【エディンバラ大学からの便り】19303-19307:2026年9月27日(日)

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
19303 | ウォームアップに潜む深い意味 |
19304 | 今朝方の夢 |
19305 | 今朝方の夢の振り返り |
19306 | 修士論文の提出時期に関する米蘭英の興味深い違い |
19307 | ブランダン・エイカー氏の即興演奏ワークショップの2回目に参加して |
19303. ウォームアップに潜む深い意味
先ほど、ブランダン・エイカー氏のメッセージを読んで、ウォームアップというものの意味を少し考え直した。これまでは自分も、ウォームアップとは指を温め、関節をほぐし、演奏できる状態に身体を持っていく準備運動のようなものだと思っていた。しかし今回のメッセージでは、それよりももっと深い意味が与えられている。ウォームアップとは、音楽そのものの要求に注意を奪われる前に、「自分はどのように演奏したいのか」を身体に思い出させる時間なのである。興味深いのは、上達すればするほど、この時間が重要になるという指摘である。初心者の頃は、一つ一つの動きを意識しなければならない。ところが経験を重ねるにつれて、多くの動作が自動化されていく。それ自体は熟達の証である。しかし自動化とは、優れた技術だけを保存するものではない。不要な力みや癖までも、身体は律儀に保存してしまう。肩が少し上がる。呼吸が浅くなる。譜面を追ううちに頭が前に出る。右手や左手が、いつの間にか必要以上の仕事をしている。大きな事故が起きたわけではない。ただ、自分が自分の身体を観察しなくなったのである。これは楽器の練習だけの話ではないように思う。習熟とは、無意識に任せられる領域を増やすことであると同時に、無意識の中に何が住み着いているのかを定期的に点検することでもある。長く住んだ家には、気づかないうちに埃が積もる。同じように、長年身につけた技術にも、小さな緊張や余計な努力が積み重なっていくのだろう。ウォームアップとは、その埃を毎日静かに払う作業なのかもしれない。だからこそ、エイカー氏は練習の冒頭に「単純さ」を求めるのだと思う。単純な練習は初心者向けだから行うのではない。複雑な音楽では、音程、リズム、表現、暗譜などに意識が分散してしまうが、単純な動きであれば、自分の姿勢、呼吸、楽器のバランス、手の感覚に注意を向ける余白が生まれる。ウォームアップは技術の存在を証明する試験ではなく、技術を再調整する作業なのである。特に印象に残ったのは、「熟達するほど基礎が面白くなる」という逆説である。初心者は「手をどこに置けばよいか」と問う。しかし熟達者は、同じ手について「あと少し力を抜けないか」「あと少し自由に動けないか」「あと少し繊細に感じ取れないか」と問い続ける。問いそのものは単純なのに、その内部には果てしない深さがある。これは、自分が今後ギターを学んでいく上で大切にしたい態度である。上達とは、難しい曲へ進み続けることだけではない。むしろ同じ一音、同じ右手の動き、同じ座り方の中に、以前は見えなかった違いを発見できるようになることである。熟達とは遠くへ行くことではなく、同じ場所をより深く掘ることなのかもしれない。今日からのウォームアップを、指を動かす準備ではなく、自分の身体と演奏を「今日の最良の状態」に戻すための短い調律の時間として捉えてみたい。エディンバラ:2026/9/27(日)06:45
19304. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代のある親友(NK)と、これから参加するサッカーの大会に向けて話をしていた。その大会は、自分たちが通っている中学校のグラウンドで行われることになっており、そのため多くの生徒が応援に駆けつけてくれることになっていた。ホームであることの地の利を生かして、どの試合も有利に進めていくことができるような気がしたし、優勝も射程に入っていた。親友の彼とはフォーメーションの話をし、どのような先発メンバーで試合に臨むかを話し合った。大勢の人たちの応援を背に、これから行われる試合が楽しみでしょうがなかったが、自分はあえて先発メンバーではなく、途中交代の形で出場することも検討していた。途中から一気に流れを変える役割を自分なら担えるような気がしていたのである。
もう一つ覚えているのは、詰将棋の大会に出場することになっている場面である。自分は確かに将棋が好きだが、将棋から随分と離れていることもあって、それぞれの駒をどのように動かせばいいのかを忘れていた。より厳密にいうと、それぞれの駒が動く範囲を忘れていたのである。そんな中、小中高時代のある友人(HY)と大会会場の食堂で話をしたところ、彼は自分とは違って駒の動かし方はきちんと知っているが、大会に出場するのが不安だと語ってくれた。一方自分は、実際に大会が始まってみて駒を眺めたり、駒に触れたりすれば、一気に記憶が蘇り、次々に詰将棋の問題を解いていけるような自信があった。エディンバラ:2026/9/27(日)06:53
