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タイトル一覧
11974. 光に包まれての読書
11975. 今朝方の夢
11976. 今朝方の夢の続き
11977. 意識哲学とテクノロジー/唯識論と倶舎論への注目
11978. 第25回のシロシビン・セッションに向けて:シロシビンとクエン酸の組み合わせ
11979. 今朝方の夢のさらなる続き
11980. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)
11981. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)
11982. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)
11983. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)
11984. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)
11985. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)
11986. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)
11987. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)
11974. 光に包まれての読書
時刻は午前4時を迎えた。今の気温は2度で、ここから午前8時にかけて気温が下がり、0度に到達する。しかしそこから午後にかけては7度まで気温が上昇するようなので、今日もまた寒さはさほど感じないだろう。風も強くなく、穏やかな日曜日になりそうだ。
昨日はオンラインゼミナールの第64回のクラスがあった。昨日よりテーマを新たにし、神道の世界観を扱い始めた。自分としてはここで意識哲学との兼ね合いで神道を捉えていきたい。とりわけ神道の意識論と宇宙論に注目し、今探究を深めている意識哲学とのつながりや先端的なテクノロジーとの繋がりを意識したい。昨日も話題に挙がったが、テクノロジーとしてはVR技術、ブロックチェーン技術、AI技術の3つに自分は注目しており、それらの技術がもたらす体験を意識哲学の観点から考察を深めている最中で、その考察観点の提供に神道の意識論と宇宙論は大きな役割を果たしてくれるだろうと期待している。神道は仏教のように経典研究が盛んではなく、そもそも明確な経典を持たない宗教でもあるので教義の学問的研究を行うのは難しいが、川面凡児先生の古神道論には参照するべき意識論と宇宙論が眠っている。ここからのクラスではそれらを1つ1つ紐解いていき、意識哲学の研究に活かしていこうと思う次第である。その他に書き記しておくべきこととしては、昨日から新しい受講生の方が1名参加してくださったことは嬉しいことだった。ゼミナールのクラスの場にまた新しい刺激をもたらしてくれることになり、昨日のクラスは大いに盛り上がった。その方が述べていたことで印象だったのは、テキストの読解において、自分が必要とする言葉や文章が光って見えるというものだった。確かにそうした現象はあるなと思った。言葉もまた光でできており、自分の存在もまた光であるから、両者の光が共鳴・共振し合う時、自分にとって必要な言葉や文章がとりわけ強い光を発して捉えられることはあるだろう。日頃文章を読んでいる時にはきっと、私たちは各人にとって必要な言葉や文章を光として受け取っているのではないだろうか。少なくとも自分は自分が求める言葉や文章を光として受け取っている。今日の午前中の読書でも多大な光を受け取ることになるだろう。ここからの読書では、読書の最中には光を受け取っているということをより意識してみよう。また、開いたページの中で自分に訴えかけてくる強い光を放つ言葉や文章が何なのかを探すような読みをしてみよう。初読と再読の時にはひょっとしたら同じ箇所に光を感じるかもしれないし、自分が変化・成長を遂げていれば、違う箇所にも光を見出すことになるかもしれない。光を求めての読書。光との出会いとしての読書。書物の中の光は植物にとっての光と同じく、私たちを成長させてくれる不可欠な存在である。そんな光に包まれた形で今日からの読書を進めていきたい。フローニンゲン:2024/1/28(日)04:27
11975. 今朝方の夢
静けさに包まれながら、意識探究の一環としての夢の振り返りを行おうとしている。自分の無意識のさらなる解明を通じた無意識一般の解明。それに向けて夢を振り返ることは重要である。自らの無意識を扉にして、さらに奥にある集合意識の探究も行っていきたい。意識に関しては学問的研究だけではなく、実践として行いたいことが山積みで嬉しい限りである。
今朝方は夢の中で、地元の最難関公立高校に通っている場面があった。そこは確かに地元の公立高校のはずだが、建物がとても新しく、あまりにもモダンで驚いた。夢の中の私には過去の記憶が残っており、自分が実際に卒業した高校の記憶もあったので、それとの対比で驚いてしまったのだ。それだけその高校は立派な建物を持っていた。
