
3293.「内省的抽象化」「階層的統合化」「階層的複雑性」について
午前十時を迎えると、早朝に空を覆っていた薄黒い雲がどこかに消え去っていることに気づいた。今は薄い青空が広がっていて、穏やかな朝日がフローニンゲンの街を包んでいる。 今日は休日ということもあってか、辺りはとても静かだ。フローニンゲンの休日を象徴するような雰囲気が滲み出ていることに気づく。 今日は早朝から室内が冷えており、ヒーターをつけざるをえなかった。今、少しずつ部屋が暖かくなっている状況の中で、これから昼食までの取り組みを行っていきたいと思う。 具体的には、リルケの詩集を読み、ハイドンに範を求めて作曲をすることである。昼食後には過去の日記を編集し、仮眠を取った後に、教育哲学に関する書籍を読み進めていく。 つい先ほど、“Handbook of Adult Development and Learning (2006)”の残りの章を読み終えた。今回の再読も実り多く、数多くのメモをノートに書き留めながら考えを深めることができた。 人間発達に関する自分の考えはゆっくりとだが、着実に育まれていることを実感する。ここからは本当に、思想的な探究を真剣に行ってい

3292. レクティカの発達測定のユニークさ
時刻は午前八時半を迎えた。今日は五時過ぎに起床したおかげもあり、早朝の作曲実践から始まり、すでに読書も順調に進んでいる。つい三十分ほど前に、とても幻想的な夜明けを見た。 今日は薄暗い雲が空の所々にあるためか、普段見ている朝焼けとは異なる光景を見ることができた。どこか深い森にいて、森の隙間から太陽の光りが差し込み、辺りを赤茶色に染めるような夜明けだった。 先ほど、小鳥の大群が自己組織化をして空を移動している姿を見た、その様子は何とも言えない美を持っていた。無数の鳥が一つの隊列をなし、西の空に消えていった。 早朝に、久しぶりにセオ・ドーソン博士の論文を読んだ。ドーソン博士は、私が以前在籍していたレクティカの創設者であり、彼女の論文を読むことは最近ほとんどなかった。 確かに、私はレクティカの開発したアセスメントの価値を認識し、そのアセスメントは発達心理学の長い伝統に裏打ちされた優れたものだと思う。今でも日々それは絶えず進化を遂げていることを知っている。 しかし、今の私はアセスメントそのものにはもはや関心はなく、むしろアセスメントを取り巻く思想空間の方に

3291. 本日の読書計画
今朝は五時過ぎに起床した。昨夜の就寝が十時前であったことが、今日の早起きにつながったのかもしれない。 一日の仕事を無事に終えたならば、そこから新しいことに手をつけるのではなく、速やかに就寝するというのは早起きにつながるように思う。今日からその点を意識しようと思う。 その日になすべきことを終えたら、そこで速やかに就寝に向かうこと。それを新たな習慣としたい。 五時過ぎに起床してみると、室内の温度が随分と下がっていることに気づいた。昨日と似たような朝の気温であり、確認してみると、外気は4度とのことである。 フローニンゲンは随分と冷え込んできた。比較として、先日訪れたボストンの気温を確認してみると、十月の前半においては、ボストンの方がフローニンゲンよりも暖かかったのだが、その関係が逆転している。ボストンの方がもう随分と寒くなっているようだ。 今日は土曜日ということもあって、今の時間帯はなおさら静かだ。そうした静かな環境の中で、今日の取り組みを始めたい。 今日は早朝に、バッハの四声のコラールに範を求めて作曲実践をする。四声のコラールを参考にしながら曲を作る

