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1883. 意識的な鍛錬とゆっくりと眺めることの効用

今朝、気づかないうちに、バッハの前奏曲第9番を150回ほど繰り返し聴いていることに気づいた。この曲の何かに取り憑かれたかのように、グレン・グールドの演奏するこの曲を延々と繰り返し聴いていた。 私は本当に繰り返しが好きなのだと思う。それも単なる繰り返しではなく、絶えず差異を内包する有意味な繰り返しが好きなのだ。 絶えず差異を内包する有意味な繰り返しとは、私たちの日々に他ならないのではないだろうか。本来、私たちの人生における毎日は、絶えず差異を内包した有意味なものなのだ。 早朝、激しい雪のつぶてが空から降ってきた。それが窓ガラスにぶつかる音は小刻みであり、軽快なリズムを刻んでいた。 バッハの前奏曲から一旦離れ、今度はグリーグの曲を聴くことにした。一体どれだけ優しい音色を生み出した作曲家なのだろうかと思わずにはいられないほどに、グリーグの優しい調べに引き込まれていった。 現在私は、グリーグの叙情曲集を最初から順番に分析することを行っている。午前中に四曲ほどの分析を終えた。 つくづく、曲を聴き流すのではなく、楽譜を目で追いながら曲を聴き、そして楽譜に対して自分なりの意味付けを行ってみることがいかに有益かを知る。これは外国語のリスニングと全く同じであり、楽曲を意識することなく聞き流していても、その曲の持つ意味を深く理解することなどできはしない。 米国で生活を始めた当初、英語を聞き流すことによってリスニング力を高めようと思ったが、それは全く効果がなかった。楽曲を理解するためには、意識的な鍛錬が必要であり、その鍛錬の成果が結果として無意識の次元に浸透していくのである。 無意識に行う鍛錬な

1882. オーストリアの片田舎オーベルンドルフでの記憶

日々自己を取り巻く現象によって内側に喚起される事柄を、日記や作曲として形にしていく日々が始まってしばらく経つ。それは文章による日記であり、音楽による日記である。 私は文章の執筆にせよ、作曲にせよ、それらを日記のように行うことが持つ、独特の意義と価値を見出し始めている。それらを大袈裟な形で行うのではなく、誰もができる形でそれらを行い続けているのが自分の日々の活動だと言える。 毎日日記を書くことと毎日曲を作ること。それは今日という日を造形することであり、明日を作ることになりはしまいか。 人生の一つ一つの日々を言葉として、音として造形していくのである。造形の持つ喜び。造形がもたらす充実感と幸福感。それらを感じる中で私は日々を過ごしたい。 同時に、多くの人にそれらを感じてほしいという望みがある。自分の人生を生きるというのは、自己を著述することではなかったか。 著述の形は何であってもいいのである。私の場合は、言葉を通じての著述であり、音を通じての著述である。 そのようなことを考えていると、創作活動と著述活動は等しいということが見えてくる。創作とは、自らを著述し、この世界に自らを造形していくことなのだ。 さらには、表現物を造形していくだけではく、自己そのものを造形してくことが、創作の本質なのだろう。 昨夜、私はなぜだか、今年の春に訪れたオーストリアのオーベルンドルフという小さな町での体験について思い出していた。 オーベルンドルフは、モーツァルトの生誕の地であるザルツブルグから電車で数十分ほど北上したところにある。私がオーベルンドルフを訪れたのは、この町にある、『きよしこの夜』が誕生した

