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タイトル一覧
12259. 『大乗五蘊論』を用いた煩悩の分析
12260. 最大の喜びと楽しさをもたらす唯識思想を用いた自己観察・内面探求
12261. 今朝方の夢
12262. 煩悩の浄化に向けて
12263. 仏陀のような親友のメルヴィンの奉仕活動に感銘を受けて
12264. 「唯識心理学」の探究者かつ実践者であるという自覚の芽生え
12259. 『大乗五蘊論』を用いた煩悩の分析
時刻は午前3時半を迎えた。今の気温は4度と低くも高くもなく、日中は8度までしか気温が上がらないようだ。3月を迎えて少しずつ春に近づいているような感覚があったが、今週1週間は少なくともまた寒さが戻り、最高気温・最低気温共に比較的低い日が続く。おそらく正式に春がやって来る最後の寒さなのではないかと思う。もちろんフローニンゲンが完全に春になるのはまだまだ先だということを知っているが、最高気温がコンスタントに10度を超え、最低気温がコンスタントに5度を超えるようになって来るのは今回の寒さを抜けてからになるだろう。
今朝方起床した時に、自分の中にある煩悩の中でも「慢」は非常に大きなものであるなと思っていた。昨日、世親が執筆した『大乗五蘊論』を読み進めている時にもその点について内省をしていた。『大乗五蘊論』は、私たちの心の中に生じる種々の内的現象について事細かに分析をしており、本書を絶えず参照しながら内面探求をしていくことは心の成長に大いにつながるのではないかと思う。煩悩の分析とそれに付随する「随煩悩」の分析も見事で、数多くの煩悩と随煩悩がリストアップされているため、自分の心の中においてどれが最も強いものかをまず見ていくことを行っていた。その時にも「慢」の煩悩が自分が真っ先に向き合うべきものだと判断した。慢とは例えば、他人と比較して自分が優れていると思う慢心として現れることが多い。他人と比較することが無益だと頭ではわかっていることでも、ついつい他人と比較してしまう自分がいることは多くの人の中でも見られることかもしれない。いずれにせよ、『大乗五蘊論』が列挙する6つの煩悩の中ではこれが自分の中に大きなものとして存在している。他の煩悩も完全に滅却できているわけではなく、それぞれを正直に100で自己評価してみて、慢の次に取り組むべき煩悩が何かを特定してみたいと思う。随煩悩としては慢と似ているものとして、「憍(きょう)」というものが自分の中には強くあるように思える。これは一応6つの煩悩のうちの貪る心を表す「貪(とん)」から派生したものらしいが、意味としては自分が良い状態にあることに対して執着し、それを驕り高ぶって自負することである。どうやら自分の自我は慢と憍によって自らを防衛し、自己保存を図ろうとする傾向が強いようだ。本来であれば慢と憍を生んでいる根源的なものに目を向けていく必要があるが、少なくともまずはそれらの煩悩が生じた時に速やかに自覚的になることを心がけたい。そうすれば、煩悩が何か具体的な行動を伴って悪さをすることを防ぐことができ、とりあえずは煩悩を伏していくことができるだろう。
唯識思想はこのように、自分の中にある煩悩にはどのような種類があって、どれがどれほど強いのかを分析させてくれる見取り図がある。それを用いながら毎日自分の内面を見つめていくことは、一歩一歩の成長を実現させてくれるだろう。ここからは『大乗五蘊論』を日々参照し、そこで列挙されている煩悩と随煩悩は全て覚えてしまおうと思う。そうすれば日々の生活の中で逐一自分の煩悩の確認ができ、それを通じて少しずつ煩悩を減じていくことができるだろう。その結果として、煩悩に囚われないより自由で軽々とした心境で日々を生きれるに違いない。フローニンゲン:2024/3/6(水)04:01
12260. 最大の喜びと楽しさをもたらす唯識思想を用いた自己観察・内面探求
