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3293.「内省的抽象化」「階層的統合化」「階層的複雑性」について

午前十時を迎えると、早朝に空を覆っていた薄黒い雲がどこかに消え去っていることに気づいた。今は薄い青空が広がっていて、穏やかな朝日がフローニンゲンの街を包んでいる。 今日は休日ということもあってか、辺りはとても静かだ。フローニンゲンの休日を象徴するような雰囲気が滲み出ていることに気づく。 今日は早朝から室内が冷えており、ヒーターをつけざるをえなかった。今、少しずつ部屋が暖かくなっている状況の中で、これから昼食までの取り組みを行っていきたいと思う。 具体的には、リルケの詩集を読み、ハイドンに範を求めて作曲をすることである。昼食後には過去の日記を編集し、仮眠を取った後に、教育哲学に関する書籍を読み進めていく。 つい先ほど、“Handbook of Adult Development and Learning (2006)”の残りの章を読み終えた。今回の再読も実り多く、数多くのメモをノートに書き留めながら考えを深めることができた。 人間発達に関する自分の考えはゆっくりとだが、着実に育まれていることを実感する。ここからは本当に、思想的な探究を真剣に行っていくことを改めて自らに誓いたい。 自分の関心テーマを探究するために必要な哲学領域が何かが徐々に明らかになってきており、当面は認識論と批判理論の双方の書籍を数多く読み進めていくことになるだろう。そしてできれば、それらの哲学領域を専門とする師を持ち、彼らとの対話を通じて自分の思想を育んでいくようにしたい。来年また大学院に戻ることの意義はまさにそれを行うためだろう。 早朝の日記の中で、レクティカの創設者であるセオ・ドーソン博士の論文を読んでいた

3292. レクティカの発達測定のユニークさ

時刻は午前八時半を迎えた。今日は五時過ぎに起床したおかげもあり、早朝の作曲実践から始まり、すでに読書も順調に進んでいる。つい三十分ほど前に、とても幻想的な夜明けを見た。 今日は薄暗い雲が空の所々にあるためか、普段見ている朝焼けとは異なる光景を見ることができた。どこか深い森にいて、森の隙間から太陽の光りが差し込み、辺りを赤茶色に染めるような夜明けだった。 先ほど、小鳥の大群が自己組織化をして空を移動している姿を見た、その様子は何とも言えない美を持っていた。無数の鳥が一つの隊列をなし、西の空に消えていった。 早朝に、久しぶりにセオ・ドーソン博士の論文を読んだ。ドーソン博士は、私が以前在籍していたレクティカの創設者であり、彼女の論文を読むことは最近ほとんどなかった。 確かに、私はレクティカの開発したアセスメントの価値を認識し、そのアセスメントは発達心理学の長い伝統に裏打ちされた優れたものだと思う。今でも日々それは絶えず進化を遂げていることを知っている。 しかし、今の私はアセスメントそのものにはもはや関心はなく、むしろアセスメントを取り巻く思想空間の方により関心があると言った方がいいだろう。今朝方は、今読み進めている論文集の中にドーソン博士の論文があったため、それを読もうという気になった。 おそらく初読は数年前のことであり、今久しぶりにその論文を読んでいる。改めて、レクティカのアセスメントが稀有な点は、言語学に基づくアセスメントや既存の発達測定にはないアプローチでアセスメントを開発していることだ。 それは端的には、言語の階層的複雑性(hierarchical complexity)と言

