
1636. 消えない灯火
今朝は六時前に起床し、六時から今日の仕事を開始した。昨日に引き続き、自分の内側に静かに燃え上がるものを感じる。 昨夜は夢を見ることもなく、無意識の世界が音を立てずひっそりとしていた。そうした静けさの中に、自分の内側で静かに燃えるものの音が一層際立って聴こえる。 科学というものが「真」を扱う領域であるがゆえに、いつも私の中では対極にある「偽」という概念が頭をよぎっていた。その対極的な概念の存在ゆえに、どこか私は科学に対して不信に思っていた。 しかし、昨日の一件は、科学を哲学や音楽と同等の位置に置くことのきっかけになったようだ。真善美を司る領域の探究に関して、それが一つの調和を奏でる日がやってくるのはまだ先のことだと思うが、そこへ向けての一歩をようやく踏み出したようだ。 科学・哲学・音楽のどれもを欠くことのない生活。それら三つの探究に献身し、それらを通じてこの現実世界に触れ、関与していく生活。そうした生活の実現に向けて、確かな歩みをまた始めた。
昨日は、「学習理論と教授法」のクラスの後に大学の図書館で学習を進めていた。その時に、改めて自分は、シス

1635. 新たな友人
どこかで書き留めておこうと思っていたのだが、ここで書き留めておきたい。それは、フローニンゲン大学の二年目のプログラムに在籍する中で、一人の良き友人に恵まれたことである。 幸いにも、現在履修しているコースを通じて、一人のオランダ人と友人となった。彼の名はハーメンと言う。 ハーメンは元々学校の教師であり、昨年教職から一旦離れ、教育科学を学び直すために今の学科に所属している。ハーメンは190cmを越そうかという恰幅のいい大きな男だが、自分自身のことを恥ずかしがり屋だと述べている。 ハーメンと私は偶然ながら履修している全てのコースが共通しており、一つの少人数のコースを除けば、彼はいつも教室の最後列に座っている。だが、ひとたびクラスが始まると、最後列からいつも洞察に溢れる発言を積極的に行うのがハーメンの特徴だ。 私がハーメンに、「なぜいつも教室の一番後ろの席に座りながら、積極的に発言をしているの?」と尋ねると、「他に誰も意見を言わないからね」と照れ笑いを浮かべながら答えた。 フローニンゲン大学のような、研究大学の大学院に所属する学生たちが、これまでどれだけ

1634. 無能さと無知の果て
今日はとても充実した一日だった。このようにして日記を書く時間が全くないほどに学術探究に没頭していたが、夜の八時半を迎える今になってようやく振り返りの時間を設けることができた。 科学に対する疑義。おそらくそれは消えることなく、私の内側に今後もあり続けるだろう。 それは一つ健全な疑念であるように思えてきた。一方、今日は大学のキャンパスに一日中いながらにして探究活動を進めていたが、昼食前に図書館の中で、自分は科学者としての側面を持ちながら生きていこうと改めて思った。 科学者として生きようとすることの確からしさを疑うことは、もはや馬鹿げているように思える。仮にあと何度か科学者としての自己のあり方と生き方に疑いを挟むことがあったとしても、それらと向き合ってていことを通じて、やはり自分は科学者としてあり続けるだろう。 どうしても自分は科学的な探究をやめることができないのだ。この点については、これまで何度も何度も自分に問いを投げかけてきた。 しかも、大抵の場合、それらの問いは、自己を打ちのめすような質感を持つものだった。だが、何度そのような問いを投げかけても、

1633. 仮想通貨に関する夢
昨夜、ストーリーとしての記憶は鮮明でないが、一つ印象的なシーンを持った夢を見た。 夢の中で私は、自分が投資している仮想通貨の値動きをPCのスクリーン越しに眺めていた。その仮想通貨を購入した時期は随分と前であり、その当時はほとんど注目をされていない通貨だった。 正直なところ、この通貨を購入し、それを保有していることすら忘れていたのだが、何かのきっかけで思い出し、値動きの様子を確認しておこうと思った。すると、自分が投資をした頃に比べて、100倍の値が付いていた。 しかも、その仮想通貨の価格が突如として上がったのは、ごく最近のようだった。その日付の近辺のニュースを確認すると、どうやら勢いのある日本のベンチャー企業がこの通貨を買い占めようとしたようだ。 普段ニュースを見ることもなく、そのベンチャー企業についてもその時に初めて知ったため、その会社の投資戦略の背景など分かるはずもなかった。ただスクリーンの前に、自分が購入した時の金額の100倍の値がついた数字が表示され、その瞬間にも刻々と価格が上下動していた。 その上下動の様子は、どこか生物の動きのようだった

