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2872. 夢の中のあるミッション

今日はここ数日の起床時間よりも30分早く五時半に起床した。一日の活動の開始は六時前だった。 今日も空には薄い雲がかかっており、朝日を拝むことはできない。ただしそのおかげで早朝は随分と涼しい。 土曜日の朝はとても静かだ。近くで小鳥の鳴く声が聞こえる。 今日は早朝からそよ風が吹いており、一層清々しさを感じさせてくれる。昨日から決めていたことだが、今日はグリーグのピアノ曲を聞くことにした。 北欧を代表するこの作曲家の曲を聴きたいと思わせるような雰囲気が今目の前に広がっている。今日は一日中グリーグの曲を聴くことになるだろう。 今朝方の夢について少しばかり思い出している。夢の中で私は、欧州のある国のある街にいた。 それがどこの国なのか、どこの街なのかは定かではない。それが欧州の土地にあることだけは確かな感覚としてあった。 その街には古びた大きな城があり、私はその城の中にいた。この城は今では民間人の居住場所となっている。 各階には幾つもの部屋があり、様々な国籍の人間が住んでいる。私がこの城にやってきたのは、一つのミッションを遂行するためだった。 城の中をゆっくりと歩いていると、一人のインド人の青年を見つけた。私は彼に話しかけ、すぐにその場で打ち解けた。 おそらく彼は私がこの城の住人だと思ったのだろう。また、この城にはアジア人の居住者は少なかったから、逆にそれが彼の関心を引いたのかもしれない。 私は彼に城の外に出て話をしようと述べた。だが、彼はこの城から外に出ることを躊躇しているようだった。 彼が一向に外に出ようとしなかったので、私は自分がここにやってきた本当の理由を伝えることにした。 私:

2871. GRE対策に向けた単語学習の工夫

時刻は午後の八時を迎えた。この時間帯の黄昏を眺めていると、なんとも心が癒される。 優しい黄色い光がフローニンゲンの街を包み、夜に向けての準備を静かに促している。今日は夕方に散歩がてら行きつけのチーズ屋に行ってきた。 道中、涼しい風が吹いており、往復で40分ほどの散歩を楽しんだ。もう八月が近づいているのだが、こうした過ごしやすい気候には感謝をする必要があるだろう。 自己を取り巻くこうした環境のおかげで、私は日々の自分の取り組みに集中することができている。来週末は少しばかり気温が上がるようであるが、それでもクーラーが必要なほどではない。日中にはカーテンを閉めて太陽の光が入ってこないようにすれば全く問題なく過ごせるだろう。 今日はここ数日と同様にGRE対策の一環として単語の学習を進めていた。毎日30ページずつ大判の単語集を進めていき、合計で521個ほどの単語を毎日確認している。 ようやく先ほど今日のノルマをこなした。今朝から少しばかり学習の方法に工夫を凝らし始めた。 これまでは見開きの二ページが終わる都度、同義語や例文を調べていたのだが、それだとなかなか学習の速度が上がらないことに気づいた。今朝からの工夫として、一日のノルマの半分ほどである16ページの単語を一気に確認し、その後、それらの単語の同義語や例文を確認するという流れにした。 こちらの方が学習効率が高く、昨日よりも短い時間でノルマを達成することができた。また、覚えていない単語に関しては、特に形容詞や動詞に着目し、あまりにも出題頻度が低いような名詞についてはそれほど気に留めないようにしている。本当に余力があればそうした出題頻度が