今日から私は新入生としてその高校に通うことになり、学内はフレッシュな新入生の活気で溢れていた。靴箱に行くと、靴箱の代わりにそこはロッカールームになっていて、一人一人の生徒に縦長のロッカーがあてがわれていたので驚いた。そのロッカールームは円形になっており、360度にずらりと縦長のロッカーが並ぶ光景は圧巻だった。自分のロッカーを探そうとしたところ、ロッカーには番号も名札も何もなく、一体どのロッカーを使えばいいのか分からずに困ってしまった。その日ごとに適当に空いているロッカーを使うのかなと思って、とりあえずどこかのロッカーを使おうと思ったが、考えを改めて、一旦教室に向かうことにした。教室は、その360度のロッカーに対して30度の角度で12個ほど配置されていた。すなわち、ロッカルームの向こう側に12個の教室が均等な角度で配置されていたのである。私は最難関大学コースという12個のうちの1個しかないクラスの入試を突破しており、そのクラスに向かった。クラスメイトにどんな人がいるのか気になったし、さぞかし優秀な生徒が集まっているのだろうと思った。教室に到着すると、教室の入り口付近の机にお洒落なTシャツが綺麗に折り畳まれていくつも置かれていた。どうやらそれは部屋着として支給されているらしく、おそらく毎日新しいものが支給される形になっているようだったので心底驚いた。そのTシャツは見た目もお洒落で、質も良かったので、いったいこの高校は公立高校にもかかわらずどこから資金を得てこんな見事なTシャツを作ったり、立派な建物を作ったりしているのかと疑問に思った。
今日は最初の登校日ということもあり、入学式でもあるのかなと思っていたが。そのようなものはなく、生徒も入学式などには何も期待しておらず、とにかく早く学びたいという意欲を強く持っているようだった。実際に、自己紹介すらもほとんどない形で数学の授業が始まった。そこは最難関大学を目指す生徒たちの集まるクラスでもあったので、登校日初日の最初の数学の授業からいきなり難関大学の問題を生徒に解かせ、黒板に板書させて発表させるという内容だった。私の右隣の席には東大経済学部を卒業した友人がいて、彼は難関大学の問題をとてもエレガントに解き、見事な板書を簡潔に行ってみんなを驚かせた。何やら1年生ながらクラスには勉強に関して色々と凄そうな人たちがまだまだいそうで面白そうだなと思ったところで場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/28(日)04:43
11976. 今朝方の夢の続き
今し方今朝方の夢について振り返っていたが、振り返りの筆を置いた途端に夢の続きを思い出した。先ほど振り返っていた高校を舞台にした夢はまだまだ内容として続きがあったのである。
夢の中で私は、地元の最難関公立高校に通っていて、最初の数学の授業が終わった後に、サッカーの特別授業に参加することになっていた。その高校は学業のみならず部活にも力を入れていて、サッカーに関してはブラジルからコーチを雇ったり、ブラジルのサッカー強豪校と遠征試合をするなど、サッカーに関してかなり力を入れていた。実際にはサッカーのみならず、スポーツ全ての部活に多大な支援をしていて、どの部活も施設を含めて申し分なかった。
早速私はサッカー部の練習施設を訪れることにした。施設としては屋内コートと屋外コートの2つを完備しており、屋外コートは数面を要する広さを持っており、屋内コートについても機能は充実していた。屋内コートがある場所は建物の2階だったので階段を使えばすぐだったが、エレベーターを使ってみたい気分だったのでエレベーターを使うことにした。エレベーターに乗ると、すぐさま3人の日系ブラジル人が乗ってきた。どうやら彼らは今遠征してうちの高校にやって来ているようで、これから練習試合を行う相手の選手なのだなと思った。私は挨拶を英語で行ったが、彼らは完全に私の挨拶を無視したが、ラグビーのニュージーランド代表のハカの掛け声のようなものを発して私を威嚇して来た。彼らは私とは視線を合わせずに、エレベーターの前だけを見て威嚇するような声を発したのである。彼らが威嚇の声を発して自分の身が少しすくみそうになり、ハカを含めて声の持つ力を感じた。するとエレベーターのドアが空き、屋内コートの受付に到着した。3人のブラジル選手は受付を顔パスし、さっさとコートの方に消えていった。彼らの後ろ姿を見ながらゆっくりと受付に向かって歩いていくと、受付には小柄な中年男性がいた。どうやらその男性がコートの製作元の会社の社長をしているようだった。そんな社長が受付の係りの仕事もやっていたのである。その男性はまず私に新入生かと尋ねて来て、そうだと答えると、そこからはとても親切にコートの歴史や利用方法について説明をしてくれた。そして話の途中で、その社長の会社が作ったお菓子を提供してくれた。その社長の会社はサッカーの屋内コートの製造だけではなく、自社ブランドとしてお菓子も作っているようで、随分事業領域の異なる多角化された会社なのだなと思った。社長が出してくれたのはチョコチップが入ったクッキーで、私は間食をしない習慣があったが、出されたものを断るのも気が引けたので、1つクッキーをもらった。それを一口で食べると、クッキーの生地の食感と選び抜かれた質の高いチョコレートが見事なマッチングをしており、思わず舌鼓を打った。「これはすごくおいしいですね」と述べた瞬間に、後ろから同じくサッカー部に入部希望の数人の友人がやって来て、彼らに対してもその社長はお菓子を提供した。そこにいた小中高時代の親友の1人(HO)は崩れやすいクッキーを選び、生地をポロポロと地面に落としながらも美味しそうに食べていた。全員お菓子を少し食べたところで、受付でコートの利用についてさらに詳しく聞いて、早速サッカーの練習に力を入れようと思ったところで夢の場面が変わった。フローニンゲン:2024/1/28(日)05:02
11977. 意識哲学とテクノロジー/唯識論と倶舎論への注目