1881. 新たな決意

今朝は6:20から一日の活動を開始させた。昨夜から、私はバッハの前奏曲第9番を繰り返し聴き続けている。 この日記を書いている今も、わずか一分半ほどのこの曲だけを繰り返し聴き続けている。 創作を通じた人間発達の考究とその実践。それだけを行いたい。 それだけに従事しながら人生の最後の日まで歩みたい、と昨夜改めて思った。その考えに揺らぎはなく、今朝もその考えの熱に私は包まれている。 創作を通じた人間発達の考究とその実践は、もはや自分の信条になりつつあるようだ。私は来年、本当に大きく人生の舵を切るかもしれない。 創作に伴う歓喜と充実感、そしてそれがもたらす幸福をどこまでも深く追い求めたいのだと思う。それは、歓喜や充実感、そして幸福感を獲得するという意味での追求ではない。 それよりもむしろ、それらが一人一人の人間の中で生み出され得るということの追求であり、それらがこの現代社会で広く浸透していくための追求である。この社会で生きる多くの成人や子供が、創作に伴う生への充実感と幸福感を感じられるようになったら、どれほど望ましいだろうかと考えざるをえない。 そうした状況は私の単なる理想でしかないのかもしれないが、人々の日々の生活の中になんとかして創作活動を取り入れてもらえないだろうかと考えている。創作活動は何でもいい。 盆栽、絵画、作曲、料理、詩など様々なものが創作活動に該当する。私たち現代人は、どうもこうした創作活動に従事するための心の余裕や時間的余裕を欠いているのではないだろうか。 さらには、私たちが本質的には創作を通じて内面の成熟を遂げていくということを見過ごしているのではないだろうか。

1880. 美と内面的成熟

ついに雪が降り始めた。欧州の他の地域ではすでに雪が降っていた場所が数多くあるそうだが、オランダ北部のフローニゲンは、本日ようやく雪と遭遇することになった。 白い雪がなんとも言えない美しさを身にまといながら地上に降りてくる。外は間違いなく寒いと思われるが、そんなことを忘れさせてくれる景色が、今私の目の前に広がっている。 天から舞い落ちてくる粉雪は、自然の恵みであり、自然が生み出す美であった。私は書斎の中で、グリーグのピアノ曲を聞きながら、白く輝く雪をただただ見つめていた。 朝が朝でないと思えるほどに、薄暗さが残っている。その薄暗さを照らすかのように、白い雪が空から舞ってくる。そんな光景を目にしながら午前中の時間は過ぎていった。 夕方、やはり四時半を迎えた時間帯からもう辺りは暗くなり始めている。昨日は空に雨雲が覆っていたせいか、今日よりも暗さの深みがあったように思える。 今はまだ、夜想曲が始まる前の準備をしているような光景が広がっている。遠くの空に黒く輝く雨雲がわずかな速度で動いている。何羽かの鳥が私の視界の前を通り過ぎていく。 欧州での一日一日が過ぎるごとに、自然にせよ、芸術にせよ、学問にせよ、そこに潜む美が様々な形となって徐々に私の眼の前に開示されるようになっている。今まで見たことのないような美を、私は欧州での日々の生活を通じて少しずつ見出している。 今この瞬間に知覚される美は、以前の私には知覚されえなかったものだ。それを嘆いてもしょうがない。 なぜなら、この世界には待つしか現れてこない美というものがどうしても存在するからだ。言い換えれば、内面的成熟があるところまで

1879. 誤りなき人生

時刻は八時を過ぎたが、まだ暗闇の世界が続いている。昨日、ふと気付いた時には、夕方の四時半の段階で今この瞬間のような暗さがあった。 いよいよ本格的に冬の季節に入ったのだと知る。今朝は目覚めを迎えた瞬間に、まぶたを閉じると、無数のイメージが流動している様子を捉えることができた。 これは半覚醒意識の際に時折起こることであり、大抵は昼食後の仮眠の際に起こる。今朝はそのような状態を目覚めの際に経験した。 私たちがよく「イメージ」という言葉を用いているものは、心的現象として実際に眼で見ることが可能である。もちろん、物理的な目を開いた状態でそれを見ることができないが、まぶたを閉じ、心の眼でそれを捉えることが可能となる。 私は、次から次に自分の内面世界で湧き上がるイメージを眺めていた。それは絶え間ないイメージの流れであり、イメージがイメージを呼び込むような現象であるように見えた。 人間とはまさに、こうした絶え間ないイメージを生み出しながら生きている存在なのだと改めて知る。同時に、創造的な人間とは、こうした絶え間なく生成されるイメージを何らかの手段を用いて具現化させることのできる人のことを指すのだと思う。 今朝方私が見ていたイメージは、多分に視覚的であり、多分に聴覚的なものでもあった。つまり、流動するイメージを具体的な形として視覚的に捉えながらも、そこに固有の音が流れていることに気づいたのである。 偉大な作曲家はもしかすると、視覚的かつ聴覚的なイメージを活用しながら作曲活動に従事していたのではないか、と思わされる。 心的現象としてイメージを捉える頻度、言い換えれば、イメージが生成する内的世界に接