2870. ある夏の正午に

つい先ほど昼食を撮り終えた。これから午後の活動を始める。 早朝と同じように、目には見えないほどの薄い雲が空全体を覆っており、それが太陽の光を和らげている。確かに今日は晴れなのだが、紺碧の空というよりも、ホワイトブルーの空が広がっていると言ったほうがいい。 昨日と同じような一日が始まり、それが昨日と同じように過ぎていく。その中で確かに昨日と異なる何かを感じることができる。 日々の中に潜む微細な差異に気づきながら生きること。差異への気づきが日々をより豊かなものにしてくれるということを忘れてはいけない。 また、差異への気づきが自己をまた一歩深めてくれる。毎日がいかに同じような一日に思えても、そこには常に差異が内包されていることを覚えておく必要があり、それを発見する必要がある。 今朝方にふと、そういえばロンドンの旅から戻ってきて一ヶ月が経とうとしていることに気づいた。この一ヶ月の間にも、確かな歩みがあったことに気づく。 歩みを確認しながら小さな一歩を進めていくこと。正直なところ、自分がどこに向かって歩いているかなどわからない。同時に、そのようなことを気にかける必要などないことを人生は伝えてくる。 とにかく歩き続けること。どこに向かって歩いているのかわからないが、どこかある場所に向かって歩いていることには気づく。 その様子はさながら、発達のプロセスのようだ。発達には方向性がありながらも、その最終地点は誰にもわからない。まさにそのような形で自分の人生が進んで行く。 今朝方も書き留めていたが、改めて、三つ目の修士号を昨日取得できたことに安堵している。今はその安堵感に少しばかり浸っていたい。

2869. 三つ目の修士号を取得して

早朝からいくつか日記を書き留めたことにより、ようやく一日の活動を開始する準備が整ってきたことを感じる。時刻は午前八時を過ぎ、辺りにも通勤や通学に向かう人たちの姿が増えてきた。 昨夜、論文アドバイザーをこの一年間務めてくださったミヒャエル・ツショル教授から連絡があった。先日提出した論文の評価が出たそうだ。フローニンゲン大学の成績評価の厳しさについては以前にも書き留めていたように思う。それは論文の評価に対しても等しく当てはまる。 昨年の論文は7.5の評価を得ることができ、今年は8だった。9以上の評価を得ることは本当に稀であり、私の中では今回の論文は8か8.5のどちらかだろうと思っていたので想定内の評価だった。 正直なところ論文の評価は全く取るに足らないものであり、何はともあれ最終評価を昨夜無事に受け取れたことに安堵している。これをもって欧米の大学院で取得する三つ目の修士課程を修了した。 フローニンゲン大学の二年目のプログラムでは、最後の最後に論文の再提出を要求される事態に見舞われたため、一年目のプログラムよりも長く感じられた。この二年間において随分と学術的な事柄が鍛錬されたように思う。 この鍛錬は他の領域のそれと同様に終わりはないのだが、今は学術的な領域で鍛錬を積むことそのものの意味を問い直している。この一年間学術機関に所属しないのはそのためであるし、博士課程に進学しないのもそのためだ。 今、芸術教育と霊性教育を探究するために米国のある大学院への進学を考えているが、それも修士課程である。大学教授になるということに一切の関心がなく、自分にはその他に仕事があるため、博士課程に進学するの

2868. 伴走者・伴奏者としての日記

時刻は午前八時に近づきつつある。まだ日記を書き足りないようなのでもう少し文章を書き留めておく。 実際には、私はいついかなる時も文章を書くことが足りていない。常に自分は文章を書くことに劣後していると思う。 もはや筆不精を嘆いても仕方ないのだが、もっと文章を書き留めることが本来できるはずだと思ってしまう。小学校二年生の時に経験した、自己が爆発してひたすらに日記を書いていたあの日のことを思い出す。 自分が書くもっとも重要な文章は日記であり、その他の形式の文章は日記に劣る。それはもちろん自分にとっての意味においてである。 自分の人生を深めていくためには兎にも角にも日記を執筆し続けることが大切になる。その他の形式の文章は結局のところ偽善的なものに過ぎない。 仮に日記が独善的なものとして捉えられたとしても、私は偽善的な他の形式の文章を書くことはできない。もうそんなことに人生の時間を費やすことはできない。その代わりに日記だけを書き続けていく。 死ぬまで日記を書き続けようという気持ち。五月末にアムステルダムに向かっている最中に、列車が停止し、近くの駅で降ろされた。その時にも私は日記を書いていた。 いついかなる時も日記を書き続けていくこと。それを自らに課す。その理由は単純明快で、いついかなる時も私は私として生きているからだ。 自分という一人の小さな人間が一つ一つの瞬間を懸命に生きていたということ。それを書き残しておく。 それを自分は引き受けた。他の人がやらない方法と量でそれをやることを引き受けたのである。 日記としての文章を書くことは本当に心を落ち着けてくれる。時にそれは心を奮い立たせることもあ