3291. 本日の読書計画

今朝は五時過ぎに起床した。昨夜の就寝が十時前であったことが、今日の早起きにつながったのかもしれない。 一日の仕事を無事に終えたならば、そこから新しいことに手をつけるのではなく、速やかに就寝するというのは早起きにつながるように思う。今日からその点を意識しようと思う。 その日になすべきことを終えたら、そこで速やかに就寝に向かうこと。それを新たな習慣としたい。 五時過ぎに起床してみると、室内の温度が随分と下がっていることに気づいた。昨日と似たような朝の気温であり、確認してみると、外気は4度とのことである。 フローニンゲンは随分と冷え込んできた。比較として、先日訪れたボストンの気温を確認してみると、十月の前半においては、ボストンの方がフローニンゲンよりも暖かかったのだが、その関係が逆転している。ボストンの方がもう随分と寒くなっているようだ。 今日は土曜日ということもあって、今の時間帯はなおさら静かだ。そうした静かな環境の中で、今日の取り組みを始めたい。 今日は早朝に、バッハの四声のコラールに範を求めて作曲実践をする。四声のコラールを参考にしながら曲を作ることは、どこか詰将棋を解くような感覚がする。そうした感覚を引き起こすのは、おそらくバッハの曲が持つ構築性なのだと思う。 バッハの曲を参考にして一曲作ったら、そこからは読書に励みたい。具体的には、成人発達と成人学習に関する“Handbook of Adult Development and Learning (2006)”の残りの章を今日の午前中には読み終えたいと思う。 本書の再読に関しては、数日前に終えておこうと思ったが、他の書籍を読む

3290. 認識論への関心の高まり

時刻は午後の八時半を迎え、辺りはすっかりと暗闇に包まれた。今日は一日を通してとても気温が低かった。本格的に秋が深まったことを実感する。 そうこうしているうちに、すぐに冬がやってくるだろう。そしてこの冬は来年の五月半ばまで続くということを忘れないようにしたい。 これからやってくる長い冬に対して、精神的な次元での準備はもう整っている。身体に関する準備も整っていると言ってもいいだろう。 この長く険しい冬の後に、新たな自己が姿を見せるであろうことを予感する。 今日は協働関係の仕事があったため、一日に三曲作ることは難しかった。結局三曲目を作るのではなく、最後に日記を執筆することによって本日を締めくくろうと思う。 午前中に今道友信氏の書籍を読むことによって、認識論の観点から芸術教育の意義について探究を深めていくのは筋が良さそうだという直感があった。何より、今月の初旬にハーバード大学教育大学院を訪れた際に、キャサリン・エルギン教授のクラスを聴講し、認識論そのものに関心が向かっていたことを見逃すことはできない。 エルギン教授のいくつかの論文を読み進めていくと、今日得られた直感を支えるような論点があったのを思い出す。具体的には、芸術に固有の認識の仕方を認識論によって明らかにし、その固有の認識方法の意義をもって芸術教育の大切さを論じていくという論理の流れである。この論理の流れに関して、自分なりの観点や具体例を交えながら、自分独自の考えを育むことができたらと思う。 来週の木曜日にフローニンゲン大学のキャンパスに立ち寄った際には、エルギン教授の論文を数本ほど印刷する予定である。それらの論文と、以前に一

3289. スザンヌ・クック=グロイターの論文の再読に向けて

先ほど買い物に出かけた時、日が出ているにもかかわらず、随分と冷え込んでいることを感じた。外で見かける人は一様にジャケットを羽織っていた。秋がぐっと深まったような感覚がする。 今日は午前中に作曲実践を行い、昨日に引き続き、和書を読み進めていた。午前中に読んでいたのは、小林秀雄全集であり、今日はこれから作曲実践を再び行った後に、森有正先生の日記を読み進めていこうと思う。 昼食後に、協働者の方とオンラインミーティングを行い、そこで高度な発達段階の特性を深く理解することの重要性を話し合った。その場に出された意見に私は強く同意し、協働者の方たちとこれから何回かに分けて、高度な発達段階の特性について理解を深めていく勉強会をすることになった。 今のところ取り上げることを予定しているのは、スザンヌ・クック=グロイターの論文“Nine Levels Of Increasing Embrace In Ego Development: A Full-Spectrum Theory Of Vertical Growth And Meaning Making (2013)”である。 それは97ページほどの分量があり、協働プロジェクトについての話し合いも適宜行っていく必要があることを考慮して、四回に分けてその論文を読んでいくことにした。来週の月曜日に細かいカリキュラムを作っておきたいと思う。 いかんせん文献が英語であり、英語に馴染みのない方も多いであろうから、読むべき箇所と読解するポイントを示し、さらには読解の手助けになる問いに関してもこちらで用意しておこうと思う。そうした最低限のポイントと問いを抑えてい