サイケデリクスを通じて意識を研究すること。意識哲学を通じてサイケデリクスを研究すること。先端的テクノロジーを通じて意識を研究すること。意識哲学を通じてテクノロジーを研究すること。自分はそれらの研究に従事しながら日々歩みを進めている。先端的なテクノロジーには様々なものがあるが、VR技術、ブロックチェーン技術、AI技術の3つは特に注目しており、その中でも直接体験をしやすいVR技術とAI技術はとりわけ注目している。AIとは物理的な世界の中でインタラクションすることが現状は多いかもしれないが、VR技術との掛け合わせで、今後はメタバース空間の中でAIとインタラクションすることが多くなってくるだろう。サイケデリクスと同様に、自分の内面現象と深く結びついた直接体験をさせてくれる2つの技術にはとりわけ注目をし、実際に自らも直接体験を積みながら意識とリアリティに対して考察を深めていきたいと思う。
これまで大乗仏教の中観派の思想に関しては色々なところで接して来ていたが、今特に注目しているのは唯識派の思想である。「唯識三年、倶舎八年」という言葉があるように、倶舎論を8年かけて学んでいれば、唯識論は3年で理解できると解釈されたり、純粋に唯識を学ぶには3年、倶舎を学には8年かかると解釈されるらしい。今自分が取り組もうとしているのは少なくとも3年はかかると言われている唯識思想である。当然ながらその習得度合いはその人が注いだ情熱と時間など、様々な要因が絡んでくるので一概に3年で理解できるという単純な捉え方をしてはならないだろうが、それくらいの時間をかけても取り組むに値するものだと今の自分は考えている。今後は倶舎論も学んでみたいという探究意欲が湧いてくる。そもそも倶舎論は、世親(ヴァスバンドゥ)が記した上座部仏教の教理の集大成である。この著作物は後の大乗仏教の教学の発展に大きな功績を果たしたという点においても注目に値する。日本語では「阿毘達磨倶舎論」と呼ばれることも多く、英語では“Abhidharmakośa”と呼ばれる。英語翻訳で何か良書はないかを早速調べてみよう。それに加えて、唯識思想の経典でもある『唯識三十頌(Triṃśikā vijñapti-kārikā)』も英語翻訳でまずは読んでみたいと思う。
唯識思想における「唯識」とは、「唯物」でも「唯心」でもない。唯物思想はまさに物質主義的な考え方で、唯心論は素朴な観念主義的な考え方である。それでは唯識とは何なのだろうか。今のところ、物と心の双方が意識であるという意味としてそれを解釈している。対象として見る物もそれを見ている自分の心もまた意識としての映像であるという考え方は、素朴な観念主義を超えた形でバーナード・カストラップが提唱した分析的観念主義に重なる。「識」という単語の作りにあるように、そこには「言」が含まれている。そこからも言語と意識との密接な関係が見えてくる。意識にはもちろん言語を超えた性質と働きがあるが、言葉と意識、さらにはリアリティとの間には深い関係がある。今日もまた唯識思想を自分の認識枠組みとして1日の生活を送ってみようと思う。全ては意識の中の出来事であり、意識の中に物も心も生起する。フローニンゲン:2024/1/28(日)06:08
11978. 第25回のシロシビン・セッションに向けて:シロシビンとクエン酸の組み合わせ
リアルの充実。これまでの無学な自分はリアルを物理的世界に限定する傾向があったが、今はもうそのようなことはない。ヴァーチャル世界もまた等しくリアルなのである。リアルにはフィジカルとヴァーチャルの双方が含まれる。本日行うシロシビン・セッションは、フィジカルとヴァーチャルの双方を含むサイケデリック世界と表現できるだろうか。ヴァーチャルとは単にデジタル上の世界のことを指すのではなく、物理的な制約に囚われない意識世界のことを指す。そうなってくると、フィジカル、ヴァーチャル、サイケデリックの世界も全て「識」的世界なのだと言えるかもしれない。それを思う時、ますます唯識思想の奥深さが見えてくる。ヴァーチャル世界とサイケデリック世界で知覚されるものは全てリアルである。そこで生起する様々な対象もまた識の中にあるリアルな存在である。それらの存在もまた仮の空的な存在で、刻一刻と移り過ぎていく。さて、今日の第25回のシロシビン・セッションではどのようなリアリが知覚されるだろうか。それが今から楽しみである。過度な期待を抱かずに、それでいて意識哲学の研究に繋がる体験と発見が得られればと思う。
前回と前々回はマサテコ族の摂取方法であるカカオとシロシビン・マッシュルームを混ぜる形で摂取したが、親友のメルヴィンが進めるレモン汁と和えた形での摂取を試してみたい。カカオとレモンは味的にあまり相性が良くないかもしれないと思ったので、レモン汁との相性が良さそうな八丁味噌を和えてみたいと思う。メルヴィン曰く、そして自分でも調査したところ、レモンに含まれるクエン酸がシロシビンをシロシンに分解する速度を早めてくれるらしく、体験に早く入ることができ、体験の強度も高めてくれるとのことである。シロシビンとクエン酸との反応に関してはまだまだ研究は少ないが、様々な体験者のレポートからすると、メルヴィンが述べることの確からしさは一定程度あるので、実際に自分でも試してみたいと思う。そもそもシロシビン・マッシュルームの細胞の壁は固く、シロシビンはもシロシンも壁の内側にある。なので今日はとりわけいつも以上にまな板の上でマッシュルームを細かく刻み、細かく刻んだマッシュルームをカップに入れて、そこにレモン汁を入れてしばらく浸したいと思う。そこに白湯と八丁味噌を加える形でセッションを始めたいと思う。今日もこうして新しい実験をすることを通じて、少しでも今後のシロシビン・セッションをより有意義なものにしたいと思う。フローニンゲン:2024/1/28(日)07:18
