
2067. ライフワーク
起床してから二時間以上が経ったが、相変わらずあたりは真っ暗である。よくよく考えてみれば、今日は五時に起床していたから、今のこの時間帯が闇に包まれていたとしても一向におかしくはない。 今日は日曜日であるため、その静寂さが一層強さを増す。そうした中にあって、小鳥の声がいつもよりひときわ鮮明に聞こえてくるのは喜ばしいことだろう。 どこからか、ピヨピヨ、チヨチヨと鳴く小鳥の声が聞こえてくる。小鳥の声に耳を澄ませ、心が洗われるような気持ちになっていると、昨日スーパーのレジで私の前に立っていた客が手に持つ花の良い香りが想起された。 花々について造詣が深くないのが残念で仕方ないが、その名前のわからない花が持つ豊かな香りを忘れることはできない。ときどき私は、街を歩いている時に、花屋の前で足を止めることがある。 特に花を買うわけでもないのだが、ついつい足を止めてその花々の美しさに見入ってしまい、そこに漂っている香りの世界の中に入ってしまう。そのような体験を花屋の前でするたびに、花を生けてみたり、植物を育ててみたいという気持ちになる。 いつか今後もう少し落ち着いて定

2066. 他者の謎の上を他者の足で歩こうとする人間
いつも大抵、日本語でこのようにメモ書きとして日記を残す分量は、だいたい4,000字から5,000字の間に落ち着く。主題が先にあることが当然多いが、仮にそうだとしてもそれをどのように文章の形にしようかなどは一切考えていない。 そう考えると、主題をある一定形式に基づいて形にしようとしないこれらの文章は悪文と言えるかもしれない。事実、悪文であり駄文である可能性が高い。 だが、私たちは往々にして形式的に文章を書こうとするあまり、それを言い訳に結局何一つとして文章を書かない、あるいは文章を書けない、ということが起こりうるのではないか、ということを今朝方ふと思っていた。 形式に則って表現行為をしていくことは価値のあることであり、また大切なことである。しかし、多くの人は形式というものに飲み込まれ過ぎてはいないだろうか。 形式の中に入ろうとするから何一つとして形を生み出せないのであって、形式という無数の道の上を歩くことによって身体を自然に前に進め、その過程で形を生み出していくというような意識が必要なのではないだろうか。
昨日もバルトークの生涯について調べてい

2065. 躍動する生命と身体
今日の仕事に取り掛かる前に、最後にもう一つ文章を書き留めておきたい。今朝確認してみると、昨日は三つほどの日記を書き残していたようである。 いつも平均して四つほどの日記を書き残しているため、昨日は平均よりも下回る形であった。そうした日の次の日の朝は、昨日書き足りなかったことが溢れ出てくるかのような現象に見舞われる。 今もまさにそのような現象が自分の中に起こっている。ここでもやはり、一日のうちに自分の内側には形になろうとして待っているものが無数に存在し、それを十分に形にしなければ、形になろうとする運動はその翌日にも止むことはないことがわかる。 それは自分の内側の「形象衝動」と述べていいものだろうし、「自発的な形象運動」と表現していいものだろう。 昨日も文章の代わりに曲を二つほど作っていた。その行為を通じて、自分の内側で形になろうとする現象を曲としては十分に表現していたはずなのだ。 しかしそれにもかかわらず、自分の内側にはまだ随分と形象衝動を抱えたものが存在していたようなのだ。そうしたことを考えると、やはり私は曲や言葉のどちらか一方ではなく、それらの双

2064. 創造プロセスについて
作曲実践に取り組めば取り組むほど、曲を作ることの奥深さを知る。確かに、曲を作るプロセスには意識的な箇所と無意識的な箇所の双方が伴う。 作曲実践の経験を積めば積むほどに、意識的に生み出されるものと無意識的に生み出されるものの両方の質が高まっていくという現象は大変興味深いことではないだろうか。熟慮のある実践を継続させていけばいくほどに、意識的・無意識的な創造力の双方が向上していくというのは、私にとっては大変面白い現象である。
曲を作っていると、作曲者当人の意識を超えた形で様々なものが形となって出てくることがある。これは作曲のみならず、絵画や表現を司る芸術行為全般に見られることだろう。 無意識の世界から生み出された形は、私の意識を超えており、時にそれが生み出される瞬間と生み出された形に対して驚きの感情を覚える。それがなぜそのような形で生み出されたのか、説明出来る箇所も多分にありながらも、全く説明の及ばない箇所もある。 説明可能性と説明不可能生が混在しているのが創造プロセスの本質なのかもしれない。曲を作る際にそうしたプロセスを体験し、私は曲を解説する

2063. ある日曜日から
今朝は五時過ぎに起床し、五時半過ぎから本日の活動を開始した。とても静かな日曜日の朝である。 昨日同様に、書斎の中にバルトークのピアノ曲を掛けながら、早速一日の仕事に取り掛かることにした。昨日も作曲実践に取り組む中で、他の作曲家が残した楽譜というのは実に優れた教材であると改めて思った。 昨日はフォーレの曲を参考にしており、細かく楽譜を辿ってみると、フォーレが作品に込めた意図と技巧の一端が見えてきた。もちろん、今の私にはそれらの全てが見えるわけではなく、あくまでもその一部にしか過ぎないだろうが、こうした発見をもたらすのは意識的にその対象と向き合うからである。 その作品に集中し、意識的に分析を行っていくことでしか見えてこないものがあるようなのだ。一方で、こうした分析を継続していると、ある時その作品からふと大きな気づきを得るようなこともある。 すなわち、その時には意識的に対象と向き合っていなくても、重要な気づきが無意識的に獲得されるようなことが起こる。ただし、こうした現象が起こるためには、やはり前提条件として、それ以前に対象と真剣に向き合ったことがあるか