2867. 電子メール

書斎から見える空は雲一つないのだが、今朝は朝日の力がとても弱く感じる。そう思っていると、今しがた朝日が赤レンガの家々の屋根を照らし始めた。 どうやら書斎からは見えないところに雲があり、それが太陽を覆っていたようだ。今朝方に見た三つの連続する夢について書き留めていると、夢の中の光景と感覚が再び思い出されるかのようであった。 夢は向き合い方によって、それは精神療法につながるとどこか確信させてくれる。自分の無意識の堆積物が夢を生み出し、そこでまた固有の感覚を得る。 その感覚を夢から覚めた後に解釈や再体験することは夢の体験と夢が持つ意味を咀嚼していくことにつながるようだ。人は意味によって癒しや変容を経験するのではないか?そのようなことを今ふと思った。 夢を振り返ることによって、そこには新たな意味が付加される。この新たに付け加わった意味が自己に治癒と変容をもたらすことにつながっているという確かな感覚がある。 一つ一つの治癒と変容の作用はとても小さいのだが、それは見過ごすことができないほどにありありとそこに存在している。今朝方の三つの夢をここでもう一度思い出してみると、そこには依然として捉え切ることのできない意味が隠されていることに気づく。 一つ一つの夢は意味の宝庫のようだ。夢から意味を汲み取ることに終わりはないが、これからもできるだけ夢を書き留め、そこから汲み取れるものを汲み取っていきたいと思う。 大切な事柄は外にはない。私たちの内側にあるのだ。夢の中で見られた景色とそこで得られた感覚。それらを大切にせずに何を大切にすると言うのだろうか。 人は外を見たがる。いや、現代人は外しか見ていない

2866. 三つの連続する夢

今日も一日が静かに始まった。今朝はいつもより30分遅く起床し、六時半の起床となった。 現在、時刻は七時を迎え、ライトブルーの空が広がっている。朝日は強く降り注いでおらず、ちょうど太陽が薄い雲で隠れているようだ。 今日は最高気温が26度であり、来週の半ばは20度の後半に達するようであり暑い日となりそうだ。来週末にはオッテローへの二泊三日の国内旅行が控えており、幾分暑いが天気に恵まれそうなのは何よりだ。 今朝方はいくつか印象的な夢を見ていた。夢の中で私は、父方の祖父母の家にいた。 現実世界では祖父は数年前に他界してしまったのだが、私は夢の中で祖父と再会することが時折ある。今朝の夢もまさにそうだった。 祖父母の家の食卓に三人で集まり、そこで食事をしながら話すという何気ない光景がそこにあった。祖母がざるそばを作ってくれたようであり、それを食べながら色々な話をしていた。 時の流れは緩やかで、風鈴の音がどこからともなく聞こえてきそうな雰囲気があった。昼食を食べ終える頃になると、祖父が立ち上がり、今から買い物に行ってくると述べた。 私は買い物を手伝うと述べたが、祖父は「一人で大丈夫だよ」と微笑みながら述べた。祖父と私のやり取りを横で見ていた祖母も、「おじいちゃんは一人で行けるから大丈夫よ」と私に述べた。 二人の言葉にたしなめられそうになったが、私はどうしても祖父に付き添う必要があるように思えた。そのようなやり取りをしていると、時間が巻き取られ、祖父が買い物から帰ってきた場面になった。 あれこれと野菜を購入してきたようであり、その他にも新しい自転車を購入しようかどうかを迷っていたらしい。結局自