11979. 今朝方の夢のさらなる続き
今日も早朝からつらつらと日記を執筆し続けていた。それがきっと今日のシロシビン・セッションにも良い影響を与えるだろう。夢の振り返りについてまた新たな場面を想起することができたのでそれについても書き留めておきたい。とにかく自分の意識の中で生起することはできるだけ克明に書き記しておきたいと思う。書き記すという行為そのものが自らの意識の探究につながり、人間意識の研究に繋がる。
夢の中で私は、地元の最難関公立高校に通っていて、その日は全学年の全クラス対抗のスポーツフェスティバルが行われることになっていた。私は運動が得意で、クラスメイトの多くがそのことを知っていたので、自分に対する大きな期待を感じていた。その期待に応えることそのものも楽しく、喜びをもたらすものだったし、期待を度外視して純粋にスポーツを楽しむことを行いたいと思った。残念ながら今回のスポーツフェスティバルでは自分の得意な水泳は含まれていないらしかったので、その代わりに球技の方で活躍をしようと思った。バスケとサッカーの両方に参加できれば参加することにし、クラスに貢献したいと思った。すると、クラスメイトの1人に小中学校時代の女性友達(AO)がいて、彼女が私の活躍に応じてお金を請求して来た。自分が大して活躍できなかったら請求金額が大きくなり、十分活躍したら請求金額が下がるような申し出を彼女がして来た。活躍しても結局何かしらの金額が請求されることを面白く思い、彼女は少しお金に困っているようでもあったので、その申し出に乗ってみることにした。すると今回の活躍度合いからすると、1万2千円ほどの請求金額になるとのことで、彼女にその金額を渡そうと思った。立派な校内にはATMがいくつか設置されていて、自分の提携先銀行のATMのところに行こうと思った。すると、ATMの向こう側に川を架ける橋があり、その橋の向こうの世界が気になったので、ATMでお金を下ろすよりも先に橋を渡って行こうとした。すると場面が変わった。
次の場面でも同じくその高校の建物の中にいた。私は教室の席に腰掛けていて、後ろを向いていた。そこに1人の若い女性の大学教授が座っていて、彼女と空の思想について話をしていた。私はまだ高校1年生であったが、空の思想には何か取り憑かれるようにして勉強をしていたので、私がその若い教授に空の思想に関するレクチャーを提供していた。空の思想について語れば語るだけ、その思想の奥深さが湧き上がって来て、私は思わず感極まって涙をこぼした。その様子を見て、その女性教授は黙ってうなづきながら、自分の次の言葉を静かに待ってくれていた。私はポロリと滴り落ちる涙を拭いながら、喜びと楽しさの感情に満たされた形で空の思想についての説明を続けた。そのような場面があったのを覚えている。フローニンゲン:2024/1/28(日)07:40
11980. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その1)
時刻は午後6時を迎えた。つい先ほど夕食を摂り終えた。シロシビン・セッションの日は1日ファスティングをする形となり、朝食も昼食も摂取していないので、早めの夕食を摂った。毎回ながらこの夕食が心底深いグラウンディングをさせてくれる。食事には本当に感謝しないといけない。食事を貪る心を戒めながら、今日はいつもよりも軽めの夕食とした。いつも昼食に食べているリンゴとバナナを食べた後に茹で野菜を作った。それに加えて、納豆と豆腐をいただく形でゆっくりと食事を味わった。それだけでもう十分であった。十分に満たされた感覚があった。満たされたと思ったらそこで摂取するのは控えるべきである。何事も程々に。
今からゆっくりと今日のセッションを振り返りたい。これまでのセッション後には大抵、夕食までにも2つか3つぐらいの振り返りの日記を書いていたのだが、今日はそのような精神的・魂的・霊的な余力が一切なかった。こんなことは初めてであった。今日のセッションは極めて危ないものだった。数年ぶりに危ない橋を渡ったように思う。自我の溶解というのは本当に侮ってはない。自我はなんとかして我執を発揮してこの世界に留まろうとし、一方のシロシビンとシロシンは有無を言わさずに自我を溶解させる方向に働きかけをする。そのせめぎ合いがまるで地獄のように感じられる瞬間があった。正直なところ、最大1時間か1時間半は言語で定義できる自我が完全に焼失・消失し、それにも関わらず意識は明晰にありありと存在するという状態があった。それは実存的な恐怖として知覚されたが、もうそれを受け入れるしかなかった。
無限。無限になることの怖さ。コスミックコンシャスネスと一体化することの極大的な恐怖を味わった。無限になることやコスミックコンシャスネスと合一することは理想的なことではなかったか。それは喧伝された神話的な事柄だったのだ。今の自分にとってそれは恐怖でしかなかった。毎回ながら、自分という人間のちっぽけさを感じる。器の小ささ。自我のなんと大きなことか。なんと我執だらけなことか。実存的かつ霊的な恥の感覚。それをまざまざと感じさせられながら、結局はもう立ち上がって前に進むしかないのだと思う。ゆっくりとゆっくりと。