3288. 今道友信氏の『美について』より

今朝は朝焼けがとても綺麗だった。空に浮かんでいる雲が薄赤紫に輝いていて、その光景には恍惚とさせる何かがあった。刻一刻と色彩を変えていく雲を眺めながら、午前中の仕事に取りかかっていた。 今日は昨日に引き続き、和書を読んでいた。昨日は、森有正先生の日記を読み、今日は今道友信氏の『美について』を読み進めていた。後者の書籍については、過去に何度も目を通しているのだが、今日も考えさせられることが多々あった。 今道氏の説明を読みながら興味深く思ったのは、孔子の芸術哲学において、芸術が学問以上に高い位置を占めていたことだ。とりわけ、言語芸術(詩など)は象徴の力によって、定義することのできない事柄、つまり学問では分け入って行くことのできない事柄に光を当てていくことができるとしている。 これはハーバード大学教育大学院の教育哲学者キャサリン・エルギン教授が述べていることにつながる。芸術認識は、科学的な認識とは異なるものがあり、認識論の観点からも、そこに芸術の一つの価値がありそうだ。 科学では認識することのできないものを芸術を通じて認識していくことが可能であるという点に、芸術の意義を改めて見出す。この点は、自分の実生活を振り返ってみると非常に納得がいく。 先日改めて、教育哲学の中でも、芸術教育の哲学に焦点を絞って探究を進めていこうと思った。そう思った矢先に、“The History and Philosophy of Art Education (1970)”という書籍が届いた。 本書は近日中に初読を開始しようと思っている。この書籍は、西洋の芸術教育の歴史と哲学に焦点を当てており、その根源にはプラト

3287. 大学院への出願準備と月旅行について

昨夜ふと、米国の大学院の出願に関して、応募締め切りよりも随分と早い段階で出願を済ませようと思った。例えば、出願が決まっているハーバード大学教育大学院(HGSE)は、来年の一月の最初の週の金曜日が出願の締め切りとなっている。 おそらく多くの志願者は締め切りの数日前か前日、あるいは当日にオンラインアプリケーションを提出するのだと思うが、私は早めに出願を済ませておこうと思った。というのも、現時点で出願に向けた書類のほぼ全てが揃っており、あとは志望動機書を最終版にすることと、三名の推薦者に推薦状を提出してもらうことだけが残っているにすぎないからだ。 その他の必要な書類に関しては、すでにオンライン上にアップロードしている。もちろん、記入漏れや記入の誤りがないかを念入りに確認しようと思うが、応募の締め切りよりも二、三週間ほど早く出願を済ませようという考えが昨夜浮かんだ。 今回の出願に関しても随分とゆっくりと準備を進めているが、動き出すのが早かったこともあり、準備が早い段階で完了の方向に向かっていることを嬉しく思う。HGSEに関しては、過去に博士課程のプログラムに二度ほど出願したが、その際は全て不合格になっている。 今年の九月まで在籍していたフローニンゲン大学に関しても、入学するまでに二度ほど不合格になっていたことを思い出す。フローニンゲン大学に関しては、三度目の出願の際に合格となり、それと同じことが今回のHGSEの出願に際しても起こるかはわからないが、良い結果が得られればと思う。 フローニンゲン大学に合格した時と同様に、今回の出願資料は過去の出願資料よりも随分と練られたものになっている。仮

3286. 表現行為について

今朝、六時半あたりに起床してみると、随分と室内が寒く感じられた。起床してすぐに天気予報を確認してみると、外気が3度ほどまで下がっていることに気づいた。 数日前までは秋にしては暖かい日が続いていたため、その差によって今朝の寒さがよりいっそう強く感じられた。今日からはもう、最高気温が15度に満たない日が続いていくようだ。季節がゆっくりと冬に向かっているのを実感する。 昨日は久しぶりにランニングをし、随分と爽快な気持ちになった。改めて心身一如であることを知る。週に一度は必ずランニングをするようにし、ヨガの実践は毎日継続していく。 とにかく身体から全てを始めていくこと。適度な運動と栄養のある食事、そして良質な睡眠。これら三点がなければ、充実した探究活動と創造活動を日々行っていくことはできないだろう。どれか一つが欠けてはならず、それら全てを一つの生活実践として徹底していく。 今日はこれから早朝の作曲実践を行うが、その際にはハイドンに範を求めようと思う。午後にはモーツァルトに範を求め、夜はバッハの曲を参考にする。 昨日改めて、ハイドンとモーツァルトの曲を大方参考にしたら、やはりバッハに戻っていこうと思った。究極的にはバッハに行き着くのだろう。 そのような思いから、昨日は久しぶりに、バッハの曲を聴きながら、該当曲の楽譜を目で追って確認することを行っていた。バッハは本当に汲み取ることの多い偉大な作曲家であると思う。 そこからは、表現するということについて考えていた。表現するということが、仮に語源通りに、自分の内側のものを絞り出し、形を生み出していくことであるならば、英語で論文を執筆していくこと