2865. 単語の色彩感覚

時刻は夕方の六時を迎えた。たった今、ベートーヴェンに範を求めて一曲作った。今日は合計で三曲作ったことになる。 バッハ、テレマン、ベートーヴェンという流れで曲を作ってみると、それぞれの作曲家の固有性がより鮮明に見えてくる。一人一人の作曲家に固有の作曲語法から汲み取れるものを汲み取り、少しずつ自分の作曲語法を構築している。 毎日三曲ほど作ることが習慣になったことはとても喜ばしい。今から一年前においてはそのような習慣はおろか、作曲さえしていなかったのだから。 曲を作ることが日々の習慣になってから、自分の感覚が随分変わったように思える。世界を捉える感覚が変容することに応じて、自分の内面世界そのものも変容しているのを実感する。 おそらく今日は作曲はこのへんにしてまた明日に備えたいと思う。コンスタントに曲を作っていくことが何よりも重要であり、無理をしてはならない。 少しずつ負荷を自分にかけることによって、その負荷が常態化し、負荷と感じられなくなる。最初は一日一曲を作ることもおぼつかなかった。 数日に一曲作るところから、毎日一曲作ることが習慣になった。そこから時折一日に二曲作る日が生まれだし、毎日二曲作ることがいつの間にやら習慣になった。 気がつけば、今は毎日三曲作ることが習慣になっている。単純に横軸に日付を取り、縦軸に一日の作曲数を取り、その時系列データを眺めれば、自分がどのような足取りで作曲実践を営んでいるかが一目瞭然だろう。そして、その時系列データにフラクタル解析を適用すれば、フラクタル次元がわかる。 今日は作曲実践以外にもGRE対策を進めていった。大量に単語を覚えていくことは作曲とは

2864. 他者の声

早朝の空を覆っていた薄い雲が晴れ渡り、今は青空が広がっている。爽やかな風が吹き、街路樹を揺らしている。 外の世界に風が吹くとき、自己を取り巻くゆりかごが優しく揺れるような感覚になる。この世界は大きなゆりかごだったようだ。鳥たちがそのゆりかごに揺られながら、安心して大空を舞っている。 多くの人は見過ごしがちかもしれないが、空気にも肌があり、建物にも肌がある。生物のみならず、無生物にも肌があるのだ。 そう考えると、常に私たちは他者の肌と触れ合っていることになる。この世界は肌で構成されており、肌の充満性しかそこにないということを忘れている現代人が多すぎるように思えるのは私だけではないだろう。 表面的な人間関係。外見上は物を愛しているように見える現代人も、実際には物すらも深く愛していない。彼らは一様に肌を認識することができず、肌のぬくもりに気づけていないのだ。 今日はこれからテレマンに範を求めて一曲ほど作り、散歩がてら近所のスーパーに買い物に出かける。早朝にバッハに範を求めて一曲作った際に、参考にした曲はとても短いものでありながらも、そこにはやはりバッハの深い音楽世界が体現されていることに気づく。 バッハの音楽から汲み取れることは本当に計り知れない。これから何年もの時間をかけてゆっくりと汲み取れるだけのものを汲み取っていく。 手元にあるバッハの楽譜の全曲を参考に一度曲を作り終えた時、バッハが少しばかり近づいてくるだろう。そしてその頃には、少しずつ自分の作曲語法のようなものが確立されていることを願う。 これから参考にするテレマンの曲からどのような気づきや発見があるのか今から楽しみである。

2863. 単語のネットワークの拡張と自己の深化

昔から英単語を覚えることが好きであったが、この歳になってもそれに喜びを見出す自分がいることに気づいたことは驚きである。日本語の語彙も英語の語彙も、その成長速度は微々たるものだが、ゆっくりと言葉のネットワークを育んでいくことはいくつになっても独特の喜びをもたらす。 言葉というのは不思議なもので、語彙が豊富になればなるほどに、認識世界が拡張していく。また、言葉のネットワークが密になればなるほど、認識世界内での言語使用の密度及び堅牢性が高まる。こうしたところに喜びの根源があるのかもしれない。 先日、“herring”という魚の姿は自らの英語空間の中で完全に想起されていたのだが、その単語に対応する日本語を忘れており、幾分もどかしい思いをした。それが「ニシン」であることを思い出したのはしばらくしてからであり、言葉が欠落することの不自由さを実感することになった。 私たちは言葉を使って思考をする生き物であり、言葉の欠落は思考運動を随分と妨げるのだなと改めて思わされた。そもそも、ある言葉の意味を知らないということはその言葉が意味する事柄が自分の意味世界にはないということを表す。 確かに言葉によって私たちの認識世界は分節化されているが、逆に言えばこうした分節化がなければ、ある対象を他の別種の対象と分けて把握することができない。“herring”と“mackerel”の単語が自分の内側になければ、それらの魚を正確に区別することはできない。 また、名詞のみならず多様な形容詞を獲得していくことにより、感情の機微を表現することやそれを理解することが可能になってくる。言葉は私たちの感情世界にも当然ながら繋