何が最も恐怖であっただろうか。無限は本当に危ない。無限になどにうかつに手を出したらダメだったのだ。無限をうかつに学ぶことは本当に避けるべきで、慎重に無限について学ぶべきだったのだか。コスミックインフォメーション。なぜ自分の脳が完全に純粋な「識」に溶け出していき、そこに膨大な宇宙情報が流れ込んできたのか。繰り返しになるが、自分にはそのような情報を受け取れるだけの、そして咀嚼できるだけの、さらにはこの世界に役立てるための器と度量がないのである。なのになぜあのような膨大無辺な情報が流れ込んできたのだろうか。あれは脳に流れ込んできたのではなく、自分の純粋意識に流れ込んできたのか。はたまた純粋意識と自己が化した瞬間に生じる現象なのだろうか。仮に脳に流れ込んできたのであれば、あの瞬間の脳はもはや物理的な脳を超えて、量子的な脳、あるいは宇宙的な脳、すなわちコスミックブレインと化していた。それは無理だ。自分には無理だという声が何度も聞こえて来たが。体験は宇宙の無限拡張の波の如く有無を言わさずに継続した。フローニンゲン:2024/1/28(日)18:18
11981. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その2)
書き留めておかなければならないこと。今後の自分のためにも、そしていつか自分と同じような道を進ことになった宿業を背負った人のためにも。今日のセッションは何が危なかったのだろか。唯識思想がまごうことなき真理であることの危険さ。唯識は危ない。危ないほどに真理であり、それを直接体験してしまったら本当に危ないのだ。自分にはまだ準備が足りなかったのだ。
コスミックブレインと化し、自我が無限という存在に溶解し、本当に純粋な識と化した時、全てが流れ込んできた。文字通り全てが。おそらく自分のスピリットにとって、純粋意識としてのアートマンにとって必要な全てが。
宇宙の万有を保存し、万有の展開の根本体である阿頼耶識に迂闊に触れることの危なさ。阿頼耶識には本当に敬意を払わなければならない。それにたやすく触れようとしてはならない。それは極めて危ない。
無限に触れ、阿頼耶識に触れて以降の1時間か1時間半は、完全に自我が消失していながらにして純粋意識だけがあった。自我が完全に消失する?そんなことが本当にあるのである。すると完全なる純粋意識としてこの世界の全てを目撃する存在だけが残る。それは時間も空間も超えていて、普遍意識と合一しながら、同時にその一部としてこの世界を眺めていた。日本語でも英語でも規定できない言語道断な存在としての純粋な自己。それをおそらく今回完全に体験した。それはこの世界の全ての記号にもなれるX(エックス)であった。Xになることの恐怖。Xとしての自己は全てになれる一方で、何ものでもない。Xとしての自己こそ仮の空的存在として定義できるものだったのだ。仮の空的存在はXとして表現できるのだ。自分はほんとうにXだったし、常にXなのだ。生まれた時から肉体が消滅した後も。
体験の途中、時間がもう無限のように続くような感じがして、そして時間が逆行しているような感じがして枕元のスマホを確認した時、確認された時刻は確かにデジタルで時刻を表示していたが、その時の自分にとってはその時間もまたXだったし、自分はその時間であったし、スマホでもあった。これはもう自己の保存が危ないと思って一度立ち上がってトイレに向かったが、ふと見た手の指が6本あるように思えた。「人間の指は6本だったか?」という想念が芽生えた瞬間があった。トイレに入り、便座に腰掛けて用を足した時、肉体がトイレの壁を通り抜けることができそうな感覚があって恐怖だった。覗いた便器に自分が合一してしまいそうで恐怖だった。非二元の本質とその恐ろしさ。自己が純粋意識と化し、宇宙そのものと非二元となり、自己がXとなったのであれば、肉体が壁と同一化したり、それをすり抜けたり、はたまたトイレの便器になることが可能になるし、それが実現されても自己を保存できると言えるだろうか。その時に自我はもう黙って沈黙していたが、自我の残り香の最後の抵抗のようなものが一片の塵のようなものとして知覚された。トイレから無事にベッドに戻って来てもなおもさらに体験が続き、それは本当に危険な綱の上を渡り続けるような体験だった。フローニンゲン:2024/1/28(日)18:41
11982. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その3)
今後のシロシビン・セッションがあるのかもはやわからないぐらいに危険だった今日のセッション。危険ゆえの実りもあったことは確かであり、命を賭けて取り組むなどという軽口は叩かない方がいいと思った一方で、自分は本当に命を賭けているのだなと思ったことも確かだ。自分の命は、庭の花々や雑草、そして通りに落ちている犬の糞と全く同じものである。それらは全て等しく尊く、同時に全て儚い。星空としての自己。自己としての星空。
もう2つほど振り返りの日記を書いたのだが、まだまだあの恐怖体験を思い出す。そして、あれは果たして本当に恐怖体験だったのかとも思う。今日の自分の度量衡を遥かに超える体験だったことは確かであり、あの体験を受け止め、咀嚼できるだけの器を磨いていくことにここからの自分は向かうのだろうか。もう自分ではそれを判断したくない。それこそ天命に任せるべきである。
何度も繰り返しになるが、あのX(エックス)と化す知覚体験は何だったのだろうか。自分には実は脳も身体もないということに気付いてしまった恐怖。そう純粋意識として1点としての自己には本当に脳も身体も必要ないのである。そんなことが信じられるだろうか。それは信じる信じないを超えて、それが真理であることを突きつけられたことの絶対恐怖。そう、それが絶対的な恐怖だった。話には聞いていたように思う。すでに書物を通じて学んでいたように思う。そして自らの浅薄ながらの考察を通じて知っていたようにも思う。純粋意識に脳も身体もいらないということを。それは脳と身体を超えていて、脳と身体は純粋意識のフィルター及びそれが収まる一時の容器でしかなかったのだ。