今日もまた望むだけ唯識思想の研究に打ち込んでいこう。唯識思想の研究ができると思うだけで毎日が本当に幸せであり、寝ても覚めてもこの研究に打ち込むことができる。まさに没頭状態かつ三昧状態である。もちろんこの探究が他者の解放と幸福の実現につながるものだという思いがあることが自分に大きな力をもたらしてくれていることは確かである。しかしそれ以上に、唯識思想を通じて自分の小ささや至らなさを痛感できることが何よりも楽しいのである。それは痛みではなく楽しみとして現れる。自分の成長余地を多分に発見することができる喜びと表現したらより正確だろうか。これまでも心の成長に関する探究を様々な角度から進めて来たが、これほどまでに成長余地を見出すことを手助けしてもらう思想体系は他になかったように思う。だからこそこうして毎日早朝から夜まで唯識思想の探究に没頭しているのである。他者の解放と幸福を実現するためには、まずは自らがより徹底的に解放されていく必要がある。唯識思想の中にある膨大な用語と教えにまずは習熟し、それらを駆使する形で自分の内面世界を徹底的に見つめていく。それは今の自分が最優先するべき実践であり、最大の喜びをもたらす実践でもある。
昨日、親友のメルヴィンと少しばかりVRゲームの話をしていた。メルヴィンは最近また新しく趣味を追加したようであり、偶然視聴していたYoutube上でインクペインティングと出会ったらしく、それを新たな趣味として始めたようだった。彼の店の受付に画用紙が置かれていて、実際に描いた絵を見せてもらったところ、禅アートのようでとても美しかった。インクは黒と赤しか用いていないらしく、墨絵のような美しさがそこにあった。自分もまた多趣味ではあるが、メルヴィンもまた多趣味である。そんなメルヴィンが、「VRゲームは購入することにしたの?」と問うて来た。その問いに対して、「今は仏教研究が新たな趣味になったんだよね」ということを述べた。そこからメルヴィンにも、大乗仏教瑜伽行唯識学派(the Mahayana Yogācāra School of Buddhism)とは何かを説明した。すると驚いたことにメルヴィンはその思想のエッセンスを速やかに理解し、そう言えば彼は確かに唯識思想と合致することをこれまでも頻繁に述べていたなと思った。ヨーロッパの中でもオランダは一番無宗教者の多い国であり、メルヴィンも大半のオランダ人と同じく無宗教者である。しかし、道教などには関心を前々から示しており、仏教とも何か繋がりがありそうだと改めて思った。今度メルヴィンの自宅に招いてもらう際に、唯識思想に関して実践者目線で書かれた入門書をプレゼントしようかと考えている。いずれにせよ、今はVRゲームを通じてVR世界を学問的に探究するよりも、唯識思想の探究が最も自分を喜ばせるものであり、中でも唯識思想を通じた自己観察・内面探求以上に面白いものはない。それはお金もかからず、場所を選ばずにいつでもどこでも行える利便性もある。フローニンゲン:2024/3/6(水)04:21
12261. 今朝方の夢
時刻は午前5時を迎えた。この日記を書き終えたらモーニングコーヒーを淹れ、それを片手に今日の探究活動に本格的に取り掛かり始めよう。
今朝方の夢についてまだ振り返っていなかったので、断片的に見ていたいくつかの夢を振り返っておきたい。
夢の中で私は、小中学校時代のある友人(MS)と見慣れない屋敷にいた。屋敷の中にある広々とした座敷部屋が寺子屋のような塾になっていて、そこで2人だけで勉強をしていた。彼は数学がものすごくできたのだが、そんな彼が自作のオリジナル問題を私に出題して来た。彼は手元にあるノートを私に見せてくれた。それは自由帳のようにまっさらなノートで、そこに図解入りで問題が練られていたのである。彼はおそらく相当時間をかけてその問題を作ったようだったので、彼の努力を無駄にしないためにもその問題を解いてみることにした。問題文を読み上げる彼の表情は活きいきしていて、とても嬉しそうだった。自分が作った問題を他人に解いてもらうのが嬉しかったのだろう。そんなことを思いながら、彼が作った問題に取り掛かってみたところ、思いの外に考慮しなければならない変数が多く、数式の立案がなかなか大変だった。また、それぞれの変数がどのような値を取りうるのかという閾値を設定することもなかなか難しく、これは一筋縄ではいかないぞと思った。そんな苦戦をしながら、なんとか数式を立案してみたところ、微分を用いれば一発で解が出せそうだと気づき、それを試して答えを出した。それを彼に提出したら、彼は何か席を外さないといけない用事が突然できたようだったので、一度席を外した。彼が席を立ってからも私は、果たして自分が出した答えが正しかったのかと引き続き頭の中でその問題を検証し続けていた。そのような場面があった。