1878. 此岸から彼岸へ

雨音が激しくなり、今日も天気が優れないことを知る。時刻は七時を回ったが、相変わらず外は闇に包まれている。 闇の中、雨が書斎の窓ガラスにぶつかると音と、時折車が通りを走る音が聞こえる。先ほど私は、昨夜見た夢について、その内容を覚えている範囲で書き留めていた。 あの夢の中心テーマは一体何だったのだろうか。私は運河を越えて、対岸に向かおうとしていた。なぜなら、向こう岸に私の目的地である実家があったからだ。 しかし、先ほどの日記に書き留めていたように、夢の中の私は流れの激しい運河を越えていく手段がなかった。厳密には、不思議な浮き輪を体に巻きながら空を飛んでいくことができたのだが、その浮き輪が途中で機能しなくなる恐れがあり、結局対岸に向かうことを躊躇していたのだ。 しばらく対岸を眺めた後、私は来た道を戻り、再び無人のバスに乗り込んだ。だが、結局そのバスも対岸に向かって走っておらず、私はまた同じ場所でバスを降りることになった。 あのバスはどうやら、同じ道をぐるぐると回り、乗客をあちら側の岸に連れて行くことを目的にしていないようだった。人を飲み込むような激しい流れの運河、対岸、誰も人のいない奇妙なバス。 私はそれらについて思いを巡らせていると、ある大きな気づきを得た。どうやら私はあちらの世界、つまり彼岸に向かおうとしていたようだが、結局それを果たすことができなかったのだと知る。 夢の中で、こちらの岸からあちらの岸を眺めている時、確かにあちらの岸はこちらの岸とは少しばかり違う印象を放っていた。対岸は彼岸を象徴していたのだ。 では、あの流れの速い渦潮は何を象徴していたのだろうか。そもそも、私がこ

1877. 対岸に向かう夢

早朝、起床と共に、小さな雨音が聞こえてきた。今日はどうやら雨のようであり、昨日の天気予報からすると、雪が降るかもしれない。 今日は六時半から、一日の活動を静かに始めた。活動の開始は、自分が生きていることの実感を確かめるためにあり、自己の存在を証明するためにあるように思える。 昨夜の夢の内容が、そっと自分の意識の中に立ち現れる。夢の中で私は、瀬戸内海にほど近いある町にいた。 その町は、実際の実家の近辺のようでありながらも、ヨーロッパ風の町並みをしていた。私は一台のバスに乗り込み、瀬戸内海の方に向かった。 バスに乗ってみると、そのバスは無人だった。運転手はおらず、乗客も私以外にいない。 誰もいないバスは、私がそれに乗り込むと、静かにドアを閉め、ゆっくりと動き始めた。私が降りる予定の場所は、名前のわからない通りと「ヴァン・ゴッホ通り」と名前が付けられた通りが交差する地点だった。 ゆっくりと走るバスの窓から、私は景色を眺めていた。だが、町にも人影は見られなかった。 人がほとんど見えないながらも、確かにその町には人が住んでいる気配があった。ちゃんと店もあり、道も整備されており、家もまばらに見える。 そうしたことからも、この町は決して無人ではないのだということを知る。しかし、バスから目的地に向かうまでの間中、人の姿を確認することはできなかった。 目的地に近づいてきているのがわかったが、その正確な場所を私は知らず、またどのようにこのバスから降りたら良いのかもわからなかった。バスが坂道をゆっくりと下りだし、ある場所でバスは止まった。 どうやらここが終着地点のようであり、同時に私の目的地であった