3285. 意思の表れとしての日記

平穏な雰囲気が辺りを包んでいる今日のフローニンゲン。季節はもうすっかりと秋なのだが、今日は桜の風が吹いてきそうな雰囲気である。特にそれは早朝の時間帯においてそうであった。 今はあいにく雲が空を覆っているが、それでも穏やかな雰囲気であることには変わりない。先ほどランニングから自宅に戻ってくる最中に、小鳥の群れが木々を次から次に移動していく姿を見た。 小鳥たちが鳴き声を発しながら木々を移動していく様子を眺めながら、その行動の意味することは何なのかを考えていた。私は動物行動学者ではないから、小鳥たちの行動の意味は皆目見当がつかなかったのだが、とても興味深い集団行動をしていると思った。 実は今も、書斎の窓の外には、小鳥たちが右から左へ、左から右へ移動していく様子が時折見られる。紅葉の進んだ木々にやたらと止まるものだから、木の実でも食べているのかと想像をしてみた。 ランニングをしている最中に、自分が日々執筆している日記は、確かに日々の思考や感覚の足跡を残すためなのだが、それ以上の意味があるように思えた。それは端的には、日記は自らの意思の表れに他ならないのではないか、というものだった。 日々執筆している日記に関しては、もう少ないとか多いとか、量に関して問題にすることはほとんどなくなった。質に関してもそうだ。それについてもほとんど気にかけていない。 重要なことは、そこに自らの意思が表れていることであり、意思さえ形となっていれば、量や質など問題ないことに気づかされた。ちょうどいつも足を運ぶスーパーに行く途中の橋を渡ったところで、そのような気づきが得られた。 自分が綴る日記は自らの意思の表れであ

3284. 爽快なランニング

全身を動かす喜びを思う存分に味わうような時間だった。今日は昼食前に、近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけた。 この数ヶ月間は、様々な旅行が重なり、気がつけばランニングをすることがほとんどなくなっていたのだが、今日は久しぶりにランニングに出かけた。早朝に起床した際に、今日は必ずランニングに出かけようという強い気持ちが表れていた。 ランニングに出かけてみると、足取りは非常に軽く、ここ数ヶ月間ランニングから離れていたことが嘘のようであった。ランニングをしない期間においても、近所のスーパーまではジョギングをする習慣があったことが、心肺機能を一定のものに保つことに役立っていたのかもしれない。 今日のランニングを通して、改めて全身を動かすことの大切さ、及びその喜びを大いに実感することになった。極端な考えとして、運動のない人生は人生ではないというものが浮かんできた。 それぐらいに、適度な運動を日々の生活の中に組み入れることは大切だ。感情も思考も全て、脳と身体と密接に関わっており、内的現象は全て身体を通じた内的運動だとも言える。その際に、身体そのものが涵養されていなければ、内的運動は不健全なものに陥ってしまうだろう。 不思議なことに、ランニングをしていると、気分がどんどんと明るくなり、自分の中で若さが一層養われたような気がした。気分が明るくなることに関しては、それに類する科学的な研究結果が多数存在しており、その確からしさを今日の自らのランニング体験を通して感じた。 ランニングの際に立ち寄ったノーダープラントソン公園は、気が付かない間にすっかりと秋が深まっている様子だった。落ち葉が

