく方針を固めた。そのような場面があった。


もう1つの夢も大学入試と関連していて、入試情報を届けることを専門とするYoutubeチャンネルのユーチューバーの男性と彼の会社に勤める若い男性社員と3人で話をしていた。体裁として私がインタビューを受ける側となり、2人から色々と質問を受け、それに答える形で会話をしていた。聞かれた内容としては、中学校時代まで遡り、得意科目と苦手科目の話、そしてどのような勉強法を採用していたのかについて主に尋ねられた。とりわけ勉強法に関してはどのような工夫をして、学年が上がるごとに勉強法で変化した点について質問された。当時の記憶を懐かしく思い出しながら、勉強法についてあれこれと話をしていると、入試に向けて記憶した事柄の大半はもう記憶の彼方にあるが、入試に向けて工夫した勉強法については今の学習法に活きていることにつながり、思わぬ発見があった。そのようなことに気づかせてもらえる夢を見ていた。フローニンゲン:2024/4/13(土)05:33


12497. 唯識学を学ぶことは自己を学ぶこと  


時刻は午前6時を迎え、辺りはようやく明るくなってきた。サマータイムに入ってから2週間が経とうとしており、自分の内側で何かがゆっくりと着実に進行しているのを感じる。それは進行に伴って成熟のプロセスも垣間見せている。現在、進行が成熟と相まったものになった形で自分の内側に存在していることを嬉しく思う。進行は成熟として、成熟は信仰として今この瞬間の自分の内側に絶えず体現されている。


時刻が午前6時を迎えようとした頃に、小鳥たちが鳴き声を上げ始めた。空がダークブルーに貼り始めた頃に彼らは活動を始める。いつも小鳥たちよりも早く起床して、彼らよりも早く活動を始めるわけだが、彼らを出迎える形で彼らの鳴き声を聞けるのは毎朝の楽しみである。ひとたび彼らが鳴き声を上げ始めると、そこからは清澄美の世界がずっと続く。昨夜も就寝前に彼らの鳴き声を聞きながら瞑想をし、心を深く十分に落ち着けてから就寝をした。こうして毎日小鳥たちと共に生活を共にし、一緒になって歩みを進めていけることを深く喜び、深く感謝する。


先ほどふと、唯識学を学ぶというのはつまるところ、自分について学ぶことなのだという気づきがやってきた。唯識学のみならず、心の宗教と言われる仏教を学ぶというのは、結局のところ自分について学ぶことを意味しているのである。釈迦や過去の偉大な仏教者の教えを自分に引き付けない形で学んでもそれはほとんど意味がない。仏典の純粋な解釈研究に従事するという目的以外は、常に仏法を通じて自分について学ぶことが重要なのである。自分の心を見つめ、自分についてさらに深く知り、少しずつ心を清らかにして育んでいくこと。それが仏教を学ぶ目的なのであり、唯識学を学ぶ目的なのだ。そのようなことが明確な言葉の形となってやって来た。とにかく世の中には唯識学にせよ、仏教にせよ、その他諸々の事柄を自分に引き付けない形で単にお勉強する形で満足する人たちが大多数であるから、そうした人たちの姿に惑わされずに、自分は常に自らに引きつける形で己の心を、そして己自身を見つめるために唯識学を含めた仏教を学んでいきたい。唯識学の実践もつまるところ、自分の心をどのように見つめ、自らの心の問題をいかに解決していくかに帰着するのである。とにかく自らの心なのだ。唯識とは、ただ己の心なのだ。己の心をいかに清めていくか。自利即利他行と徹底的な観法の実践を通じて、心を清めて智慧と慈悲心を涵養していくことが唯識学の要諦なのである。今日からまた森有正先生のエッセーを読み返すのはこの点と深く関係しているであろう。森先生ほどに自らの内面をただただ純粋かつ激しく見つめた思想家を自分は知らない。フローニンゲン:2024/4/13(土)06:24


