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タイトル一覧
12184. 起床時間について/今朝方の夢
12185. 今朝方の夢の続き
12186. 唯識研究に関するここからの学習計画
12187. 瑜伽行唯識学派への導きとライフワークとしての唯識研究
12188. 日本語と英語の中庸の道/悪取空に負けずに
12184. 起床時間について/今朝方の夢
時刻は間も無く午前4時を迎える。今朝方の起床は午前3時半で、今の自分にとってはそれくらいの時間に起きるのがベストのように思える。就寝するのが午後9時前なので、午前3時半であれば十分に睡眠が取れており、日中の活動に何の支障もきたさない。もちろん午前中と夕方の瞑想実践や昼食後の20分の仮眠のおかげで1日を通して集中力が高い状態を保てているのだと思うが、十分に脳と身体を休める上では午前3時から4時にかけて起床するのが理想的であり、早い場合でも午前2時半ぐらいまでが理想的だと言える。それらの時間よりも早くても遅くても今の自分にとっては理想的な起床ではない。ここでも中庸を心がけて、午前2時半から4時までに起床したいと思う。その日の体調に応じて1時間半の睡眠のサイクルを1回分増やすかどうかでその日の起床時間が決まる感じである。
起床直前に見ていた夢として、トイレ掃除をしている場面があった。何か雑念を取り払うかのように一心不乱にトイレを磨いている自分がいたのである。トイレ掃除をしている時の自分の集中力はすこぶる高く、トイレ掃除をしながら雑念がどんどんと消えていく感じと共に集中力の高まりを感じた。それはまるで瞑想実践に他ならないように思えた。むしろ単に座って瞑想をするよりも、トイレ掃除のように体を動かしながら集中力を高めている方がより瞑想らしいように思えた。そのような場面があったことを思い出す。その他には、3人の時間も場所も全く違う形で知り合った友人がどういうわけか一緒に行動していて、彼らに話しかける場面があった。3人は順番に、小中学校時代の友人、高校時代の友人、そして大学時代のゼミの友人である。全員メガネをかけていたが、体格はそれぞれ違うし、行っていたスポーツや趣味なども違う。そんな3人が、オフィスビルの建物の一室の左上の隅に集まっていて、テレビゲームをしていた。何をやっているのか気になって見に行ったところ、『星のカービィ』のゲームをしていた。彼らは無言でものすごく集中してゲームをしていて、一応私が後ろからやって来たことに気付いていたようだったが、私に話しかけることをせず、ゲームに没頭していた。ゲームの中でカービィが3D方向に移動することができたのを見ると、どうやらそれは最新作のようだった。カービィが自由に空間を移動する様子を見ながら、私は彼らに話しかけるのをやめ、そしてゲームを眺めるのをやめて、自分にとってはゲームよりも遥かに面白い大乗仏教瑜伽行唯識学派の勉強をしようと思って彼らからスッと離れた。そのような夢を見ていた。
最後の場面にあるように、今の自分は本当に唯識思想を学びたいのだとわかる。その学びはどんなゲームよりも面白く、楽しく、そして何より自他のためになる。今日もまたその学びに思う存分に従事しよう。フローニンゲン:2024/2/23(金)04:10
12185. 今朝方の夢の続き
まだ小鳥も鳴き声を上げず、闇が深い午前4時。今日はどうやら午後2時ごろまで強風が吹くようだ。昨日までは比較的暖かい日々を過ごしていたが、ここから来週の木曜日までは最高気温が10度に満たないようであり、最低気温も3度ほどなので少し寒さが戻る。来週の木曜日以降は最高気温がまた11度ぐらいとなり、最低気温も6度ほどとのことなので過ごしやすくなるだろう。
先ほど幾分今朝方の夢について振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。
夢の中で私は、小中高時代の親友(HO)と一緒に学校の屋上に向かって階段を上っていた。私たちは学校を散策していて、とにかく学校の中をくまなく歩いていた。屋上に到着したところ、屋上から隣の校舎には一本の通路で移動できたので、その通路を通って隣の校舎の屋上に行こうとした。すると、隣の校舎の屋上に校長先生がいることに気づき、私たちは立ち止まった。というのも、どうやら校長先生は生徒が屋上にやって来ないように監視しているようだったからだ。実際に、隣の校舎の屋上では校長先生に捕まり、詰問されている生徒の姿がちらほら見えた。なので親友と私は隣の校舎に行くことをせず、引き返すことにした。すると、たくさんの外国人観光客たちがゾロゾロと屋上に上がって来て、屋上から下の階に移動する階段が一杯になった。その階段は人が1人しか通れないぐらいの狭さであり、外国人観光客がゾロゾロと上がって来たので、私たちは下に降りれない状態になってしまったのである。ものすごい人混みで困ったなと思っていたら、突然私の身体は瞬間移動し、学校の体育館の中にいた。体育館では外国人の女性たちがサッカーをしていて、その様子を見ていると、どういうわけか体が全く動かなくなり、まるで金縛りの状態になった。彼女たちのサッカーを見ているときに食べ物を食べていたのだが、食べ物を口に入れた状態で体が動かなくなってしまい、食べ物は口に入ったままだった。金縛りの状態にある中で、サッカーをしていた女性のうちの2人が私に話しかけて来た。話しかけて来たのはいいものの、私は口を開くことができず、黙って同じ姿勢で固まっていた。彼女たちは私が金縛りになっていることに気付いていたと思うが、態度を一切変えることなく話しかけ続けていた。そして、2人のうちの1人がペナルティーキックを披露してくれ、その威力がなかなかに凄かったことに驚いた。そのような夢を見ていた。