1876. トマトとブルーベリーから

大学からの帰り道に行きつけのチーズ屋に立ち寄り、今日は若いチーズを購入した。先日訪れた時は、その店に置かれている一番古いであろう七年物のチーズを購入していたが、今日は対極に振り、非常に若いチーズを購入した。 七年物のチーズはこれまでこの店に置かれていなかったものであり、大変珍しいものだった。長い時間をかけて発酵されたチーズ固有の深い味わいがあったのを覚えている。 今日も同じく古いチーズを購入しても良かったのだが、なぜだか私の目にはその若いチーズが輝いて見えた。 私:「あれっ、このチーズは前から置いてましたっけ?」 店主:「ええ、置いていたわよ」 この店を切り盛りする二人の女性の店主のうち、一人の方がそのように答えた。私はてっきり始めてみるチーズだと思っていたのだが、どうも私の認識の誤りのようだった。 そのチーズが若いだけあってか、他のチーズと輝きが違ったのだ。これは文字通り、物理的な輝きである。 その若いチーズには薄黄色い輝きがあったのだ。私はその光に惹かれて、他のチーズには一切目をくれず、そのチーズを少し試食させてもらうことにした。 店主:「どう?今回のチーズは若いわよ」 私:「あぁ、これも美味しいですね。今日はこれにします」 これまでこの店に置かれているいくつもの種類のチーズを食べた経験から、出来立てのチーズよりも幾分かの期間発酵されたチーズの方が美味しい。そのチーズの味もまだ深みがあるとは言えなかったのだが、その輝きに独特の旨味を私は感じていた。 「光の味」とでも形容できるものが、そのチーズにはあった。また、前回七年物のチーズを切ってもらう時に、その作業が

1875. やってくる冬への高揚感

今日は午後から雨が降り始め、今もまだシトシトと雨が降り続いている。今日は午後四時半を過ぎると、辺りは既に闇に包まれ始めた。 今日の午後に「応用研究手法」のコースの第三回目のクラスに参加した。今日は前回に続き、“differene-in-difference”という研究手法を取り扱った。 このコースを履修しているのは、ジョージア人の友人であるラーナと私だけしかいないため、クラスではいつも密なディスカッションをロエル・ボスカー教授と共に行うことができる。ボスカー教授は非常に丁寧に一つ一つの概念や研究手法の論理を説明してくれるため、いつも有り難く思っている。 今日のクラスでは、必読論文に対して私が事前に提出した四つの質問を取り上げてくれた。今日のクラスの大半は、私の質問をもとにディスカッションが進んでいったと言っても過言ではない。 前回のクラスから、パワーポイントを用いた説明ではなく、フリップボードを用いてボスカー教授がその都度私たちの質問や意見に対して詳しい説明をしてくださるようになった。基本的にこのクラスは、教育科学におけるいくつかの重要な研究手法に関する論文を読み、論文についての質問をもとに行われていく。 もちろん最初にボスカー教授から、その日に取り上げる研究手法の概略説明があるが、論文に対する質問がまさにこのクラスを作っていると言っても過言ではない。次回のクラスへ向けた課題として、今回取り上げた研究手法と、次回に取り上げる “regression-discontinuity”との違いを明らかにしておく必要がある。 これはまさに、実は私が事前に送っていた補足質問であり、それが課

1874. 言葉と音の光に包まれて

日々、自分の内側に湧き上がる現象を絶え間なく文章として書き留めることを始めてから、少しばかりの月日が経った。気づかないうちに、それを行うことが日々の習慣の一つとなり、それはもはや習慣を超え始めている。 絶え間なく文章を書き続けることが、この地上で生き続けることと全く等しくなり始めている。言葉を紡ぎ出し続けることによって、私は自分の認識世界を絶えず更新しているかのようである。 言葉を生み出すことは、この現実世界を生み出すことに他ならず、新たな言葉を日々生み出し続けていくことは、この現実世界を日々新たなものにしていくことに他ならないだろう。 言葉を紡ぎ出す過程の中で、自分がこの世界に生きていることを真に感じ、その言葉がまた新たな現実世界を作り出していく。言葉の恩恵を受けながら、言葉を紡ぎ出すことによって、日々の中に宿る充実感や幸福感の原子を捕まえていく。 充実感や幸福感の原子は、実は日常生活の基底に、水や空気のように存在しているものなのだ。本来、この地上で生きる充実感と幸福感は、この地上の遍くところに充満している。 私たちの眼は往々にして曇らされている。だからそうした充実感や幸福感が見えないのだ。 私は、言葉という光を用いることによって、そうした充実感や幸福感の原子を日々の生活の中で絶えず捉えていきたいのだ。最初は意識的な試みかもしれない。 だが、そうした試みを続けていれば、いつか必ず、この地上は充実感や幸福感で満たされたものなのだという気づきに至るだろう。そうした認識世界が開けてくるまで、私は日々を綴り続けたいと思う。 いや、そうした認識世界が開けてきたのであれば、なお一層日々を