12498. 仏教論理学としての因明学への関心と問答集を紐解く楽しみ


今朝もまた 『唯識三十頌』の漢訳と鎌倉時代の学僧良遍の『観心覚夢鈔』の書き下し文を読経行として音読をした。それによって弾みを得た形でここから早朝の探究活動に入る。その前にふと、ここからの唯識学の研究においては日本の法相唯識教学に焦点を当てて研究していくことは以前と変わりないが、貞慶や良遍以外にも自分の心を打つ学僧はいないかを引き続き探索したい。真に自分の心を打つ学僧が残した書物をじっくりと向かって、その成果を論文の形にしていくことが学術研究上の1つのゴールとなる。それに合わせて、最近は因明学にも関心を持っている。因明学とは仏教の論理学だ。仏教はそもそもインドにおいては新興宗教であり、他の宗教や思想グループから迫害を受けてきた歴史がある。これは仏教に限らず、インドに乱立する種々の宗教と思想はお互いの正当性を訴え、自説を守るために論理学を独自に発展させて来たというユニークな歴史がある。日本に伝わる唯識思想は玄奘三蔵がインドから持ち帰った唯識思想で、玄奘以降においてもインドではさらに独自に唯識思想が発展していった。理論的な部分では世親菩薩の仕事によって極地に至ったが、そこからインドでは唯識思想にまつわる認識論や論理学の発展を見せていった。その運動に貢献をしていたのが例えばダルマキールティなどの論師である。いつか本場のインドで、とりわけナーランダー大学でダルマキールティなどの認識論や論理学を学んでみたいという思いが湧いてくる。その前にまずは日本でも独自に展開したであろう日本の因明学に注目したい。昨日も思ったことであるし、先ほどもふと思ったこととして、貞慶の『唯識論同学鈔』を読んでいると、そこでの問答のやり取りを辿ることは、将棋で言うところのかつての名人の棋譜を辿るかのようで面白くて仕方ない。そこには大きな知的興奮と感動がある。日本の唯識思想を研究し始めて本当に嬉しく、そして楽しく思うのは、宗派の違う学僧や同じ宗派の中で唯識にまつわる無数の問答が交わされ、それが文献として残っていることである。もちろん歴史の中で寺が燃えたり、仏教の弾圧がったりする中で失われてしまった文献も多々あるようだが、数千に及ぶ問いと答えのやり取りを眺めることは、棋譜を辿るかのようで本当に面白くて仕方ないのである。それは兎にも角にも唯識に対する理解を深めるという意味でもそうだし、人間の心の普遍的な性質について今の心理学の発見事項を凌駕するようなことが当時から発見されていたことへの驚きの念がもたらされる意味でも面白いのだ。そして何よりもそれが自分の心をさらに深く見つめ直す材料となり、実践につながっているという点を見過ごすことはできない。まさに貞慶が教学研究を単に机上のお勉強として行ったのではなく、自らの仏道修行の一環として行ったことと同じことが自分の中でも起こっている。古典資料を収集することが目的なのではなく、過去どのような問答がなされていたのかを網羅的に知るという意味でも、ここから少しずつ入手できる問答資料を全て入手していきたいと思う。そして手に入った資料をまるで過去の将棋の名人の棋譜を一手一手辿るかのように、そこに展開されている論理展開を追いたいと思う。そんな大いなる楽しみがここから待っていると思うと日常がさらに明るくなり、より一層の幸福感に包まれる。フローニンゲン:2024/4/13(土)07:19