この夢もまた興味深い公案を自分に提示している。校長先生を恐れてそちらの校舎に向かわなかった自分。校長先生という権威に立ち向かい、権威に臆することなく何かを説明することはできたはずだが、それを面倒臭いと思う自分がいたのは間違いない。そしてその心は今の自分の中にもある。対峙するべき時に権威と対峙することはできるが、平素は極力権威ある人と関わらないようにしているというのはあるだろう。そもそも権威のあるなしを問わず、人と積極的に関わることを避けている自分はずっと存在している。そうした自分の側面は、多くの他者のために活動をすることを好む自分がいる一方で、特定の他者のために活動することを好まない自分がいることと何か関係しているように思える。この点についてもひょっとしたら、今週末のシロシビン・セッションで何かヒントや示唆が得られるかもしれない。いや、真理を突き付けられるかもしれない。フローニンゲン:2024/2/23(金)04:30
12186. 唯識研究に関するここからの学習計画
時刻は午前5時を迎えた。ここから本格的に朝の研究活動に取り組む。現在は寝ても覚めても唯識思想の研究に従事しているように思う。この思想体系の奥深さと実践性には本当に心が打たれる。まさかフロイトやユングの無意識理論を遥か昔に先取りし、ピアジェやコールバーグなどの発達理論を遥か昔に先取りしていた心の理論が大乗仏教の中に存在しているとは思ってもいなかったことである。いや、これまで大乗仏教の思想に触れていく中で、どうやら発達理論の要素が多分にあるなとは感じていたのだが、まさかここまで詳細に心の特性について論じ、学問分析的な詳述を超えて実践につながる叡智が眠っていたとは。唯識思想の価値は、西洋の発達心理学では具体的に示されない実践の指示があることだろう。発達心理学はあくまでも心の発達プロセスやメカニズムを記述するためにあり、それが学問なのである。しかし唯識思想は仏教という宗教を背後に持っているおかげで、臆することなく実践の指示ができるのである。心の成長を実現していく上で、唯識思想以上の理論と実践方法を自分は知らない。
今日も引き続き、唯識思想に関する和書を読み進めていく。先日に届けられた唯識関係の専門書は全て初読を終え、再読するべき書籍も半分の折り返しにやって来た。ひょっとしたら3月もまた日本からもう数冊ほど専門書を取り寄せるかもしれない。今のところの唯識研究計画は、再来週のハーバード神学大学院(HDS)からの結果にもちろん左右されるが、HDSでの唯識研究を本格的に始める前の準備を徹底したいと思う。ここから9月までは6ヶ月も時間的なゆとりがあるので、半年の間に唯識思想に関する修士号を1つ取るぐらいのつもりで学習を進めていく。いや、これまでの自分の学術鍛錬の経験上、3ヶ月であれば十分に修士号1つを取得するぐらいの知識を獲得し、その知識を用いて思考運搬ができるという経験値があるので、9月までに1つと言わず、2つほどの修士号を唯識思想に関して取得する意気込みで学習を進めていきたい。具体的な方法としては、すでに唯識思想に関する英語の専門書は世の中に出回っているもののほぼ全てを購入しているので、それと合わせて日本語の専門書も3回、4回、5回と繰り返し読んでいく。5回か6回ぐらい繰り返し読むことができたら、もう唯識思想に関する基礎的な知識はかなり堅牢なものになっているはずだ。そうした堅牢な知識基盤をベースにして、そこからは日英の唯識思想に関する論文を調査し、できる限りの論文を読み進めていく。その過程で、博士課程での研究テーマをブラッシュアップしていったり、HDSの初年度から旺盛に執筆していく予定の査読付き論文のアイデアを醸成していきたい。とにかく今は唯識思想の研究に対する情熱が煮えたぎっている。フローニンゲン:2024/2/23(金)05:26
12187. 瑜伽行唯識学派への導きとライフワークとしての唯識研究