3283. 異国の地から

今日は無性に和書が読みたい。ここ数ヶ月間、和書から離れており、自分の心身と存在そのものが英語空間の中に浸りきっていたように思う。 そうしたさなかにあって、自分が執筆する日記だけが日本語空間に触れる唯一の機会であり、今日はふと、久しぶりに和書を旺盛に読みたいという思いが芽生えた。 今日は英語の論文や書籍を読むことをなんとか控え、それらを読みたいと思う衝動をあえて抑えるようにしたい。その代わりに、逆の衝動として芽生えている、和書を読みたいという衝動に純粋に従っていく。 今日は、小林秀雄、森有正、辻邦生の三名の文章を読み進めていく。フローニンゲンの自宅に置かれている和書の執筆者はごく限られており、その他には井筒俊彦、福永武彦、吉田秀和がいるぐらいである。 いつか自分は日本語だけを用いてモノを考えていく日がやってくるのだろうか。そのことを昨日も考えていた。 これから再び大学院に戻り、哲学の探究を進めていく際に、そこでは母国語ではなく外国語を用いることが要求される。言葉を扱いながら一つ一つ思考を深めていくことが哲学の探究には要求されるが、果たして自分はどこまでそれを外国語で行えるのだろうか、という問いと直面している。 いっその事、日本語で哲学探究をした方がいいのではないかという考えが脳裏によぎったが、どうもそのような単純な問題ではないらしい。日本語と英語の双方を用いながら考え続けていくこと。それはどこか自分の人生の宿命のように思えてくる。 今朝もまた、果たして自分は日本に戻る日がやってくるのだろうかということを考えていた。それは一時帰国という形ではなく、日本に定住するという意味においてで

3282. 叡智が宿る場所

早朝に空を覆っていた雲が随分と晴れ、ライトブルーの空が見えるようになってきた。ここ数日間の暖かさから変化があり、今日からは再び秋の涼しげな気候となる。 今日の最高気温は15度とのことであり、明日以降も同様の気候が続く。フローニンゲンでの生活も三年目を迎えたが、この時期のフローニンゲンはもっと寒いものだと思っていたが、それほど寒くないことを嬉しく思う。 奇妙なことに、数週間前に暖房をつける必要がある日が何日か続いていたが、本格的に寒くなり始めるのは、サマータイムが終了してからなのかもしれない。 書斎の窓から見える街路樹は紅葉が随分と進み、中にはすでに葉を落としてしまった街路樹もある。そのような街路樹たちを眺めていると、昨夜、闇夜から雫が一滴落ちてくるかのような感覚があったことを思い出す。 そこからさらに、昨日の明け方に見ていた夢について思い出していた。巨大なビルが現れるあの夢についてである。 あの夢に現れた巨大なビルは、もしかしたら知の巨大な建築物なのではないかという考えが突如芽生えた。だが、夢の中でのそれはどうも叡智と呼べるようなものではなく、文字通り、知の構築物であった。 ビルに近づいた時、ギラギラと光る明かりが灯されていたことを思い出す。あの光は何だったのだろうか。 それは知識の持つ肯定的な作用と否定的な作用の両側面を象徴するようなものだったと言えるかもしれない。知識と叡智の大きな違いについて考えを巡らせる。 知識はそれを活用する際に、正しく活用することも、誤って活用することもできる。言い換えれば、知識には善悪のどちらかに転がり落ちる可能性が内包されている。 一方、叡智は誤