12499. インドとの縁とインドへの想い    


錯綜する諸縁。それによる人生の導き。そんなことをここ最近は毎日のように感じる。以前よりインドのナーランダー大学について関心を示していたのだが、いつかやはりそこで学びを得たいという思いがある。平安末期から鎌倉時代の前期にかけて活躍した法相宗の学僧貞慶もまたインドの地での学びに憧れを持っていた。当時の日本人がインドに行くことは容易ではなく、自分の知る限り、日本の学僧でインドまで自ら足を運んで学びを得た学僧は誰もいないのではないだろうか。それくらいに当時は日本とインドとの間には物理的な距離があったのである。そうなってくると、玄奘三蔵が命懸けでインドに渡ったことはやはり感服するべきことである。同時に忘れたくはないのは、玄奘がインドから持ち帰った唯識学の教えを遣唐使として派遣された学僧たちがこれまた命懸けで日本に持ち帰って来たことである。飛行機のなかった当時は、日本から中国に渡ることさえ命懸けだったのである。そうしたことを考えてみると、テクノロジーが発達し、世界のどこにでも比較的簡単にアクセスできてしまう恩恵を享受しない手はなく、いつか仏教の発祥の地であるインドに行って、唯識学の研究拠点であったナーランダーに行くことは自分が果たすべき使命であるかのようにすら思えてくる。その実現に向けて、まずは日本に伝承されたインドの前期瑜伽行唯識学を徹底的に学び、中期と後期の思想をいつかインドで学ぶことへの準備と位置付けたい。そうしたことを視野に入れ、長い目で日々の探究を楽しみながら行っていく。毎日の研究を喜びと楽しみに包まれる形で従事していると、いつか本当に遠いところまで辿り着けるような気がしている。それはとてもナチュラルに実現するようなもので、肩肘を張って頑張って実現するようなものでは決してない。植物の生育のように、あくまでも自然にスッといつかそれが実現されてしまうような形でそれを実現したい。


先週末に隣人のインド人のサハルと敷地内で遭遇し、彼にインドでいつか学びたいことについて話をした。サハルはとても知的でインドの歴史についても造詣が深く、当然ながらナーランダー大学について知っていた。国家プロジェクトとしてナーランダー大学が復興したことをよく知っており、大学がある周辺の環境について話をしてくれた。サハル自身はムンバイの出身で、サハルの両親はどちらもインドの西海岸の出身のようだ。インドについては自分はほとんど何も知らないので、インドの西海岸の町の特徴や気候についても色々と話を伺い、欧州にいる間にインドに足を運んでみたいと思った。偶然にも森有馬先生もかつてインドを訪問し、そこで大いなる刺激を受けてインドで得られた感覚を思想形成に活かしておられたことを思い出した。インドとはこれまで何も縁を感じないように思えていながら、自分自身がアメリカの西海岸でヨーガのインストラクターの資格を取得したことや、中学1年生の時にヨーガとであって実践をし始めていたことを考えてみると、インドとは必ず何かしらの縁があり、それは非常に深いものであると思わざるを得ない。フローニンゲン:2024/4/13(土)07:36


12500. 自己と時間/唯識学研究と自らの生き方/古典との付き合い方  


自己は時間を通っていかない。時間は自己を通して展開されていくものなのだ。時間は時間そのものとしては存在せず、自己との関係の中で仮の存在として立ち現れ、自己という仮の存在を通過することを通じて展開していくものだという直感が得られた。自己も時間も互いに仮の存在であり、そうした特性を持つ両者が出会い、時間は自己を通じて展開し、その展開を通じて自己が深まっていくのだという直観が芽生える。


これまでの自分はある対象領域についてできるだけ入手可能な書物をほぼ全て読むようにしていた。ここからは本当に名著だと思えるような書物に絞り、それを集中的に読み込んでいこうと思う。それを通じて、同一対象との連続的な触れ合い及び交流を自らの成長の物差しとしたい。同一対象から何を汲み取ることができるかが、自らの成長の証となる。対象の側を変化させてばかりだと、自らの変化がわかりにくくなってしまうのである。ゆえに対象という変数を固定させ、固定した対象を通じて自らの変化を測っていくのだ。ここからの書物との向き合い方はそれを意識したものになるだろう。