その他に覚えている場面として、雪の上を走るジェットスキーのような乗り物を友人と住宅地の一角の道端で点検している場面があった。そのジェットスキーの持ち主は自分ではなく、友人の彼であり、彼はジェットスキーに詳しかったので、直面した不具合の修理も彼なら問題なく行えるだろうと思った。ところがその不具合はそう簡単に解決できるものではないということが徐々にわかって来て、私たちはしばらくその場で立ち往生をした。修理工を呼ぶ必要がありそうだぞ思ったので、私は近くに止めておいた自転車に乗って修理工を呼びに行った。
最後にもう1つ覚えているのは、見慣れない高層オフィスビルにいた場面である。どうやら私はそこで働いているらしいのだが、最近は掃除にハマっているらしく、オフィスを率先して掃除していた。特にエレベーター近くのフロアの汚れが気になったので、雑巾を持ってせっせとフロアを拭いていた。オフィスで働く同僚たちは自分のことを幾分奇怪な目で見ていたが、自分はそれが気にならず、自分がなすべき掃除に没頭することにした。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/3/6(水)05:25
12262. 煩悩の浄化に向けて
心の世界の波がとても穏やかで、平穏な海がそこに広がっているのがわかる。基本的に自分の内面世界の大海は瀬戸内海のように穏やかであるが、それでも時に波が立つことがある。それは自らの八識がもたらしたものだろう。基本的に自宅で1人で過ごしている時には波が立たないが、ふとした雑念によって波が立つことがある。今日もそれをつぶさに観察していこう。
自分の中にある貪る心はどこからやって来たのだろうか?そんな問いが立ち上がる。両親にはあまり貪る心は見られず、親子であっても異なる煩悩を持っていることが見えてくる。両親から遺伝子を受け継ぎ、両親の影響を精神的にもたくさん受けて来ているはずだが、人は1人1人それぞれの唯識世界を持つ。それを「人人(にんにん)唯識」という。唯識思想では煩悩の種類を見事にリストアップしているのだが、実践者としてやるべきことは煩悩の根元を発見し、それと向き合うことだろう。煩悩を観察するだけでも非常に効果的だが、煩悩を根こそぎ浄化させていくためには観察だけだと不十分である。そこでは多分にサイコセラピーの理論と実践技法が有効になるだろう。ある特定の煩悩が自分の過去のどのような体験や記憶と紐づいているのかを内省し、その体験や記憶と向き合っていくのである。そこではロゴセラピー的な意味からアプローチする方法もあれば、ソマティックセラピー的な身体からアプローチする方法もある。それ以外にも実に様々なアプローチがあり、それらを駆使する形で煩悩の浄化に向けた取り組みをしていきたい。
大乗仏教瑜伽行唯識学派の思想を深く学び始めるまでは、煩悩は無くならないと思っていたが、煩悩は無くすことができるのである。欲もまた完全に滅却することができるのかもしれないが、自分を含めた生きとし生けるものを幸福にするという大欲であれば、それを保持することは非常に尊いことであり、自分はその欲だけは最後まで残したいと思う。自分だけが涅槃に入るのではなく、自分が涅槃に入るのは最後でいいし、なんなら涅槃になど入らなくていいので、他者が先に涅槃の世界に寛いで欲しいと思う。自分を優先させるのではなく、あくまでも他者が先に涅槃で寛いでくれることを祈る。いずれにせよ、そのような大欲を保持しながら活動に従事する過程の中で生じる煩悩については細心の注意を払っておきたい。煩悩の詳細な理解をここからしばらく意識し、常日頃から煩悩の発生原因の根幹を突き詰めていく内省眼を持っておきたいと思う。フローニンゲン:2024/3/6(水)06:04
12263. 仏陀のような親友のメルヴィンの奉仕活動に感銘を受けて
昨日もまたオランダ人の親友のメルヴィンのことを尊敬の眼差しで眺めていた。フローニンゲンの街の中心部にある彼の店には、ひっきりなしに色々な人がやって来る。昨日は確かに少し肌寒かったが、メルヴィンは休憩がてら店の外の椅子に腰掛けてギターを弾いていた。そこにフロリダからのアメリカ人旅行客の男性が立っていて、メルヴィンと楽しそうに話をしていた。今回はたまたま旅行客であったが、普段は見知らぬ通行人とも会話をメルヴィンは楽しんでいる。それは日本ではあまり見られない光景かもしれない。日本の大都市ではいつからか、道ゆく人たちが挨拶をすることはなくなった。人口が過剰であり、道ゆく人たちと挨拶をしていたらキリがないが、オランダでは通行人と目が合ったら挨拶をするのはおかしくはない。むしろ視線が合ったのに挨拶をしないということの方が不自然であり、それは相手の存在を無視するということを意味して失礼に当たる。かつてアメリカの西海岸で生活をしていた時にも道ゆく人と視線が合ったら挨拶をすることは普通で合った。もちろんオランダや西海岸でも大都市の中でたくさんの人がいる場所を歩く際には挨拶などいちいちしないが、人が少ない場所で誰かとすれ違って視線が合った時には挨拶をするのはエチケットの一種である。今から13年前にアメリカで生活を始めた時には、まずはそうした文化現象に慣れることから始めたことが懐かしい。