1873. 豪華客船の旅

今日も書いて作る一日が始まった。五時半あたりに起床し、今日は六時から探究・創作活動を始めた。 この地上で生きることの喜びを心の底から感じ、それを探究と創作の糧にしたい。昨日も改めて自分は、文章を書き、音楽を作ることを通じて日々を生きていきたいと思った。 文章にせよ、音楽にせよ、それらを限りなく日常の生に近づけ、生の根幹からそれらが生まれてくるようにしていかなければならないと思った。それが可能になるのであれば、その他のことは何も望まない。 日常の生に根ざす形で文章や音楽を生み出していくためには、やはり日記的な形式が最も望ましいのではないかと思う。文字どおり、日記としての文章を書き、日記のように音楽を作っていく。 日々が日記のようであってほしい。日々が日記を綴る過程の中で綴られていくのである。 日々は綴られるものであり、日々は綴っていくものなのだ。この生を生きるというのは、その瞬間に地上で生きていることの喜びを感じ、それを何らかの形として表現していくことなのではないかと思う。 もしかすると私は今後、日記と曲を書くことだけに従事するような生活を送り始めるかもしれない。 学術的な論文ではなく、生により根ざした日記。形式ばった曲ではなく、生により根ざした日記的な曲。 日々を自分の言葉で綴るには、そうした形式を採用する必要がある。日々刻々の瞬間を文章や曲として残し続けている人間は、この世界にいったいどれだけいるのだろうか。 もしかしたらそのどちらにも従事している人は、この世界において限りなく少ないのかもしれない。だが、私はどうもそれに従事し続けたいという衝動に駆られているようなのだ。 その

1872. 自己超出と時間超出

朝は八時半頃にようやく明るくなり、夜は五時を過ぎるともう真っ暗になり始めた。今、この日記を綴っている私の目には、真っ暗闇の世界が見える。 昼食後の仮眠を通じて、一年の持つ重みについて考えを巡らせていた。その思考の流れは一旦落ち着いたが、再びそれに似た思考が動き始めている。 思考の残滓からの新たな思考の誕生。新たな思考によると、そういえば昨年の夏は、私はまだ日本にいたことを思い出した。 日本を出発したのが昨年の八月であったため、昨年の夏の半分はまだ日本で過ごしていたのだ。昨年の夏を人生の時間軸の中に置いてみると、それはそれほど遠くなく、むしろ近くにあると言えるだろう。 しかし私はどうも、昨年の夏というものが遥か遠くにあるような感覚がするのである。一年が持つ重み、それは時間を押し広げるかのような特性を持っているように思えて仕方ない。 一年はとても重いのだが、一年前がこれほどまでに遠くに感じるのは何故なのだろうか。 欧州での生活を始めて以降、自己を超出する体験に遭遇する頻度が増している。先日もそのような体験があった。 自己認識が自己認識をはみ出していくという奇妙な感覚なのだが、そうした奇妙さに対する免疫がすでに出来上がっている。一般的に、人間の発達は自己を超出していく過程として捉えられるため、私たちは日々自己を小さく超出するような経験を見えないところでしているはずである。 ところが、私が時折遭遇する自己超出体験は少しばかり特徴が異なる。小さく自己を超出する時、私たちは自己が自己を超出したことに気づかない。 なぜなら、超出した先の自己は既存の自己の延長に過ぎないからだ。しかし、私が

1871. 一年の重み

今日は午前中から昼食後にかけて、ジョン・デューイの全集を読み進めていた。気づけばいつの間にやら第一巻をすべて読み終えることができた。 少なくとも四日はかかると思っていたのだが、結局二日で一読目を読み終えた。デューイは教育のみならず、他の分野においても哲学思想を打ち立てているが、やはり教育哲学に関するものが最も感銘を受けた。 書き込みをする箇所や、立ち止まって考えることが最も多かったのは、やはり教育哲学に関する章であった。デューイは芸術や美学に関してもいくつか論文を執筆しており、それらが一巻に掲載されていた。 そこでは、今の私に響くものはあまりなく、また違う時期に読み直す必要があるように思えた。美学に関しても、それを細分すると様々な領域の美学が存在しており、デューイはそれほど音楽については語っていなかった。 今後美学関連の書籍や論文を読む際には、まずは音楽に特化したものを選びたいと思う。テオドール・アドルノを始め、何人かの哲学者が音楽に関する美学について思想体系を持っていることを少し前に知ったため、今後徐々にそうした哲学者の美学に関する思想に触れていくことになるだろう。 デューイの哲学書を読み終えた後、いつもと同じように少しばかり仮眠を取っていた。そこで少しばかり、人生における一年の重みについて考えていた。 考えていたのは確かに私なのだが、意識的な自己というよりも、半覚醒状態の無意識的な自己がその主題について考えていた、と言った方が正確だろう。人生の長さを考えてみると、一年の持つ重みを知る。 ある一年をどこでどのように過ごすかは、決して見過ごすことのできないことのように思える