唯識学の研究は決して自分の生き方や生活そのものと遊離したものにしてはならない。両者は遊離してしまっては元も子もない。元来仏教は自らの生き方に深く関与していき、生き方そのもの変革を通じて悟りに至ることを目的にしていたはずである。自らの心の有り様を絶えず見つめ、心を変革していくことを目指した仏教研究に従事する者として、それが己の生き方と日々の生活から遊離してしまうというのは本当に由々しき事態である。それだけはなんとしても防がなければならない。


今後も唯識学の研究に必要な文献は積極的に購入し、それらに目を通していくことになるだろう。しかし自分が最も大切にしたいのは唯識学の古典である。古典とじっくり向き合うことを通じて、自己を展開させていきたい。次々と出版される新たな書物や論文ではなく、普遍性を帯びた古典を通じて自己を涵養していくのである。不動点としての古典は、こちら側の成長に応じて新たなものを開示してくれるという意味で、不動な存在から動的かつ絶えず新しい存在に変化する。そうした存在と向き合うことを通じて自己をどこまでも深めていきたいと思う次第だ。これからは本当に古典を大切にし、古典とじっくり向き合っていこう。そうした時間と環境が自分に与えられていることに感謝をし、それもまた自らの使命を全うするためのものなのだという認識を明確なものとしたい。フローニンゲン:2024/4/13(土)08:50


12501. 真理探究のためのエッセー的日記の飽くなき執筆


森有正先生は、エッセー形式の日記を通じて、自己を通じて立ち現れる真理を真摯に探究していた。フランスの地で1人孤独にそれを生涯続けていたのである。森先生は「エッセー」というものを、日本でいうところの「随筆」とは違った意味づけをしていた。モンテーニュのエッセーが体現している意味を汲み取って、フランス語の語源の「試す」「試みる」という意味をエッセーに持たせる形で日記を執筆し続けていた。自分もまたこの意味を踏襲する形で、日々の日記を絶えず試す場としたい。何を試す場とするかというと、その瞬間に阿頼耶識から立ち現れる感覚と現象に純粋に成り切り、それを通じて開示される真理に純粋に成り切る場としたいのだ。言い換えると、真理に触れ、真理を体現化させていく試みとして日記を執筆していきたいのである。その思いは実は日記を書き始めた時と何一つ変わっていない。ようやくそれが明瞭な言葉の形になったのである。それをもたらしてくれたのは唯識学との出会いであった。唯識学との出会いが真理に目覚めせ、真理の飽くなき探究に自分を駆り立ててくれたのである。この情熱の灯火を絶やさないように、そしてますますその火と光を強めていく形で真理の探究を愚直なまでに行っていきたい。自分は真理を追い求める人なのだ。真理探究人としての自覚を元に、真理に触れ、真理を体現化させていくための試みを何にも囚われずに行う実験的な場として日記を書き続けていきたいと気持ちを新たにする。

何かについての解説文を読むことも書くことも自分にとっては大した意味はない。とりわけ書くことに関して言えば、何かを通して立ち現れた自分がいかなる存在であるかについて書くことを大切にしたい。仏についての仏教研究ではなく、仏になるための仏教研究をこそ大切にしたい自分にとってみれば、自分について日記を書くというよりも、自分になるために日記を書くということを大切にしたいと思う。自分に「ついて(about)」ではなく、自分を「通して(through)」日記を書くことをこそ大切にしたい。唯識学の言葉で言えば、心の中に現れる影像としての相分について文章を書くのではなく、自体分(自照分)を通じて自己の心の世界の相分と見分を明らかにしていくような試みをしたいのだ。こうして自分にとって日記の意味と意義がますます鮮明なものとなり、そうした実験的な意味と意義を持つ日記の執筆を通じて、自己は真理により目覚めていくであろう。そして自分の心はそれを通じてますます清らかなものになり、智慧と慈悲心が自ずから体現されていくものになっていくであろう。そのような展望が静かに、そして鮮明に開かれていく。フローニンゲン:2024/4/13(土)09:28