2862. GRE試験対策の楽しみ

今朝方は夢を見ていた。起床してから時間はそれほど経っていないが、記憶がすでに断片的なものになってきている。覚えている範囲の事柄を書き留めておきたい。 夢の中で私は、埼玉に住む知人の家に行くことになっていた。ちょうど私がいる場所は東京駅であり、知人の方の話によると、東京駅から最寄り駅までは電車で一本で行けるとのことである。 それは非常に便利だと思っていたところ、時間としては二時間ほどかかることがわかった。しかし電車に乗ってみると、二時間という時間を忘れさせてくれるような景色が窓の外に広がっていた。 確かに、時に開発中の街の姿などが目に入ってきたが、そうした景色ですらも自分の内側の何かに響くものがあった。天気はどこか初秋のそれを思わせる。 優しい太陽の光が電車の中に差し込んでおり、それに包まれながら私はぼんやりと窓の外を眺めていた。二時間という時間は長いように思われるかもしれないが、全くそれが長いものだとは思えないような心境で私は電車の中にいた。 電車に揺られていると夢の場面が静かに変わった。そこからの夢についてはどうも思い出せない。そこからはまた別の夢を二つほど見ていたことだけを覚えている。 時刻は午前七時を迎えつつある。昨日から本格的にGRE対策を始めた。 「本格的に」と言っても勉強時間は数時間程度である。GREの試験は確かに現在進学を考えている米国の大学院に提出が求められているが、GREの成績は五年間有効であるため、四年前に受験した際の結果がまだ使える。 また、今回の受験においてはこの四年間の自らの学術的な英語力の進展を測定するためでもあるから、一日中GRE試験に向けて勉強す

2861. モネの生涯から

今朝はここ数日間と異なり、起床直後の空は雲に覆われていた。朝日が差し込んでおらず、幾分薄暗い印象を私に与えた。 今日は六時前に起床し、六時を少し回ったあたりから一日の活動を開始させた。つい先ほど毎朝の習慣のヨガを行い、一日分のお茶を入れた。 昨日はついつい目の前の取り組みに集中するあまり、夕方のヨガの実践を怠ってしまっていた。今日はそのようなことがないようにしたい。 身体を整えることは何より重要であり、それが心を整えることにつながる。一日の活動の際は絶えず呼吸をゆっくりとしたものにすることを意識したいと思う。 普段の私の呼吸の速度は十分にゆったりとしたものだが、さらに緩やかに呼吸をすることも可能だろう。その余地がいかほどかを観察し、さらにゆったりとした呼吸の実現に向けた意識付けを行っていく。 今日は空が雲に覆われているからか、昨日よりも涼しく感じられる。今日の最高気温は24度とのことである。来週の頭は少しばかり気温が上がるようだ。 来週末は昨年の秋に訪れたオッテロー村を再度訪れる。その村のデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園の近くのホテルに宿泊し、クレラー・ミュラー美術館を再度訪れる。今回はとりわけオディロン・ルドンの特別企画を楽しみにしている。来週末も天気が恵まれることを願う。 昨夜から、ロンドンのナショナル・ギャラリーで購入したモネのドキュメンタリーDVDを視聴し始めた。これは大変素晴らしい作品だ。 モネの美しい作品とゆかりの地に関する動画の節々にナレーターがモネの手紙を一人称形式で時折読み上げていく。モネの生涯を作品と共に辿り、彼の芸術家としての発達過程を理解する上で貴重な資料

2860. 自分の取り組みに専心すること

時刻は夕方の六時を迎えた。今日の大半は強い日差しが差しており、午後に少しばかり太陽が雲に隠れる時間帯があった。 穏やかな早朝の雰囲気を改めて思い出してみると、心が落ち着く。そよ風の音に耳を傾けると、こうも心優しい気持ちになれるのだ。 優美な時間の流れの中で生きること。それが常態化し、優美さが即日々だと言えるような状態になってきている。 時間がゆっくりと流れ、緩やかな時間の流れの中で自分が取り組むべきことに専心する日々が続く。他人が自分の取り組みにあれこれ何か意見を述べたとしてもそれに耳を傾けてはいけない。 残念ながら人の取り組みに意見を述べる人は、自分の人生において取り組むべきことを持てていないのだ。ライフワークとも呼べるべきものがないがゆえに、意識を集中する対象を持たないがゆえに、人の取り組みにとやかく口を出そうとする輩には注意しなければならない。そうした人との付き合いを一切絶つ日も近づいている。 ここのところ就寝前にこれからの生活地について考えることが多い。どのような場所で生活をするかは精神生活に多大な影響を及ぼすがゆえに生活拠点の選定は非常に重要だが、これまでの自分の人生を振り返ってみた場合、大抵運命的な導きによってある拠点で生活を営むことが始まる。 これからの生活地についてあれこれ考えてみたところで、結局は何かの導きによってある場所で生活を始めるのであるから、どこに落ち着くかなど今から考えてもしょうがないのだ。人は将来について考えたがる。 自分にとってはまだ欧州での三年目の生活が始まっていないにもかかわらず、その後の生活について考えようとしている。将来の計画はほどほどに