19305. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がこれまで蓄積してきた能力や経験を、新しい環境の中でどのようなタイミングで発揮するかという問題を、サッカーと詰将棋という二つの競技によって描いた夢であるように思われる。興味深いのは、どちらの場面でも自分は大会に出場しようとしているが、最初から完成された状態で舞台に立とうとしていない点である。そこには、準備を完全に整えてから動くというより、実際の場に入った瞬間に眠っていた能力が起動するという、自分自身への深い信頼が表れているのかもしれない。サッカーの舞台が母校の中学校であることは、自分の現在の挑戦が、未知の土地への単純な冒険ではなく、過去に形成された自己を足場として行われていることを象徴しているように見える。グラウンドは心理的な「ホームポート」であり、そこには少年期から積み重ねてきた経験、友情、競争心、身体感覚が地層のように眠っているのであろう。現在の自分は新しい環境に身を置いているとしても、その足元には過去の自分たちが作った地盤がある。そのため夢の中では、大勢の応援を背にして優勝さえ可能だという感覚が生じたのではないか。さらに重要なのは、自分が先発ではなく途中出場を考えていることである。これは消極性というより、自分の強みが「最初から中心に立つこと」ではなく、状況を読み、必要な瞬間に投入され、流れそのものを変えることにあるという自己認識を示しているように思われる。自分は主役の椅子を奪おうとしているのではなく、試合全体を読みながら決定的な局面を待っているのである。いわば自分を矢として常に放つのではなく、最も遠くまで届く瞬間まで弓につがえている状態である。詰将棋の場面は、この構造をさらに内面的な次元へ移したものかもしれない。サッカーが人間関係と集団の中での位置取りを表すなら、将棋は知識、研究、思考といった知的世界の位置取りを象徴しているように見える。ところが自分は駒の動きさえ忘れている。それでも不思議なほど不安ではない。ここには、知識を頭の中に完全保存しておくことよりも、対象に再び触れることで能力が蘇るという感覚があるのだろう。駒に触れれば記憶が戻るという確信は、知識が倉庫に保存された資料ではなく、身体と経験の中に埋め込まれた種子のようなものだという感覚を表しているのかもしれない。二人の旧友が登場することも象徴的である。彼らは過去の自分を映す鏡であると同時に、現在の自分がどこまで移動してきたかを測る座標でもあるのだろう。今回の夢全体は、自分に必要なのは新しい能力をゼロから作ることではなく、すでに内部に存在している力を適切な局面で呼び戻すことだと告げているように思われる。今の自分はまだ試合開始前なのである。ピッチに入り、駒に触れた瞬間、眠っていた過去が現在の力へと変換されていく。その「再起動の直前」にいる感覚こそが、今回の二つの大会を貫く中心的な象徴なのではないだろうか。エディンバラ:2026/9/27(日)07:07
19306. 修士論文の提出時期に関する米蘭英の興味深い違い
修士論文の最終締め切りが来年の8月5日だと知って、最初はかなり遅いように感じた。オランダでの修士課程では、授業の進行と並行しながら修士論文を書き始める感覚が強かったので、4月頭にレクチャーが終わってから夏まで本格的に論文を書くという英国型の流れには、少し時間感覚の違いを感じる。しかし調べてみると、これはむしろエディンバラ大学のTaught MScでは自然な設計のようである。考えてみれば、秋から春にかけては授業を通じて知識を広げ、方法論を学び、研究テーマを徐々に研ぎ澄ませていく期間なのだろう。そして春以降、授業という外側から与えられるリズムが静かになったところで、自分自身の研究課題に深く潜っていく。前半が地図を集める時間だとすれば、後半は実際に森の中へ入っていく時間なのかもしれない。とは言え、自分の場合には、大学側の標準的な流れに完全に合わせて、春まで論文に手をつけない必要はまったくなさそうである。むしろ1年間という短いプログラムだからこそ、今の段階から修士論文の準備を進めることには大きな意味があるように思う。研究質問を絞り、一次資料を読み、先行研究を整理し、『法相二巻鈔』の転写や翻訳はすでに完成しているので、註釈を少しずつ進めておけば、春になった時点でようやくスタート地点に立つのではなく、すでにかなり遠くまで歩いている状態を作れるはずである。