12502. 第75回のゼミナールのクラスからの学び


時刻はまもなく午後3時半を迎える。今日もまた穏やかな日差しに恵まれ、気温も比較的高くとても過ごしやすい。明日からまた寒さが戻ってくるようだが、こうして春を感じられるような暖かさに包まれて過ごせることに感謝したい。


今日は午後に第75回のゼミナールのクラスがあった。サマータイムに入る前はオランダ時間の午前中に行っていたゼミナールも、サマータイムに入ってからは午後1時からの開催となり、ちょうどそのリズムに慣れてきた頃である。


本日のクラスも非常に学びと発見の多い対話が実現されたのだが、1つ印象的な話題として雑談の意義と価値を再考した点にある。確かにこのゼミナールでは毎回課題図書を扱うが、それはあくまで対話のスキャフォールディングとしての役割を持たせているだけで、重要なのは雑談から始めるということである。雑談といっても天気などの外面を扱うものと自分の内面に触れる2つのものに分類することができるかと思う。究極的にはどちらの雑談であっても、それを語り始めた人の深層心理が現れたのが雑談である。まさに阿頼耶識から生まれたものが雑談なのであって、雑談はすなわち真理につながる。煩悩即涅槃と言われるのと同じく、雑談即真理なのだ。仮に私たちが雑談から真理に気づけなかったり、真理に触れることができないのであれば、それは私たち側に責任があり、単に力不足なだけなのである。真摯に内面探求をしている人であれば、いかなる雑談からでもお互いにとって重要な真理に至れるのだと思う。そもそも真理は全ての事物の背後に絶えず隠れていることを忘れてはならないし、真理に至る道は無数にあるということを忘れてはいけない。ゆえに雑談から真理に至れないというのは、どこか私たち側に問題があるのだ。現代においては雑談までもが目的化されてしまったり、逆に依然として雑談を悪だと捉えるような風潮が見られる。前者については、ドイツの思想がビョンチョル・ハンが指摘するように、私たちは無為を無為のまま楽しむことができず、常にそこに目的を見出そうとしてしまう形で無為を有為に変換してしまうのだ。唯識学において尊ばれるのは、作られたものとしての有為ではなく、まさに作られないものとしてあるがままにある無為なのだ。無為こそ真理に至る道であり、真理そのものなのである。無為を無為のままに楽しむこと。雑談を目的化させずに雑談のまま楽しむことを心掛けたいものである。まさにゼミナールの毎回のクラスは無為の雑談から始まることによって、いつも思わぬ形で対話が深まっていくのである。それともう1つ、常に合理的であろうとする態度と効率化を求めようとする態度が雑談を悪しきものだと捉えてしまうことも非常に問題が多いと思われる点についても言及しておかなければならない。ここでは当然ながら合理性や効率性そのものを否定しているわけではなく、それらの価値を認めながらも、それら一辺倒で運営される組織・社会運営、はたまた人々のコミュニケーションを問題視しているのである。合理性というのは言葉によってもたらされるものであり、言葉に囚われている限りにおいて、言葉を超えた真理を体験することはできない。合理性に凝り固まるということは言葉の牢獄に押し留められることなのだ。そうした牢獄を脱却するためにも、無為を無為として味わい、無目的な雑談を楽しむ心の余裕が欲しいものである。少なくとも自分のゼミナールでは、毎回のクラスは雑談から出発し、雑談から真理を探究していくプロセスを体現したものにしていきたいと思う。姑息な計らいから生み出された有為の雑談ではなく、計らいを手放した無為の雑談から対話を始め、無目的な空間と時間を味わえるかに心の豊かさと人生の豊かさの鍵があるように思える。そんな学びをもたらしてくれたクラスだった。フローニンゲン:2024/4/13(土)15:48

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