3290. 認識論への関心の高まり
時刻は午後の八時半を迎え、辺りはすっかりと暗闇に包まれた。今日は一日を通してとても気温が低かった。本格的に秋が深まったことを実感する。 そうこうしているうちに、すぐに冬がやってくるだろう。そしてこの冬は来年の五月半ばまで続くということを忘れないようにしたい。 これからやってくる長い冬に対して、精神的な次元での準備はもう整っている。身体に関する準備も整っていると言ってもいいだろう。 この長く険しい冬の後に、新たな自己が姿を見せるであろうことを予感する。 今日は協働関係の仕事があったため、一日に三曲作ることは難しかった。結局三曲目を作るのではなく、最後に日記を執筆することによって本日を締めくくろうと思う。 午前中に今道友信氏の書籍を読むことによって、認識論の観点から芸術教育の意義について探究を深めていくのは筋が良さそうだという直感があった。何より、今月の初旬にハーバード大学教育大学院を訪れた際に、キャサリン・エルギン教授のクラスを聴講し、認識論そのものに関心が向かっていたことを見逃すことはできない。 エルギン教授のいくつかの論文を読み進めていくと、今

3289. スザンヌ・クック=グロイターの論文の再読に向けて
先ほど買い物に出かけた時、日が出ているにもかかわらず、随分と冷え込んでいることを感じた。外で見かける人は一様にジャケットを羽織っていた。秋がぐっと深まったような感覚がする。 今日は午前中に作曲実践を行い、昨日に引き続き、和書を読み進めていた。午前中に読んでいたのは、小林秀雄全集であり、今日はこれから作曲実践を再び行った後に、森有正先生の日記を読み進めていこうと思う。 昼食後に、協働者の方とオンラインミーティングを行い、そこで高度な発達段階の特性を深く理解することの重要性を話し合った。その場に出された意見に私は強く同意し、協働者の方たちとこれから何回かに分けて、高度な発達段階の特性について理解を深めていく勉強会をすることになった。 今のところ取り上げることを予定しているのは、スザンヌ・クック=グロイターの論文“Nine Levels Of Increasing Embrace In Ego Development: A Full-Spectrum Theory Of Vertical Growth And Meaning Making (2013)

3288. 今道友信氏の『美について』より
今朝は朝焼けがとても綺麗だった。空に浮かんでいる雲が薄赤紫に輝いていて、その光景には恍惚とさせる何かがあった。刻一刻と色彩を変えていく雲を眺めながら、午前中の仕事に取りかかっていた。 今日は昨日に引き続き、和書を読んでいた。昨日は、森有正先生の日記を読み、今日は今道友信氏の『美について』を読み進めていた。後者の書籍については、過去に何度も目を通しているのだが、今日も考えさせられることが多々あった。 今道氏の説明を読みながら興味深く思ったのは、孔子の芸術哲学において、芸術が学問以上に高い位置を占めていたことだ。とりわけ、言語芸術(詩など)は象徴の力によって、定義することのできない事柄、つまり学問では分け入って行くことのできない事柄に光を当てていくことができるとしている。 これはハーバード大学教育大学院の教育哲学者キャサリン・エルギン教授が述べていることにつながる。芸術認識は、科学的な認識とは異なるものがあり、認識論の観点からも、そこに芸術の一つの価値がありそうだ。 科学では認識することのできないものを芸術を通じて認識していくことが可能であるという点

3287. 大学院への出願準備と月旅行について
昨夜ふと、米国の大学院の出願に関して、応募締め切りよりも随分と早い段階で出願を済ませようと思った。例えば、出願が決まっているハーバード大学教育大学院(HGSE)は、来年の一月の最初の週の金曜日が出願の締め切りとなっている。 おそらく多くの志願者は締め切りの数日前か前日、あるいは当日にオンラインアプリケーションを提出するのだと思うが、私は早めに出願を済ませておこうと思った。というのも、現時点で出願に向けた書類のほぼ全てが揃っており、あとは志望動機書を最終版にすることと、三名の推薦者に推薦状を提出してもらうことだけが残っているにすぎないからだ。 その他の必要な書類に関しては、すでにオンライン上にアップロードしている。もちろん、記入漏れや記入の誤りがないかを念入りに確認しようと思うが、応募の締め切りよりも二、三週間ほど早く出願を済ませようという考えが昨夜浮かんだ。 今回の出願に関しても随分とゆっくりと準備を進めているが、動き出すのが早かったこともあり、準備が早い段階で完了の方向に向かっていることを嬉しく思う。HGSEに関しては、過去に博士課程のプログラ