1870. 時空間を超えるゴッホの手紙とハーモニー

昨夜は夕食後に、ゴッホの手紙を少しばかり読み進めた。その進みは遅いが、毎日少しずつゴッホの手紙を読み進めていくのは、私の中での一つの楽しみになっている。 ゴッホの手紙を読んでいる最中は、今から百年以上も前のゴッホの時代にいるかのような感覚に襲われる。手紙を含め、文章が生み出す空間は時間を越えうる。 また、現在自分がいる物理的な空間を超えて、文章が生み出す空間へと参入している自分を眺めていると、文章は空間も超えていく。 ゴッホの手紙を読み進めていると、ゴッホが弟のテオをどれだけ信頼し、まさに二人三脚で画家としての道を切り開いていったことがわかる。ゴッホは常に自分自身のみならず、手紙を通じてテオと対話をしていたのである。 自分自身で行う一人称的対話と他者を通じた二人称的対話が、画家としてのゴッホ、そして人間としてのゴッホを育んでいった。全六巻のうち、今は第一巻を読み進めているが、一連の手紙を読み進めていく中で、ゴッホの画家としての内面的成熟過程と絵画技術に関する発達過程を見て取ることができるだろう。 とりわけ私は、絵画に関する、いや美に関するゴッホの思想的変遷過程に強い関心を持っており、合わせて絵画の方法論に関する発達過程にも多大な関心を寄せている。今日も手紙を開き、ゴッホが生きた時代と場所に自分の存在を投げ入れたいと思う。 昨夜、作曲実践をしている中で、歓喜の瞬間を迎えた。現在用いているテキストを読み進めていると、ある章がハーモニーについて取り扱っており、そこに掲載されていたわずか四小節の楽譜を作曲ソフト上に打ち込み、それを再生してみた。 すると、その音色の美しさに仰天した。

1869. 創造的中毒症状と美的感覚

昨夜も就寝前に作曲実践に打ち込んでいた。現在読み進めているテキストが秀一であり、具体例の豊富さと、その具体例に紐付いた作曲エクササイズを進めていくことが何よりも楽しい。 詰め将棋のテキストやプログラミングのテキストにのめり込んでいる感覚と同じだろうか。より端的に述べてしまうと、ゲーム的な要素がそこに色濃くあると言えるかもしれない。 昨今、教育研究や教育実践の中で、ゲーム的な様子を学習に取り込んでいく「ゲーミフィケーション」が注目を集めているが、ゲームが喚起する喜びの感情には、私も関心を寄せている。 しかし、そもそも学習には、ゲームにも勝るとも劣らない喜びの感情を喚起するものが内在しているはずであり、それをうまく刺激できないこれまでの学習観や教授法に問題があったのではないかと言えなくもない。 私は今、成人期を迎えてから改めて、学習が内在的に持つ喜びの感情を常に感じながら学習を進めていく日々を送っている。昨日も作曲実践をしながら、作曲実践が持つ中毒症状について考えを巡らせていた。 それは肯定的な中毒症状であり、「創造的中毒症状」とでも呼んでいいような、創作行為に伴うある種の没入感が昨日もあった。ジョン・デューイの哲学書を読んでいる時にも、若干の差異はあるが、ほぼ同様の没入感のようなものが芽生えていた。 日々の探究活動の中にこうした没入感が芽生えているのも、絶えず私が何かを創ることを意識していることと関係しているかもしれない。哲学書を読んでいる最中も、何か閃くたびにそれを絶えず文章の形に残している。 文章を創出するという行為がそこに媒介されており、それが創造的中毒症状を生み出すきっか