昨日、メルヴィンの店に行き、いつものようにまずはダブルエスプレッソを淹れてもらってしばらく談笑を楽しんでいると、メルヴィンの店に見知らぬ人がやって来た。その男性とメルヴィンは何やら言葉を交わし、少しして彼は笑顔で店を去って行った。メルヴィン曰く、彼はホームレスとのことで、メルヴィンの社会奉仕活動の一環であるホームレスの髪を無料で切るサービスを彼も受けているのとのことだった。メルヴィンはそこから、彼は最初店にやって来た時、彼の内側に潜む怒りの感情がとても根深いものであることに気づき、対話を通じて彼の怒りを浄化していくことを実現させたという話をしてくれた。店にやって来た彼の表情を見た時に、彼がかつては怒りに塗れていた人間とは思えず、そのことに驚いた。初回の時にメルヴィンからまるで釈尊の説法かのように怒りの根源について親身になって彼と話をしたらしく、そこからも定期的に店にやって来る彼に怒りに関する話を聞いていくことを継続させていったら、今となってはもう彼は怒りに駆られて行動することがなくなったそうだ。それが彼の穏やかな表情に現れていた。彼以外にもメルヴィンの店にはたくさんのホームレスがやって来る。ホームレスの髪の毛を無償で切るだけでも素晴らしいのに、それに加えて、彼らの心の問題も対話を通じて治癒していく姿には本当に頭が下がる思いであり、ただただ感服する。メルヴィンは身近にいる最良の仏陀のように思えて来る。親友のメルヴィンの爪の垢を煎じて飲むかのように、自分も関わる人たちの心の問題の解決に少しでも役に立てるような奉仕をしていきたい。不特定多数の人の心の治癒と成長を実現させる奉仕活動としては、自分のこれまでの学びと体験を総動員する形で唯識思想を紹介していくことが最良の方法かもしれないと思う。それを具体的に実行していくためにも、ここからの一層の精進が求められる。フローニンゲン:2024/3/6(水)06:39
12264. 「唯識心理学」の探究者かつ実践者であるという自覚の芽生え
時刻は午後4時を迎えた。つい今し方、夕方の瞑想実践を終えた。瞑想実践を毎日時間帯を分けて何回も行うことで、そのたびに脳がリフレッシュされ、絶えず高い集中力を伴って唯識思想の研究ができている。もう日々の瞑想実践は完全に板についた形である。
こうして日々唯識思想の研究を進めている中でふと、自分の学問的出自として発達心理学を学んできたという歴史があることを大切にし、発達心理学の流れを汲んで唯識思想の奥深い心理学と関連づけていくという点で、「唯識心理学」を探究しているのだという自覚が芽生えた。発達心理学だけではなく、種々の心理学を学んで来た身として、それらの学びを含んで超える形で唯識思想を探究するという意味でも、「唯識心理学」の探究者かつ実践者であるという自覚を持つことが大事かと思った。唯識思想とこれまでの多様な心理学の学びを架橋させるという意味でそうした名称を思いつき、「唯識心理学者」としての歩みをこれから一歩一歩進めていきたいと思う。
唯識思想は兎にも角にも実践的な思想であるから、成人発達理論との接続も大変滑らかである。いつか成人発達理論と唯識思想を絡めた書籍を執筆するかもしれないというビジョンと小さな使命感が現れた。これもまた然るべき時期がやって来たら実現するだろう。自分から実現させようとするのではなく、それが向こうからやって来た時に自然と実現されるものとして捉えたい。
先ほど瞑想実践をする前に部屋の掃除をしていたのが、その時に「宗教とエコロジー」と「仏教倫理学」に関する洋書が部屋の隅に積まれているのを発見し、それらを机に持って来た。今からそれらに目を通してみたいと思う。それらはいずれも2年前に購入し、すでに初読を終えているが、今こうして唯識思想を探究していることもあって、きっと新たな発見が得られるであろう。フローニンゲン:2024/3/6(水)16:12
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