その意味では、8月5日は「その日まで書き続ける締め切り」と考えるより、「そこまでに十分に磨き上げたものを手放す最終地点」と捉える方が自分には合っている気がする。できれば5月頃には主要部分の執筆に入り、6月には全体像を形にし、7月は修正と推敲に使えるようにしたい。締め切りぎりぎりまで文章を生み出すのではなく、最後の1か月を文章の精度を上げるために使えれば、論文の質もかなり変わるはずである。早めに提出すること自体は可能かもしれないが、それによって成績がすぐ返ってくるとは限らない点も興味深い。大学院の成績は個々の提出日だけでなく、Board of Examinersという制度的な流れの中で確定する。つまり、論文を書く時間と、大学が評価を確定する時間は別の時計で動いているのである。こうして考えると、自分にとって大切なのは「早く提出すること」ではなく、「早く研究を成熟させること」なのだと思う。秋から少しずつ種を蒔き、冬に根を張らせ、春に幹を伸ばし、夏には枝葉を整える。8月5日はその木を慌てて植える日ではなく、十分に育ったものを静かに差し出す日として迎えたいと思う。エディンバラ:2026/9/27(日)08:14
19307. ブランダン・エイカー氏の即興演奏ワークショップの2回目に参加して
時刻は午後6時半を迎えた。今週から本格的に講義が始まったが、その滑り出しは順調で、明日からの新たな週においてはさらにそのリズムが確固となるものなっていくであろう。今日は近くの建物が賑やかで何事かと思って調べてみると、そこはイベント会場となっており、今日は学生バンドを招いたパーティーが行われているようだった。静寂さを好む自分にとっては少し迷惑であるが、時こうしたイベントで人々が盛り上がっている様子を感じられるのは悪くない。
今日は夕方に、クラシックギタリストのブランダン・エイカー氏の講座の2回目のオンラインワークショップがあった。エイカー氏はアメリカ在住だが、アメリカとエディンバラの時差はちょうどよく、今日も先週の日曜日と同様に、リアルタイムでそのオンラインワークショップに参加することができた。このワークショップは、30日間の即興演奏コースのボーナスとして付いている4回のセッションの第二回目で、前回と同情に、今日もまた自分がチャット画面に投稿した問いからワークショップがスタートした。今日のセッションは自分を含め、ノルウェー、ドイツ、オーストリアなど、アメリカ以外の国からも参加者が見られ、地域的に国際色豊かな顔ぶれとなった。自分が質問をしたのはまず、美しいメロディの創出に関するもので、その問いを受けてエイカー氏は、基本的なルールとしては大きなジャンプをできるだけ避け、隣の音を繋いでいく形でメロディを作っていくことを勧めてくれた。もちろん時にジャンプがあっていいのだが、ジャンプをしたらその代わりに、着地した隣の音を弾くようにすると聴き心地の良いメロディになると教えてくれた。低い音から高い音にジャンプしたら、着地した音の隣の低い音を演奏し、逆に高い音から低い音にジャンプしたら、着地した音の隣の高い音を演奏すると聴こえが良くなるとのことだった。2つ目の問としては、今の即興演奏コースでは、あえてフレット5まででとどめているが、それ以上のフレットで即興演奏するコツについても尋ねてみた。基本的にはフレット5までとルールは同じであり、フレットの間隔に慣れていけば、さほど難しくはないとのことで、実際に自分でも試してみたところ、確かにその通りだった。ここからの即興演奏では、積極的にフレット5以上の場所でも演奏してみようと思う。最後に、ミュートについても尋ねてみた。開放弦を使っている場合、どうしてもメロディと混ざってしまうことがあるが、混ざりそのものは悪くなく、むしろそこでハーモニーが形成されていることが多いので、それはそのままで良いとのことだった。あまり神経質になる必要はなく、自分の耳が音の重なりを聴き心地悪く思った時にだけミュートすることを勧めてもらった。入浴後の練習の際に、この点を意識してみようと思う。エディンバラ:2026/9/27(日)18:52
Today’s Letter
I joined Mr. Brandon Acker’s improvisation session today, just as I did last Sunday. Today’s session was just as meaningful as last week’s. I’ll practise improvisation after taking a bath tonight as well, based on what I learned from him today. Edinburgh, 9/27/2026



コメント