2859. バロック時代の二人の巨匠テレマンとバッハ:ワークライフバランスについて

早朝の作曲実践を先ほど終えた。今日はここ数日間と同様に、バッハのコラールに範を求めた。 現在はまだ二声のコラールを参考にして曲を作っている段階であり、楽譜に収められた69曲の全てを参考にした後は、371曲ほどの四声の曲を参考にしていく。一日の始まりの作曲実践と一日の終わりの作曲実践はバッハのコラールを参考にしており、一日二曲ほどバッハから範を求めていることになる。 仮にこれを今後毎日続けたとしたら、二声のコラールについては残り50曲であるから25日ほど時間を要し、371曲の四声の曲については半年ほどの時間を要するだろう。いくら時間がかかろうともこれを成し遂げていく。 そう思わせてくれたのは、バッハの曲に範を求めている時の自分の内側の感覚である。より正確には、バッハの曲に範を求め、出来上がった曲を聴いてみると、それは外見上は極めてシンプルで時間も短いものなのだが、何か大切なものが梱包されているように感じるのである。 こうした感覚を一番強く引き起こしてくれるのがバッハの曲であり、それと同等のものを引き起こしてくれるのがテレマンの曲だ。後期バロック音楽を代表するこの二人の作曲家の曲は、自分の内側にある何か大切なものを喚起してくれる。 今日は昼食前か昼食後にテレマンに範を求め、夜にはまたバッハに範を求めたい。時間の余裕を見て、今日はベートーヴェンにも範を求めるかもしれない。 今日は週も半ばを迎えた水曜日である。今、通りを歩く親子の姿を見た。父親が小さな男の子を肩車しながら歩いている。 今日は平日のはずなのだが、こうした光景は私の心をどこか和やかなものにしてくれる。オランダのワークライフ

2858. GRE対策に向けて

時刻は早朝の七時を迎えた。オランダの朝は早く、この時間帯には通勤や通学に向かう人たちの姿を見ることができ、自宅の前の通りの工事も始まった。今、静かに工事が進んで行く音が聞こえる。 今日は風が吹いておらず、街路樹が静かにその場にたたずんでいる。空は晴れ渡っており、数羽の鳥たちが元気に空を舞っている姿を今眺めている。 先ほどの日記で書き留めたように、昨日から少しずつGRE試験に向けた勉強を始めた。試験勉強としてやることは明確であり、数学のセクションの勉強は問題形式の確認程度にとどめ、ライティングと語彙・英文読解のセクションの対策に時間を充てることである。 先週に対策問題集を解いてみたところ、四年前に比べて進歩が見られたことは喜ばしかった。今日から来月末の試験に向けて徐々に勉強を進めていくが、それは勉強というよりも一つの楽しみとして捉えることができる。 この四年間の学術英語に関する進展を確認することができるという楽しみがあり、何よりもGREの単語を覚えていく作業が面白いということは幸いだ。確かにGREに出題される単語はTOEFLで出題される単語とは比べものにならないほど難しいが、それらを押さえておけば、英語の学術論文や専門書を読むことがより容易になるということをこれまで実感していた。 もちろんそれに加えて、ある専門領域の領域固有の単語に習熟する必要はあるが、GREに出題される難解な単語を学習しておくと英文読解の幅が格段に広がることをこれまで実感してきた。またこれは英文を読むことだけではなく、英文を書くことに関しても同じことが言える。 正直なところ、修士課程以上で学術的な文章を執筆する