3281. デカルトとスピノザが行うチェス

今日も十分な睡眠を取り、目覚めの瞬間に今日の一日の活動が充実したものになるという予感があった。時刻は午前八時を迎え、辺りはようやく明るくなった。 今日は少しばかり空に雲がある。だが幸いにも、それは雨雲ではない。 ここ最近は自宅でヨガを毎朝行い、午後も簡単に身体をほぐすようなことを行っていたため、ランニングに出かけることがめっきり少なくなっていた。また、この数ヶ月においては、オランダ国内旅行のみならず、国外に出かけていく旅行も多かったため、ランニングする機会が自ずから少なくなっていた。 しかし今朝起きた時に、ランニングをしたいという思いが湧き上がってきたので、今日は昼食前に近所のノーダープラントソン公園へランニングに出かけようと思う。ゆっくりと、まるで走りながら座禅をするかのように走りたいと思う。 ランニングに出かけたその足で、久しぶりにインドネシア料理店に足を運んで昼食を購入し、チーズ屋にも足を運びたい。いかなる実践にも固有の価値と盲点があり、ヨガだけでは得られないものがランニングにはあり、ランニングだけでは得られないものがヨガにはある。 そうしたことも踏まえて、今日は昼食前にランニングを楽しみたいと思う。不思議なことに、自分の脳が、そして身体と心がランニングを欲しているかのような感覚が今朝方にあった。 今朝方は印象的な夢を見ていた。一つは水泳をしている夢であり、自分の記録したタイムが相当に早かったようであり、水泳スクールの関係者が驚いていたような内容だった。 「平泳ぎでタイムを測定するはずだが、それはクロールのタイムではないか?」と確認されたほどだった。水泳に関する夢は細かく

3280. 哲学への逢着と自己への帰還

時刻は午後の六時に近づきつつある。今日は一日を通して随分と読書に時間を充てることができた。 昨日購入した哲学書のうち、教育哲学に関する一冊と運動哲学に関する一冊の初読を終えた。二つの書籍を読みながら、随分とメモを取ることが多かったが、それらはまだ単なる知識でしかないのであるから、それらをここで列挙しても何も意味がないだろう。 今朝の日記で書き留めていたように、就寝前に過去の日記を編集するのではなく、それらを昼食後に行うことを今日から始めたことにより、夜はパソコンを眺めるのではなく、さらにまた読書に時間を充てることができるだろう。その際には、午前中に読んでいた成人発達理論に関する続きを読み進めていく。 人間発達や教育について何か考えようとすると、必ず「人間発達とは何か?」「良い教育とは何か?」といった問いにぶつかる。こうした問いは、科学的な研究に没入している時には起こりにくいものであったと記憶している。 ここ最近は日々の生活を送る中で、「自分は一体何者なのだろうか?」「自分の人生とは何であり、よき人生とは何なのか?」という問いと頻繁にぶつかる。それらはどれも哲学的な問いであるということに気づかされる。 今日は昼食を摂っている最中に、答えのない問いに向かっていくことを好んでいた幼少時代の自分のことを思い出していた。誰かが答えを用意した問題に取り組むことがどこか気乗りがせず、誰も答えのわからないような問題に向かっていくことを好んでいた当時の自分の姿が脳裏に浮かんだ。 学校教育の隠れたアジェンダの一つは、決められた正解にいかに早く正確に辿り着くことだと思うが、そのアジェンダに対して、い

3279. 技術の自動化とヴィゴツキーの発想

ここ最近の朝と同様に、今朝も非常に心地の良い朝だった。午前中はまずモーツァルトに範を求めて作曲実践をした。 ちょうど先ほど成人発達理論に関する“Handbook of Adult Development and Learning (2006)”の再読を行っている時に、作曲技術の中で今はまだ意識的に行っていることを無意識的に行えるようにし、現在意識的に行っていることを新たなものにしていくことの大切さについて考えていた。 これまで意識的にでなければ行えなかったことが無意識的に行えるようになるというのは、まさに学習の一つの賜物だろう。ここ最近は確かに、作曲実践に関しても随分と無意識的に行えることが増えてきたが、まだまだ意識に上げてゆっくりと取り組まなければならないことが多々ある。 例えば、転調の技術はまさにその一つだ。ここからは、より自由自在に転調が行えるように、まずは各調の特徴をしっかり掴んでいく。 そして、転調の技術の基本を押さえ、それを少しずつ意識上で行うのではなく、無意識下で行えるようにしていく。技術の自動化によって、新たに取り入れられる情報量が増え、それが能力の器を拡張させていくことを改めて思い出そう。 午前中に上記の書籍を読んでいた際に、もう一つ印象に残っているのは、ヴィゴツキーが認知的発達の範囲を広く取っているということだった。ヴィゴツキーは、ピアジェで言うところの認識の枠組み(スキーマ)は、何も思考を司るものだけを意味しているのではなく、認知、感情、感覚、動機など、自己システムを形成する諸々の特質を生み出す機能だと捉えていた。 もちろん、ピアジェのように認識の枠組みの