1868. 暗闇の早朝に思う来年の春

今朝は五時に起床し、五時半から仕事を開始した。今日も昨日に引き続き、ジョン・デューイの全集を読み、今日中に第一巻の一読目を完了させる。 デューイの全集は、今日から教育哲学の章に入る。昨日読んでいた章はどちらかというと、デューイが多大な影響を受けた、チャールズ・サンダース・パースやウィリアム・ジェームズといった哲学者たちの思想に言及しながら、プラグマティムに関する論考を展開していくものだった。 今日からは、ある意味、私が本書を読む意味の一つに掲げていた、デューイの教育哲学の章となる。今日もデューイから様々な示唆を得ることになるだろう。 デューイの哲学書に並行する形で、今日も作曲実践を進めていく。明日こそ例外的に講義があるが、今週は大学が休みの期間であり、この期間は随分と作曲の実践に打ち込むことができている。 二週間後から始まる冬休みの期間において、一旦学術研究から離れ、その期間の時間の大部分は作曲実践に充て、幾分の時間を和書を読むことに充てたい。 昨日は改めて、いつか音楽に関する本格的な研究に着手したいと思った。今行っている研究と並行する形でそれを行ってもいいが、もしかすると音楽の研究だけに特化する時期があっていいのかもしれないと思っている。 音楽研究をするための科学的な手法に関する理解と技術は随分と高まり、あとは美学の観点が欠かせない。自分が行おうとしている音楽研究には、複雑性科学、システム科学、ネットワーク科学の発想や手法を活用しよと思っているが、それらに関しては現在の研究を進めていく過程の中で理解と技術が徐々に高まりつつあるのを実感している。 現在の研究に欠けているのは

1867. 日々を生きるために

呼吸を止めては生きられないのと同じように、文章を書かなければ毎日が生きられなくなった。 それがいかにとりとめもなく、些細なことのように思えても、内側で生じた思考や感覚を全て言葉として文章の形にしなければ日々を生きられなくなった。それに加えて、最近は作曲を毎日行われなければ日々を生きられなくなってきている。 日々が絶えまない創作活動から構成され、絶え間ない創作活動が日々となるような生活。この生活をもっと徹底させ、創作活動以外の塵がこの生活に入り込まないようにしていく。 絶えず文章を書き、絶えず曲を作る。自分にできるのはそれだけしかないだろうし、それ以外に望むことは何もない。 内側に浮かんだ内面現象の全てを言葉と音楽にしていく。それをもっと厳密に行い、自分が知覚した内面現象をそっくりそのまま映し出すような言葉と音楽を創出していきたい。 それが実現されるのは、まだまだ随分と先のことだろう。そのため、言葉の創出方法と曲の創出方法の探究を日々着実に進めていく必要がある。どちらも共により意識的に進めていくことが求められる。 夕方、作曲に関して、詩人が言葉で詩的言語世界を表現するかのように、画家が絵筆で絵画的世界を表現するかのように、曲でそれら双方の世界を表現したいと思うようになった。 つまり、詩的な音楽かつ絵画的な音楽を作りたいという抑えがたい思いが湧き上がってきたのである。詩の独特な世界が生み出す質感を曲として具現化し、絵画の独特な世界が生み出す質感を曲として表現していく。 詩のような音楽かつ絵画のような音楽をどうしても作りたいという思いを抑えることができない。しかも、そうした詩的か