昨日のゼミナールの中で幽体離脱のテーマが挙がった。自分はそのような体験は記憶の限りないと述べたように思う。その翌日の今日、純粋意識が脳と身体を離れて旅立った。それが本当に危ないことのように思えた。付着。定着。粘着。この宇宙の普遍意識上にただ一つの固有のアートマンとしての自己の純粋意識がなぜどのようにこの脳と身体に降り立つのか。そして一時的にそこに留まるのか。それは最大の謎である。
一体全体、どこの誰が阿頼耶識などという言葉を名付けたのだろうか。天才過ぎるし、宇宙的過ぎるし、真理的過ぎる。その言葉は本当に危ない。誰がそんな危ない名付けをしたのだろうか。絶対的な真理を指す言葉は本当に危ない。真理的過ぎて危ないということがあるということ。真理は絶対恐怖。真理は絶対破壊に繋がる。ゆえに真理は絶対創造に転じる。
阿頼耶識の実在。宇宙万有の展開の根源とされる意識的主体。そう、それは意識だったのだ。そう、それは普遍意識だったのだ。本当に、一体どこの誰がそれを最初に知覚体験したのだろうか。それを最初に知覚体験した先人の誰かには感服であるし、最大の敬意しかない。仮に自分が最初にそれを知覚した人間だったら、理解不能で自尽していた可能性すらある。それは必ず自らに自決を迫っただろう。
宇宙全体になることの恐怖と危うさ。世間で宇宙万有と一体化することを喧伝することはやめてほしいと思うし、自分もそのような軽口を決して叩いてならないと思った。自我が消失し、自己が宇宙全体となることは涅槃的三昧なのかもしれないが、それと自決はほぼ同義のように思える体験をさせられた。涅槃寂静と自尽は等号で結ばれ、両者はイコールなのではないだろうか。今の自分のような未熟者には本当に、本当に、本当に危ない知覚現象体験であった。禅が述べる魔境体験は、サトル次元で知覚される諸々の内的ビジョンに囚われることを指す場合が多いが、今日自分が体験したのはコーザル次元の魔境を超え、目撃者の次元の魔境を超え、非二元の魔境であった。それくらいの究極的な魔境が存在するということを意識探究上の地図に記録しておきたい。フローニンゲン:2024/1/28(日)18:58
11983. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その4)
今日の振り返りは危険と恐怖しかないのだろうか。自己。自己はユーモアを本分とするはず。ユーモアの心よ、どうか自分のもとに戻って来てくれないだろうか。
クエン酸とシロシビン・マッシュルームを合わせて摂取することを推奨してくれたメルヴィン。メルヴィンには本当に感謝した。結局その組み合わせを試したのは自分なのである。そう、この組み合わせが化学的に本当に真理だったのである。なぜこの宇宙上に誕生したクエン酸とシロシビンを組み合わせるとシロシビンがシロンシンに転換促進され、あのような体験がなされるのか。そもそも「クエン酸」も「シロシビン」も「シロシン」も人間が名付けただけに過ぎず、同時にそれらは識なのである。識。識。識なのだ。全ては本当に識の中で生起する識だったのだ!繰り返しになるが、薫習的に今の自分と将来の自分、そして同じような道を歩むこの世界の誰かに向けて書き留めておきたいのは、全ては識の中の識的現象だったのだ。心象現象も物理現象も、心も物も識の中にある識だったのだ。今、そのことを書き留めた瞬間に、パソコンのキーボードを打つ手を止めて、思わず顔を手で覆った。絶対的な真理に対しての驚きと畏怖の念から咄嗟に出た行為だった。
一体どこの誰がシロシビン・セッションを隔週で行うと決めたのだろう。自我にも優したく接したいが、どこのどあほうがそのようなことを述べて自らに課そうとしたのだろうか。どうするべきだろうか。これからのセッションはどうするべきだろうか。少しテクニカルなことを書き留めておきたい。今日は午前10時前までに、“The Upanisads: A complete guide” “The philosophy of the Brahma-sutra: An introduction” “Vātsyāyana's commentary on the Nyāya-sūtra: A guide” “Upanisads”の4冊の初読を行っていた。学ぶことが知的貪欲さという貪る行為なのであれば、真っ先にやめるべきだと思った。自分は果たして学者たり得るのだろうか。自分は何かを学ぶ資格のある人間なのだろうか。学ぶことに資格などないと言われるかもしれないが、自分のような人間が何か重要なこと、とりわけ真理など学んではならないのではないかと思った。Xの恐怖。Xは無限で、Xは空。自分の知識空間が本当に無限と化し、無限の情報と知識が流入して来た恐怖。前言撤回として、テクニカルな内容は次の日記に譲ることにする。知覚された無限の情報と知識の流入体験は、恐怖極まりないものだった。あれだけ自分は何かを学ぶことに一生懸命ではなかっただろうか。少しでも真理を掴み、それをこの世界に役立てようと志して学びを進めようとしていなかっただろうか。いざ、無限の絶対真理の世界に放り込まれると怖気づくのだろうか。今の自分はまだそのような存在である。
だからなぜあのような宇宙的知覚現象が存在するのか、なぜあのような知覚現象が実在するのかはもう分からずお手上げである。物理宇宙ではなく、普遍宇宙としての形なき無限に同化することの、そうなることの・・・。「恐怖」以外の言葉が欲しい。フローニンゲン:2024/1/28(日)19:14
11984. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その5)