3278. 巨大なビルに向かう夢

サマータイムの終了の日があと十日後に控えている。その日に向かっていくに従って、朝日が昇る時間が遅くなっていく。 これまでは七時半にはすでに明るくなっていたのだが、今日はまだ薄暗い。この調子だと八時を超えなければ辺りが明るくなることはなさそうだ。 一昨日や昨日と比べて今日は少しばかり気温が下がるが、それでも20度近く最高気温があることは嬉しく思う。明日からは最高気温が15度ほどになるようであり、そこからは一気に秋の深まりを感じるような気候になるだろう。 先ほど、今朝方に見ていた猫の夢について思い出していた。実はその夢の後にもう一つ夢を見ていたことを思い出した。 夢の中で私は、猫を眺めていた平屋を後にし、ある巨大なビルに行く用事があった。そのビルは自宅から車で一時間ほどの距離にあり、私は車に乗り込んで、カーナビの電源を入れた。 そのビルまでの道はすでに把握しているつもりだったが、念のために、出発前に経路を最終確認しておこうと思った。カーナビに表示された地図を見ると、どうやら今いる自宅とそのビルがある場所はフィンランドにあるようだった。 というのも、カーナビに表示されている地名がどれもフィンランド語であったからだ。一見すると、スウェーデン語との区別に一瞬迷うが、確かにそれはフィンランド語だった。 カーナビを見て初めて、今自分がフィンランドにいることに気づいたが、とかくその気づきが自分の感情に何かしらの影響を与えることはなく、すぐに自宅を出発することにした。目的地までの道のりは空いており、比較的速やかに目的地の周辺に到着した。 前方の右手にそのビルが見えてきた時、あまりの巨大さに私は驚

3277. 白い猫と遭遇する夢

今朝は六時半過ぎに起床し、七時から一日の活動を開始した。ここのところ、一日の最後に過去の日記を編集し、それをウェブサイト上で共有することを行っていたのだが、就寝前にパソコンを見すぎてしまい、それが睡眠の質を下げてしまっているのかもしれないと思い始めた。 もちろん、日々の睡眠の質は十分なものなのだが、さらに睡眠の質を高めることができるのではないかとふと思った。今日からは就寝前にパソコンを見ることを極力控え、過去の日記の編集は昼食後に行おうと思う。 今朝方は夢を見ていた。夢の中で私は、見覚えのない平屋に住んでいた。 おそらくその平屋は誰かから一時的に借りているものだった。平屋には大きな庭が付いており、その庭を見ると、一匹の白い猫がいた。 それは先ほど自分が家に向かう最中に出会った猫であり、猫の横を通り過ぎる際に、数回ほど口笛を吹いて猫に挨拶をしていたのを思い出した。その猫はどうやら私の後をこっそりつけてきたようであり、今家の庭にいる。 私は縁側からじっと猫の方を眺めていると、その猫はこちらに近づいてきた。縁側にはスライド式のガラス扉が付いており、私は扉を閉めたまま、扉の奥から猫が近寄ってくる様子を見ていた。 猫が縁側にゆっくりと近づいてきて、縁側の上に上がった時、私はガラス扉を開けてあげ、猫が家の中に入ってこれるようにしてあげた。しかし突然、私はなぜだかそれを止めて、ガラス扉を再び閉めることにした。 ちょうど猫の体が半身ほど家の中に入ろうとしている時に扉を閉めようとしたため、猫は扉に挟まり、一瞬声を上げた。幸いなことに猫の体はなんともなかったのだが、扉に挟まった猫は再び縁側の方に戻