仏教の研究と言ってもそれは無限に広く、そして深い。それはまるで宇宙のようである。そうしたことから、自分はやはり大乗仏教瑜伽行唯識学派に焦点を当てたい。そもそも自らの出自を振り返った時に、ことごとく瑜伽行唯識学派に吸引されていく歴史を自分は生きていたのだと思う。そもそもは、仏教の思想が文化的に根付く日本という国で生まれたことである。そして心身の統合の問題に関心を持ち、とりわけ心の領域を研究しにアメリカに渡り、そこで発達心理学を修めたこと。さらには、その過程の中でヨーガのインストラクターの資格を取得したことの全てが瑜伽行唯識学派への導きかつ準備だったのではないかと思えて仕方ないのである。今、瑜伽行唯識学派の研究に向けた最後の準備段階に入っているように感じる。瑜伽行唯識学派の思想体系を本格的に学術機関で研究していくに際して、基礎知識をしっかりと自助努力で獲得しようとしている自分がいる。英語に関しては、唯識思想の専門書はほぼ入手した。日本語に関しては、古書も含めると専門書の数は膨大なものに及ぶことがわかり、今のところ入手できる限りの書籍をオランダに取り寄せて読んでいる。ここから大学院に通うことになれば、大学機関を通じて日本から高価な古書を取り寄せることもできるようになるだろう。そうすれば、特に自分が関心を持っている日本の法相唯識教学の研究が進むに違いない。
唯識研究とその実践はこれから一生をかけて取り組むようなものに思えるが、学術機関に所属しながらそれをどれだけ長く研究していくかはわからない。当面は、自分が抱く疑問に唯識思想が答えてくれる限りにおいて論文や書籍を執筆していこうと思う。例えば、唯識思想が述べる阿頼耶識は、ユングが述べるところの集合無意識とどれだけ関連性があるかという問いや、唯識思想における時間概念はどういった性質を持つものなのだろうかという問い、さらにはサイケデリック体験で生じる種々の現象について唯識思想はどのように答えてくれるのかという問いなど、個人的に関心のある問いが現在は無数にあり、それらを1つ1つ取り上げながら地味に論文を執筆していくことを楽しみたい。ひょっとしたら、そうした問いは尽きることがなく、一生唯識思想をベースにして論文を書き続けているかもしれない。どこかのタイミングで、唯識思想と西洋の意識哲学を架橋させる試みもしたい。あるいは、西洋の意識哲学で議題に上がっている種々の問題を唯識思想の観点から取り組むというのは研究の初期フェーズでも十分に行えるだろうし、それはそれで面白そうである。例えば、西洋の意識哲学で問題として取り上げられる「他我問題」は、唯識思想を用いれば相当明瞭に回答を提供できるような気がしている。自分が関心を持ち、それでいて問題の解決が誰かの役に立つようなトピックについて1つ1つ丁寧に取り組んで論文を執筆していくことをこれからのライフワークにしたいものである。フローニンゲン:2024/2/23(金)06:29
12188. 日本語と英語の中庸の道/悪取空に負けずに
今日の唯識研究も順調に進んでいる。午前中には精読をしながら2冊の専門書の再読を終えた。午後の研究活動においては気分転換に、英語での唯識の解説書に目を通し始めた。それは近々「インテグラル・サイケデリックラジオ」で扱う予定の“Living Yogacara: An Introduction to Consciousness-only Buddhism”という書籍なのだが、この書籍は一般向けに書かれているという理由だけではなく、そもそも英語が明快な言葉使いをするという意味で非常に読みやすい。もちろん日本語においては漢字の姿から意味が想像されて読解を助けることもあるが、専門書になればなるだけ日本語の方が難解で、英語の方が平易に感じられる。渡米までオランダにいる間には思う存分和書を通じても唯識思想について学んでおこうと思うのだが、一日中和書を読むと脳が疲弊しやすいので、午後には洋書を読むなどの工夫をして、言語脳を切り替えることをしたい。ここでもある特定の言語を活用するという極端な道を歩むのではなく、中庸が重要だということか。今のところ自分には日本語と英語の双方が中庸の道を歩む上で自己を支えてくれる言語になっている。そして幸いにも、学術研究における文献読解においては、正直なところもはや日本語よりも英語の方が読解力が高いのではないかと思われるところまで力が付いている。そうした特性を活かして、ここからは午前と午後には少なくとも言語を切り替えて、両者の言語を横断する形で脳を活性化させながら唯識思想について理解を深めたい。
昨日、その瞬間瞬間に開示される真実を言葉にし、実践し、行動に移していくことを積み重ねていくことしかないという気持ちが芽生えていた。確かに道は多様にあるが、その道の中でも今述べた道が自分にとって最良に輝いている。逆に、「真実などない」という形でその場で何も言葉にせず、実践せず、行動しないのは「悪取空」なのではないかと思う。そこには言葉にすることの虚無さに負け、実践することの虚無さに負け、行動することの虚無さに負けた姿がある。自分はそうした虚無を超克していきたい、せの瞬間に開示された自分の真実を言葉にし、実践し、行動に積極果敢に乗り出していく。その際に絶えず「善取空」を忘れずに、自らの言葉も実践も行動も本質的には空なのだが、空であることに対して虚無に陥らずに自他のために最善を尽くすということを日々行っていきたいものである。そのような気持ちを改めて強く持った次第だ。フローニンゲン:2024/2/23(金)13:41
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