自我が完全消失し、自らがX(エックス)と化した時、日本語や英語ではなく、サンスクリット語とパーリ語が溢れて来た。脳内にそれが完全にインストールされるかのように、インド哲学の根幹にある両者の言語が脳内に流れ込み、脳がサンスクリット語とパーリ語と化したのである。それらの言語についてはまだ何も学んでいないのに。
言語学者のノーム・チョムスキーが提唱した普遍文法。どうやらそれもまた真理のようなのだ。まだ学んだことのないサンスクリット語とパーリ語が自分にも習得できてしまう可能性があることはよくよく考えると驚くべきことで、不可思議なことである。宇宙は言語で出来ている。それは自然言語に限らず、音楽言語、数学言語、プログラミング言語などの総体としての言語である。だからあの体験はcosmic linguistic experienceだったのだ。だからあれはコスミックインフォメーション的な体験だったのだ。明日からの自分は大丈夫だろうか。きっと大丈夫だろうと落ち着いた今なら言えそうだ。とにかく地に足を着けて歩みを一歩一歩進めていくこと。いや進めなくてもいいのである。立ち止まっていてもいいし、後ろに下がってもいいのである。前にだけ進もうとするのはどあほうのすることだ。
今日は本当に死ぬかと思った。なんとか自尽を防いだのは、まごうことなき「感謝」という言葉だった。ずっと、ずっと、「感謝」と心の中で念じ続けていた。それだけが自己をこの世界に留めさせてくれた。自決を踏みとどめ、渡ってはならない橋の向こうに行くことを押し留めてくれたのは「感謝」という言葉だけだった。本当にその言葉だけだった。その言葉がなければ、もう自分はこの世にいなかったかもしれない。「阿頼耶識」と同様に、感謝という言葉を名付けくれた先人に感謝。その先人に命を救われた。そう言えば、今朝方の夢の中で川を架ける橋の向こうに行こうとして夢の場面が変わった瞬間があったのを覚えている。あの川は三途の川だったのだろうか。三途の川を架ける橋の向こう。それはまだ自分が行くべきところではないようだ。
顕在意識と潜在意識の融合。これもまた方法を誤るとかなり危ない。とにかく今の自分は力量不足であるし、器が小さいのである。そんな自分が集合意識を含む潜在意識と顕在意識を融合などさせてはならないのである。融合させたが最後、自己はその膨大な意識情報に飲まれ、塵に化すだろう。そう思う瞬間があった。
迂回しながら、talk aboutではなく、talk aroundしながら、何かを書き留めようとする自己。意識を探究した碩学たちへの感謝。ここでもやはり感謝か。感謝の念しか湧いてこない。それが湧いてくる自己がいたことが命を救った。感謝の念は、自分にとって命綱であった。それは本当に今後も大切にしていかなければならない。フローニンゲン:2024/1/28(日)19:30
11985. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その6)
今日のような体験をまたしたいかと問われれば、当分御免である。絶対的真理に触れ、普遍意識と化す体験は当分御免である。今後のセッションでそれを免じてもらえるだろうか。
今日のセッションでは、まず完全乾燥させたシロシビン・マッシュルーム5.3gほどをまな板の上で包丁で微塵切りにした。ここ数回のセッションではそれほど細かく刻むことはなく、カカオドリンクを作ってそこに和えて、口の中でよく噛むことを通じて摂取していた。当初の予定では、今日はクエン酸が豊富なレモン汁と八丁味噌を和えて摂取しようと思っていたのだが、レモン汁だけですっきり飲むことができそうだと分かったので、八丁味噌と和えることはしなかった。結果的にクエン酸が豊富に含まれたレモン汁と微塵切りしたシロシビン・マッシュルームが特大な効力を発揮することになると知ったのは、摂取を終えて体験に入ってからであった。これもまた将来の自分と自分と似たような道を辿る人のために書き留めておきたいが、クエン酸とシロシビン・マッシュルームの組み合わせは、とりわけシロシビン・マッシュルームの服用量に注意するべきである。これまでずっと、テレンス・マッケナが提唱する「英雄の服用量」である5gほどの完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームを摂取して来た。もちろんシロシビン・マッシュルームは今のところ発見されているものだけで200種類ぐらいあり、品種ごとにシロシビンとシロシンの含有量が異なるので、品種ごとの含有量を調べた上で服用量を決定していくのが望ましい。今自分が継続的に摂取しているのは、200種類の品種の中でも最もシロシビンとシロシンの含有量が多いとされる“Psilocybe azurescens”という品種である。この品種を選んで摂取する場合には、本当に服用量を慎重に決定するべきである。今日のようにシロシビン・マッシュルームを微塵切りしたことによって、マッシュルームの細胞の壁の内側にあるシロシビンがいつも以上にドリンクに溶け出して来たのだと思う。どのように調理したかというと、細かく微塵切りした5.3gのマッシュルームをガラスコップに入れ、そこにレモン汁を十分に加え、その上に白湯ぐらいの温度のお湯を100gほど加えた。その後、10分ぐらい待った上でドリンクを飲んだ。そうした形で摂取したシロシビン・マッシュルームがここまで書き留めて来たような体験をもたらした。もちろん知覚体験は服用量だけではなく、セットとセッティングという変数から影響を受け、さらには潜在的に隠れた変数によっても左右されることになる。とにかく今日のセッションは無限であり、Xであり、同時に「?」でもあった。自己も宇宙も無限であり、Xであり、?であるという真理を教えてもらったことは最大の収穫だったと言えるだろうか。フローニンゲン:2024/1/28(日)19:44