3276. 感覚的な誤りとジョージ・サンタヤーナの書籍について

本日フローニンゲンの街の中心にある古書店で“The Necessity of Errors (2011)”を眺めていると、そもそも私たちが何かを理解する際には、真実と誤りの双方が内在的に存在しているのではないかとふと思った。 立ち読みをしながらしばらく、これまでの私は「芸術(作品)を理解すること」について関心を寄せていたが、「芸術(作品)の理解を誤る」とはどういったことなのだろうかと考えていた。芸術作品を理解するときに、事実的な真実や感覚的な真実などの分類が可能であり、事実的な誤りという分類はすぐに考えられる。 だが、感覚的な誤りという分類が成り立つのかについて考えさせられていた。芸術作品を見たときには、事実的な真実のみならず、感覚的に何かしらの真実も同時に掴んでいるだろうが、芸術作品を見たときに事実的な理解の誤りを犯すことはあっても、感覚的に誤るということが起こり得るのかどうかについて考えてみたが、それについては具体例がすぐに思い浮かばず、その考えを少しばかり寝かせることにした。 「認識上の誤り」という言葉はよく聞くが、それは事実や論理の誤りという狭い範囲のものであり、感覚を通じた認識上の誤りというのも考えられなくはないということを考えさせられていた。 今日はその他にも、“Reason in Art (1982)”という書籍を購入し、これは以前にも注目をしていたものだ。厳密には、この書籍そのものに着目をしていたというよりも、この書籍を執筆したジョージ・サンタヤーナという哲学者に注目をしていた。 今日偶然にもその書籍を手に取り、以前この古書店を訪問した時にはその書籍にあまり響く

3275. 失敗から学ぶためには

時刻は午後の八時に近づきつつある。今日はフローニンゲンの街の中心部にある古書店Isisで九冊ほど古書を購入した。 哲学と社会学の棚にある全ての書籍を一冊一冊丹念に見ていき、数時間ほどその古書店にいたことになるが、今の自分の関心に強く合致する書籍を購入できたことを嬉しく思う。今日は店主のテオさんと奥さんが店を切り盛りしており、九冊ほど購入したためか、有り難いことに合計金額から少し割引をしてもらうことができた。 購入した九冊は下記のものとなる。 1. The Necessity of Errors (2011) 2. The Human Person in a Philosophy of Education (1965) 3. Realism in Education (1969) 4. Philosophy of Human Movement (1978) 5. Modern Philosophies of Education (1962) 6. Philosophy and Education: An Introduction (1962) 7. Reason in Art (1982) 8. Phenomenology & Existentialism: An Introduction (1984) 9. The Logic of Education (1970) 全ての書籍の中には、自分の関心を引く記述が必ずあったため、上記の書籍を購入したのだが、1の書籍を書店でパラパラとページをめくっていたところ、イギリスの哲学者ロイ・バスカーの興味深い記述が目に止まった。 それは、「私

3274. 親友の美容師メルヴィンとの思わぬ共通事項

つい先ほど街の古書店から自宅に戻ってきた。古書店に訪れる前に、かかりつけの美容師のメルヴィンに髪を切ってもらった。 自宅から店までは歩いて15分弱であり、短いながらも散歩を楽しんだ。フローニンゲンの街並みはすっかり秋であり、紅葉した街路樹や、落ち葉などを眺めながら目的地に向かった。 今日はフローニンゲンのこの時期にしては暖かく、日中は半袖で過ごすのがちょうどよかった。美容院に到着すると、店内がリニューアルされていることに気づいた。 メルヴィンの新しい店は、今の店からそれほど遠くない場所にオープンされるということを以前聞いていたので、今日改めて確認すると、オープンはもう間近に迫っており、店の内装は全て準備済みとのことである。次回は新しい店でメルヴィンに髪を切ってもらうことになり、今からそれが待ち遠しい。 今日も髪を切ってもらっている最中には、四六時中メルヴィンとの会話を楽しんでいた。今日も思想的な話に花が咲いた。 本日の会話の中で、なぜメルヴィンと私はこれほどまでに話が合うのかの理由が明確なものになった。私はこれまで欧米で七年間ほど暮らしてきたが、おそらくメルヴィンが一番心を許せる友人だと言えるかもしれない。 今日の会話の中で、メルヴィンがふと、超越的な意識状態の体験について話を切り出してきた。その体験を生み出す手段についてはここではあえて言及しないが、私も同種の体験を過去にしたことがあり、そこからお互いに、なぜ私たちがこれほどまでに心が通い合えるのかの理由を納得し合った。 どうやらお互いに、意識の超越的な変容状態を経験し、そこで得られた知覚体験を日常の現象理解に活用していること

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