2857. 今後の生活地について

起床直後に目を開けてみると、真っ赤に輝く朝日の姿が飛び込んできた。燦々と輝く朝日を寝室の窓からしばらく眺め、私は書斎に向かった。 六時の起床から六時半の一日の活動の開始までいつもと同じルーティーンを行った。天気予報を確認すると、今日も晴れとのことであり、気温は昨日よりも涼しい。昨日は幾分暑かったから、今日のような程よい涼しさを持つ気温は有り難い。 昨日から少しずつGRE試験用の単語を覚え始めた。試験自体は来月末にあり、今から一ヶ月後にある。 オランダではGRE試験を受けられる会場が少なく、アムステルダムに二箇所あるぐらいだ。試験開始の時間は九時であり、フローニンゲンから会場までの移動時間を考えると、試験の前日に前泊する方が賢明だと思われたため、先日ホテルを予約した。 アムステルダムの試験会場がある辺りはこれまで訪れたことがないため、試験の前日は散歩をし、その辺りの雰囲気がどのようなものかを感じ取りたい。四年振りにGRE試験を受けようと思ったのは、この四年間における学術的な英語力の伸びを確認するためと、実は米国のある大学院に芸術教育と教育哲学の双方を学ぶことのできる興味深い修士課程があることを見つけ、そこに応募するためでもある。 この一年間は学術機関から離れて探究活動をしていくが、来年はまた大学機関に所属することになるかもしれない。だが、以前から繰り返し述べているように、大学に雇われるようなことは基本的には望んでおらず、学術機関に所属しながら窮屈な形で自分の探究活動を進めていくことは望んでいない。 今はまだその大学院に受け入れられるかもわからないが、仮に受け入れられたとしてもそこ

2856. 自らに課す三種類の教育

時刻は夕方の四時半を迎えた。今日は素晴らしい快晴となり、昼食前にランニングに出かけた。それは多分に気分転換となり、心身の状態を整える上で素晴らしい時間となった。 今日はいつもより気温が高く、幾分暑く感じられるほどだ。書斎の窓のカーテンを閉め、太陽の熱が部屋に入ってこないようにしている。 今日は暑いと思ったら、最高気温が29度に到達する時間もあったようだ。今は27度ほどであり、明日は最高気温が24度とのことであるから今日よりは過ごしやすい一日となるだろう。 今週末も先週末に引き続き、近くの教会に足を運び、オルガンコンサートに行こうかと考えている。突然計画が変わることも考えられるが、今のところ土曜日にオルガンコンサートに参加する予定だ。幸いにも、今週の土日はどちらも共に最高気温が23度ほどであり、天気も晴れのようだ。 先ほど、昨日から読み進めていたクリシュナムルティの書籍を読み終えた。真の教育の重要な側面は、各自が最も関心を示すものが何かを発見する手助けをする、という主張はまさにその通りだと思う。 一方で、現代の教育がその真の役割を果たせていない要因の一つには、仮に各自が最も関心を示すものが何かを発見したとしても、それをもとに生きていくことが難しいことにあるのではないかと思う。得てして、最も関心を示すものがいつの間にか経済的な収入を獲得するための道具に成り下がってしまい、しかも自分の好きなことで経済的に生きていける人はほんの一握りであるという社会的な状況がある。 確かに、好きなことを仕事にすることができ、それで副次的に経済的な安定性が得られることは望ましいのかもしれないが、ひとたび