2062. バルトークの音楽宇宙との出会い
これから三月末まで研究インターンに従事する。来週にもう一度、インターンにおけるアドバイザーを務めていただくジャン・ディエナム博士と、昨年にフローニンゲン大学のMOOCに関するワークショップを提供していた実務的な責任者の方を交えてミーティングを行う。 二月の最初の月曜日からいよいよ研究インターンが開始される。ディエナム博士と先日ミーティングをした時に、私が仕事ができるようにオフィスを準備すると述べてくださり、普段仕事を進めている自宅の書斎以外の場所で仕事をすることは、また新たな外部刺激となるだろう。 この研究インターンと並行して、三月末をめどに、日本企業との協働プロジェクトが二つほど落ち着く予定である。落ち着くと言っても、それは現在一緒に取り組んでいるプロジェクトが一旦一つの形になるというだけであって、四月以降もまた今回のプロジェクトをもとに新たな協働プロジェクトを進めていくことになるだろう。 そうした状況にあるのは確かだが、スケジュールを改めて眺めると、インターンと協働プロジェクトが一旦落ち着きを見せる四月の初旬に一週間か十日ほどの短い休みを確保

2061. メモを残す人間
昨日、「応用研究手法」のコースの最終課題のドラフトを作成し、一晩寝かせた。今日は夕方にもう一度レビューをし、誤字脱字などを含めて追加・修正を施したい。 そのレビューをもってして、もう一人の受講者であるグルジア人のラーナにドラフトを送り、お互いのレポートに対してフィードバックを行う。もう一つ本日中に取り掛かっておきたいのは、来週の水曜日に控えているポスタープレゼンテーションの説明資料を完成させることである。 年明けすぐにそのドラフトを研究アドバイザーのミヒャエル・ツショル教授に送っており、特に修正事項もなく、その時点で資料は完成していたと言える。ただし、そこからまた研究のアイディアを少しばかり練り直したため、その新たな追加項目を資料に盛り込んでおきたいと思う。 今日は学術研究に関する仕事をその他に行うことをせず、文章を書くことや曲を作ることに多くの時間を充てたい。昨日ふと、「自分はメモを残す人間である」という考えが降りてきた。 言い換えれば、メモを残すことが自らのライフワークであり、自らの使命であるという考えだった。何に対するメモなのだろうか?次に

2060. 静寂さへの道
今朝は活力に満ちた形で六時前に起床した。六時半前に一日の活動をスタートさせることができる土曜日というのは、休日初日の一日全体がどこかとても充実したものになるだろうということを予感させる。 起床直後、いつものようにお茶を入れていると、ティーバッグに記されていた言葉に目が止まった。翻訳するならば、「自己が達成する最大の事柄は静寂さになることである」という文言がそこに記されていた。 そこに書かれていたことは、ここしばらく私自身が考えてきたことと非常に似ているため、心に響くものがあった。大きな感動というよりも、それこそまさに自己が静寂さになるような感覚がそこにあった。 私たちが成し得る最大の事柄が、仮に静寂さになることであれば、今この瞬間の私たちを振り返ってみるとどのようなことが言えるだろうか。静寂さそのものになっていくよりも前に、自己を取り巻く内外に静寂さは存在しているだろうか。 私たち一人一人の内面世界も現代社会も、どこか静寂さとは真逆の方向に向かって動いてはいないだろうか。そのようなことを考えさせられる。 私はその文言の付された紙をティーバッグから

2059. 課題の完了
今週も気づけば週の終わりに近づいている。明日からが土日であることが信じられないぐらいに、平日の五日間が光のような速度で過ぎていったように感じる。 今週は日本企業との協働プロジェクト関係での仕事が多くあり、そうした事情もまた平日の時の流れの速さに影響を与えていたのかもしれない。スケジュールを改めて確認してみると、これから三月末までは今週のような平日が続くように思われる。
今日は昼食前にランニングに出かけ、昼食後からは「応用研究手法」のコースの最終課題に取り組んだ。コースを担当するロエル・ボスカー教授の配慮もあり、課題内容を受講者であるグリジア人のラーナと私の要望を取り入れる形で決定し、それほど分量の多くない課題となった。 課題の難易度に関してもそれほど難しくはなく、今回のコースで習得した応用研究法のうちの一つが私たちに割り当てられ、その研究手法を活用するにふさわしい研究テーマを考え、研究デザインを立案することが課題の焦点となる。 そして、その研究手法はどういった観点において、因果関係の妥当性を脅かす種々の要因に対処していくのかを説明することも課

2058. グルジアへの訪問
今年のフローニンゲン大学の教育科学学科には、総勢で60名ほどの修士課程の学生がいる。そのほとんどは教員経験のある者で占められており、私を除いて他の全ての学生はオランダ人である。 フローニンゲン大学は留学生が多く、多様性が確保されていることで有名であり、確かに発達心理学科に在籍していた昨年は、欧州の国々を中心にオランダ人以外の学生が多かった。 しかし今年は打って変わって、オランダ人の中に一人日本人の私がいるような状況である。教育学科にはいくつもの専攻があり、教員経験のある者の多くは「教授法(教育方法)」を専門とするより実践的なプログラムに在籍していたり、教員経験のある者の中でも、特に教育に関する科学的な研究に関心のある者はより学術的な側面を強調したプログラムに在籍している。 私が在籍しているのは、「実証的教育学」と呼ばれるプログラムで、これは教育学の分野において比較的最近になって確立されたものであり、実際にフローニンゲン大学でもここ数年の間に立ち上げられた新しいプログラムである。 今、「私が在籍している」と表現したが、実際には「私しか在籍していない