11986. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その7)
ここから自分はどうなるのだろうか。ここから自分はどのような人生を送るのだろうか。少し前までの自分はトランスヒューマンやポストヒューマンの方向に向かって生きていると思っていたが、こうした軽口も叩かない方が良さそうである。人間を超え出ていくことは危険であるということ。今しばらくは人間としてこの世界に留まっておくべきではないかという思い。人間としてこの世界に留まりながら、この世界に対してできる自分なりの貢献を果たしていくべきではないだろうかという思い。今世において自分は人間として生まれた。やはりその事実を真摯に受け止めて、人間として生きる中でこの世界に貢献していくべきではないだろうか。人間を止めることを宣言していたかつての自分はもういない。人間でいることへの感謝。自分はもう人間でいいのである。人間ではない存在に向かうことは慎むべきである。いつかどこかの誰かにそれを任せればいいし、この宇宙の他の生命体に人間を超えてもらうことを任せればいい。自分にはそれは出来ないし、もうそれは望まない。人間であることへの賛歌が聞こえてくる。人間であることもまた尊いことであると受け止めたい。自分は普遍意識にだって、スマホにだって、14:23という時間にだって、トイレの便器にだってなれることを知った。しかしそれらになることをせずに自分は人間としてしばらく生きておきたい。せっかく与えてもらった命があるのだから。上記で列挙したうちの普遍意識にだけは、今後ゆっくりとでいいので、それを自らの純粋意識と同じものとして感じられるように生きたいとも思う。アートマンはブラフマンなり。ウパニシャッド哲学の核心的原理である梵我一如。だからこうした絶対的な真理が本当に危ないのである。梵我一如の直接体験は、宇宙空間上においてブラックホールに吸い込まれるような体験である。きっとそのように喩えられると思われる。自分はかつてブラックホールに吸い込まれた星屑だったのだろうか。ブラックホールに吸い込まれた星屑としての記憶があるがゆえに、絶対無に帰する梵我一如体験を恐れたのかもしれない。世間にはこの体験をワンネスとして称して必死に求めようとする人がいるのが信じられない。そう、それは本当に「必死」である。必ず死ぬのである。よくぞ自分の純粋意識は生還してくれた。よくぞ自分の純粋意識は命を留めてくれた。純粋意識は命なり。きっとそれは梵我一如になっても不滅なのだろう。なぜなら純粋意識は最初から最後まで、そして未来永劫普遍意識であり続けるのだから。フローニンゲン:2024/1/28(日)19:58
11987. 第25回のシロシビン・セッションの振り返り(その8)
この日記を一応最後にして、ゆっくり入浴して今日も早めに就寝しよう。とにかく感謝。生きていることに感謝。全てに感謝。スマホにも、14:23にも、トイレの便器にでもなれるし、そのようにこの世界に誕生しても良かったはずなのに、「加藤洋平」という名前を受けた人間として生まれてこれたことに感謝。いや、本当にスマホでも、14:23でも、トイレの便器でもよかったはずなのだ。それなのに自分はこうして人間としてこの世に生まれ、いっときの命を与えてもらったのである。肉体としての命はいつか尽きる。しかし本当に純粋意識としての命は尽きないことがわかった。それが霊魂不滅と呼ばれる所以である。肉体としての命が尽きた時、この世界を目撃する者として純粋意識としての自己が保存されるかは怪しい。では何が不滅なのか。大海の中の泡沫としての目撃者としての純粋意識は最初から大海そのものであり、その大海が不滅なのだ。それをもって、自己滅却と自己不滅は同義なものとして同時成立するのである。
これまでは隔週の日曜日にシロシビン・セッションを行っていたが、今後はどうするべきか悩むところである。今日のような体験をするぐらいならもうセッションはやめた方がいいように思うし、さらに先に進むことを求められているような気がする。少なくともクエン酸と一緒であれば、完全乾燥させたシロシビン・マッシュルームの服用量は、英雄の服用量の半分の2.5gで十分かもしれない。しばらくはハイドースのセッションは控えるべきのように思える。もちろん2週間後に自分がどう考えるかはわからないのだが。クエン酸を組み合わせると、確かにピーク体験を迎える時間が速やかだった。事前の情報ではセッションの時間そのものも少し短くなると書かれていたが、今回に限っては決してそのようなことはなく、6時間強は何も出来ないぐらいの体験が続いていた。いつもは体験後に振り返りの日記を書いていたが、今日はそれも出来ず、とりあえずグラウンディングするために果物を食べ、そして夕食を摂ることにした。それくらいの今日の体験は強烈であった。
次回のセッションは服用量を抑えよう。服用量を抑えながら、地に足を着けた形で、謙虚に学びと実践を積み重ねていきたい。これまで「精進」という言葉や「全身全霊」という言葉を軽々しく使っていたが、ここからは謙虚さを持ってそれらの言葉を使わせてもらう。全ての言葉に感謝。こうしてつらつらと書き連ねて来た言葉の1つ1つが自分ではない先人が作ってくれたものだということに気付いていただろうか。文字通り、句読点を含め、鍵括弧を含め、全ての文字は自分ではない誰かが作ってくれたのだ。それらを活用させてもらう形で自分は毎日この世界で人間として生きている。それが人間賛歌なのであり、宇宙賛歌なのだ。フローニンゲン:2024/1/28(日)20:11
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