2855. 固有な体験からの学び

今日はもう少ししたら近所のノーダープラントソン公園にランニングに出かけたいと思う。早朝の空を覆っていた薄い雲がどこかに消え去り、今は青空が広がっている。気温もほどよく、ランニングにはもってこいだと言える。 早朝に空を眺めていると、空から慈しみが降り注いでいるかのように思えてきた。本来は、毎日慈しみが天から降りてきているはずなのだが、私たちの曇った眼にはそれがなかなか認識されない。これはとても残念なことである。 眼が曇っているというよりもむしろ、依然として眠りについた状態だと言えるかもしれない。現代人は寝ているか、幻覚を見ているかのどちらかだ。そのようなことをふと思う。 自宅の目の前の歩道の工事が少しずつ進んでいる。今日もゆっくりと工事が進んで行く。それは本当に目には見えないほどのゆっくりとした速度で進んでいる。 工事が完成した時、私はおそらく何か特別な感情に浸ると思う。ゆっくりと進め、それを一つの形にしていくこと。目の前の通りの工事はその尊さを教えてくれるにちがいない。 今朝方に過去に作った曲を聴いていると、今から一ヶ月前に訪れたロンドンの記憶を思い出した。それもそのはずで、その曲はロンドンのカフェに立ち寄った際に作った曲だったからだ。 ロンドンを訪れてから一ヶ月経つということが信じられない気持ちである。だが、来週末にデ・ホーヘ・フェルウェ国立公園へ二泊三日のオランダ国内旅行に行く日が迫ってきていることを見ると、ロンドンを訪れてから確かにそれなりの時間が過ぎたのだということに気づく。 時間が着実に流れる方向に流れるべくして流れている。今日も明日もそのように時間が緩やかに流れてい

2854. 書くことと脳の可塑性

時刻は午前八時に迫ってきている。早朝の朝日が赤レンガの家々の屋根に美しく反射している。 確かに今日は空一面が薄い白い雲で覆われているが、それでも太陽の光は地上に差し込んでくる。今日は天候に恵まれているのだから、昼食前に必ずランニングに出かけたいと思う。 起床してから身体運動を行い、そこからしばらく日記を書くというのは一日の活動を本格的に始める上で非常に良い準備になっている。早朝の身体運動が体を目覚めさせるための準備であるならば、日記の執筆は精神を目覚めさせるための準備のように思えてくる。 毎朝日記を書くことは、その日一日の活動に大きな影響を及ぼしていることがわかる。日々の充実感と幸福感は日記の執筆によって生み出されていると言っても過言ではないだろう。そこに作曲実践やデッサンが加わることによって、毎日がより深いものになっていった。 日記を執筆していて最近よく思うのは、自分が特定の一つの主題について掘り下げて文章を書くというよりも、様々な主題を縦横無尽に行き来するように文章を執筆しているということだ。これは私の特性と合致した文章執筆方法であり、この執筆方法のおかげで、結果として特定の主題が螺旋を描きながら深まっていくことに気づく。 多様な主題について文章を書けば書くほどに、脳の可塑性が向上しているように思える。私は昔から一点集中のような、何か特定の対象に極度に集中するようなこともある一方で、注意が散漫なこともよくあった。 注意が散漫というよりも、関心が多岐に渡り、思考が飛び飛びになることがよくあったと言い換えることができるかもしれない。正直なところ、大人になってもこの特性はあまり変

2853. クリシュナムルティの教育思想より

今日はこれからバッハとサティの曲に範を求めて作曲実践を行う。昨日より、バッハの短めのコラールから一日の作曲実践を始め、一日の作曲実践の終わりにもバッハのコラールを参考するようになった。 結局昨日は四曲ほど作ることができた。一日三曲作ることが習慣になり始めていたが、このように一日に四曲作ることも全く不可能ではなく、むしろ今はバッハのコラールを全て参考にすることに力を注いだ方が良いと思われるため、朝と夜にバッハの曲に範を求めることを新たな習慣にしたい。 とにかく今は大量の曲を次から次に作っていくことによって実践量を増やし、豊富な実践体験を積んでいくことが大切だ。そうした膨大な実践の過程の中で絶えず振り返りを行い、気づきと発見を集積し、新たな仮説につなげていく。 自分が現在行っている実践方法を眺めてみると、それは多分に教育学における学習理論がうまく活用されているように思う。フローニンゲン大学の二年目で学習したことが自分の実生活の中に溶け込んでいることを見て嬉しく思う。 作曲理論を学習する際、そして作曲技術を高める際に、教育学における学習理論は非常に役に立つ。そうした理論的な枠組みを持って日々の実践がより豊かなものになっているのを実感する。 バッハとサティに範を求めて作曲実践を行ったら、昨日から読み始めたクリシュナムルティの書籍を読み進めていきたい。おそらく今日中に初読が終わるだろう。 先日読み終えたクリシュナムルティの書籍もそうだが、今読み進めている書籍も非常に得るものがある。今後教育哲学に関する探究をより本格的に行っていく際に、クリシュナムルティの教育思想とシュタイナーの教育思想は

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