3286. 表現行為について
今朝、六時半あたりに起床してみると、随分と室内が寒く感じられた。起床してすぐに天気予報を確認してみると、外気が3度ほどまで下がっていることに気づいた。 数日前までは秋にしては暖かい日が続いていたため、その差によって今朝の寒さがよりいっそう強く感じられた。今日からはもう、最高気温が15度に満たない日が続いていくようだ。季節がゆっくりと冬に向かっているのを実感する。 昨日は久しぶりにランニングをし、随分と爽快な気持ちになった。改めて心身一如であることを知る。週に一度は必ずランニングをするようにし、ヨガの実践は毎日継続していく。 とにかく身体から全てを始めていくこと。適度な運動と栄養のある食事、そして良質な睡眠。これら三点がなければ、充実した探究活動と創造活動を日々行っていくことはできないだろう。どれか一つが欠けてはならず、それら全てを一つの生活実践として徹底していく。 今日はこれから早朝の作曲実践を行うが、その際にはハイドンに範を求めようと思う。午後にはモーツァルトに範を求め、夜はバッハの曲を参考にする。 昨日改めて、ハイドンとモーツァルトの曲を大方

3285. 意思の表れとしての日記
平穏な雰囲気が辺りを包んでいる今日のフローニンゲン。季節はもうすっかりと秋なのだが、今日は桜の風が吹いてきそうな雰囲気である。特にそれは早朝の時間帯においてそうであった。 今はあいにく雲が空を覆っているが、それでも穏やかな雰囲気であることには変わりない。先ほどランニングから自宅に戻ってくる最中に、小鳥の群れが木々を次から次に移動していく姿を見た。 小鳥たちが鳴き声を発しながら木々を移動していく様子を眺めながら、その行動の意味することは何なのかを考えていた。私は動物行動学者ではないから、小鳥たちの行動の意味は皆目見当がつかなかったのだが、とても興味深い集団行動をしていると思った。 実は今も、書斎の窓の外には、小鳥たちが右から左へ、左から右へ移動していく様子が時折見られる。紅葉の進んだ木々にやたらと止まるものだから、木の実でも食べているのかと想像をしてみた。 ランニングをしている最中に、自分が日々執筆している日記は、確かに日々の思考や感覚の足跡を残すためなのだが、それ以上の意味があるように思えた。それは端的には、日記は自らの意思の表れに他ならないので

3284. 爽快なランニング
全身を動かす喜びを思う存分に味わうような時間だった。今日は昼食前に、近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけた。 この数ヶ月間は、様々な旅行が重なり、気がつけばランニングをすることがほとんどなくなっていたのだが、今日は久しぶりにランニングに出かけた。早朝に起床した際に、今日は必ずランニングに出かけようという強い気持ちが表れていた。 ランニングに出かけてみると、足取りは非常に軽く、ここ数ヶ月間ランニングから離れていたことが嘘のようであった。ランニングをしない期間においても、近所のスーパーまではジョギングをする習慣があったことが、心肺機能を一定のものに保つことに役立っていたのかもしれない。 今日のランニングを通して、改めて全身を動かすことの大切さ、及びその喜びを大いに実感することになった。極端な考えとして、運動のない人生は人生ではないというものが浮かんできた。 それぐらいに、適度な運動を日々の生活の中に組み入れることは大切だ。感情も思考も全て、脳と身体と密接に関わっており、内的現象は全て身体を通じた内的運動だとも言える。その際に、身体そのも