1866. 非日常的日常と日常的非日常

気がつくと時刻は夜の八時を過ぎていた。結局今日は、予定よりも多くの時間をジョン・デューイの全集を読むことに充てていたように思う。 400ページほどにわたる第一巻のうち、100ページほど本日中に読もうと思っていたが、実際には200ページ以上も読み進めていた。デューイの英文は明晰であり、明瞭な言葉に引き込まれていくかのような感覚があった。 当然ながら全ての箇所を理解できたわけではないが、読み進める中で数多くの気づきを得ることができ、それが触媒となって様々な思考が自分の中で育まれていった。 良い書物とはこのように、自らの思考の肥やしとなり、新たな思考を生み出す種となる。全集の一つ一つの章を読むたびごとに、あるいはいくつかの段落を読み終えるごとに、新たな考えが芽生え、それをもとに様々なメモを書き残していた。 明日を用いれば、残りの半分を読み終えることができそうだ。デューイの全集を読み終えた後は、再び自分の研究に立ち返り、先日に印刷をしておいた七本の論文に目を通しておきたい。 それら七本は、どれもフラクタル分析に関するものであり、データベースを検索して得られた500本の論文から選んだものだ。自らの研究に最も有益であろう、それら七本の論文を読むことを明日の楽しみの一つとしたい。 今日は夕方に近所で一つ騒ぎがあった。救急車や消防車が、書斎の窓から見える赤レンガの家々の一つに駆けつけた。 近所を散歩中の人たちも道端で立ち止まってその家を眺めていたり、その家の付近には人が集まっていた。何か事件があったのかと思っていたが、どうやら小さな火事が発生したようだった。 その家から白い煙が立ち込めてお

1865. 二夜連続の仮想通貨に関する夢

昨日、現在応援かつ保有している仮想通貨に関する夢を見るたびに、その価格が上昇していることについて言及していたように思う。 仮想通貨に関する夢を連続して見たことはこれまで一度もなかったのだが、一昨日に引き続き、昨夜もその仮想通貨に関する夢を見た。 その仮想通貨が現れるこれまでの夢と同じように、夢の中で私はその仮想通貨について説明をしていた。一昨日は友人に対する説明であったが、昨夜の夢の中ではそれについて家族に対して説明を行っていた。 夢から覚めた瞬間に、昨日立てていた奇妙な仮説を検証することにした。その仮想通貨を取り巻く集合意識と自分の意識とのつながりに関する仮説であり、より具体的には、その仮想通貨の夢を見るたびにその価格が上昇しているというものだ。 起床後、いつものように心身を整える実践を行ってから、その仮想通貨の価格を調べてみた。すると案の定、その価格が上昇していた。 夢とその仮想通貨との関係をもう少し詳細に捉えてみると、その仮想通貨に関する夢を見る時にその価格が単に上昇しているわけではない。夢を見る時は、その価格が大幅に上昇しているか、その仮想通貨に何か重要な出来事が起こった時である。 今朝の場合で言えば、その仮想通貨がこれまでにない価格帯に乗った出来事があった。自分が見る夢と応援している仮想通貨がこれほどまでにシンクロナイゼーションしている様子を見ながら、つくづく人間の意識というのは不思議だと思った。 この現象についてはもう少し経験データを集めながら、その他に興味深い発見事項はないかを探求したい。 自分が見る夢とその仮想通貨の価格の妙な関係性に気づいてから、その通貨に

1864. デューイの全集・ベートーヴェンの手紙

昨夜は少し早く就寝しようと思っていたが、ひとたび作曲実践を行い始めると、創作行為との没入感が生まれ、いつもと同じように10時に就寝した。 今朝、六時に起床した時に、再び自分の身体と精神に活力が戻っている感覚があった。昨日は季節の変動のせいもあってか、昼食後と夕食後に少しばかり疲労感があった。 食事というのはエネルギーを補給しているようでいて、実際には消化にエネルギーを活用するため、食事というのは時に疲労感をもたらし得るということがわかる。 昨日から一転して、今日はとても調子が良く、仕事が多いにはかどるであろうという期待感がある。昨日の夕方に行われた、研究アドバイザーのミヒャエル・ツショル教授とのミーティング後、自宅に戻ってからは随分と研究に関する事柄をメモとして英文日記に書き留めていた。 おそらく今日もいくつかアイデアが生まれるであろうから、それらを忘れずに書き留めておきたいと思う。だが、今日は基本的に研究から意識的に離れ、昨日から読み始めたジョン・デューイの全集を読み進めていきたい。 この全集は全二巻の構成となっており、最初の巻は400ページほどの文章である。毎日100ページずつ読み進めていく計画を立てているため、来週を迎える頃には第一巻を読み終え、第二巻を読み始めることができていれば理想的である。 デューイの全集を読み進める合間合間に作曲実践を行っていきたい。現在読み進めている“Melody writing and analysis (1960)”との相性が良いのか、毎日本書を開くのを楽しみにしながら作曲実践に従事することができている。 本書の出版年は随分と古いが、とにかく

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