1632. 課題の整理
昨夜も就寝前についつい考え事をしてしまっていた。現在、フローニンゲン大学での二年目のプログラムも順調に進んでいるのだが、目の前に差し迫っている課題の量が昨年のこの時期よりも多いのは確かだ。 昨夜無事に、「学習理論と教授法」のコースで要求されている共同論文のドラフトを担当教授に送った。来週はこの論文に関するプレゼンがある。 当初、グループメンバーには、私がプレゼン資料を作り、自分がプレゼンを担当することを伝えていた。しかし、昨日のレビューの際にも思っていたが、論文の担当箇所ごとにプレゼンスライドを作ってもらった方が効率的であり、なおかつ内容も充実しているだろう。 さらに、論文の後半箇所を私がプレゼンするよりも、後半部分を一番詳しく知っているメンバーにプレゼンを任せた方が良さそうだ。ちょうど今日の午前中にクラスがあり、メンバーと会うであろうから、その旨を伝えたい。 とにかく、一人で仕事を抱えるのではなく、分担できることは分担した方がいい。でなければ、現在抱えている複数の課題に首を絞められることになってしまうだろう。 プレゼン資料作成の分担ができれば、

1631. 後ろ髪を引くもの
数分前に、論文レビューが引き起こす何とも言えない恍惚感について言及した。そして、今朝は科学研究に対する疑義を投げかけている自分がいた。 両者を経た後に改めて、科学論文を執筆することが引き起こす形容しがたい寂しさについて考えていた。ぬるりと背中に張り付くような、一抹の寂しさが科学論文の執筆の中にある。 その寂しさの正体が何なのかをもう一度探っていた。その正体の一端は、実は昨夜の段階で見えていた。 昨夜、仮に人間の発達というテーマに絞ってみた時に、人や組織の発達に関心を持ち、そしてそれらの実践に取り組む組織人の中に、一体どれほどの人が学術論文を読みこなせるのだろうか、という疑問を抱いていた。 少なくとも自分が組織人であった時、学術論文など一度も読んだことがなかったのではないかと思う。また、人間の発達に関心を持ってからもしばらくは、学術論文というよりもむしろ、研究者や専門家が一般向けに発達理論を解説した書籍などに目を通していたように思う。 だが、これは後々に自分が発達研究に本格的に従事し始めてから気づいたが、一般向けに執筆された書籍というのは、人間発達

1630. 論文レビューが引き起こす恍惚感
今日は久しぶりに晴れ間が広がった。どこか平和な雰囲気が漂う日曜日である。 午前中より、「学習理論と教授法」のクラスで課せられている共同論文のレビューを行い、午後の早い段階にそれが完了した。メンバーにレビューの完了を報告し、再度意見を求めた。 レビューをしながら改めて思ったが、やはり科学論文を執筆するプロセスそのものの中に、特殊な充実感を引き起こすものが潜んでいる。今朝の起床直後は、科学論文の意義を認めながらも、科学研究についての疑義を投げかけていた。 もちろん、この疑義が完全に晴れ渡っているような状態ではないが、先ほどのレビューの過程の中で、文章を修正し、新たな文章として再構築させていくプロセスの中に、芯から湧き上がる喜びを見出していた。
レビューをする中で、メンバーの論拠を補うために、自分で他の論文を探す試みを行っていた。その中で、オンラインコラボレーションラーニングに関する興味深い論文をいくつか発見した。 そうした論文を読むにつけて、それらの複数の発見事項をいったん自分でまとめ上げるような研究をしたいと思った。これは先日言及していたように

1629. 共同論文の執筆に向けて
先ほどは、自分が抱く科学への疑義について書き留めていた。結局、そうした疑義の正体を突き止めないまま、これから私は科学論文を書く。 現在履修している「学習理論と教授法」で課せられている論文を執筆していくのである。昨日、四人で共同して執筆しているこの論文のレビューを行った。 残りの三人はオランダ人であり、彼女たちが書いた論文の質は高く、オランダの学部教育の質の高さを物語っている。論文の書き方にせよ、科学的な論説の進め方の作法を高い次元で教育されていることを、彼女たちの文章は物語っている。 共同論文のドラフトを最初から最後までレビューを行い、編集することを昨夜行いたかったのだが、なかなか時間の要する作業であることに気づき、実際にそれを全て完了させることができなかった。 今日の午前中は、この編集作業に取り組むことを優先させたい。先日の卒業証書の授与式で、これまで論文アドバイザーを務めてくれたサスキア・クネン教授と久しぶりに会ったことを、数日前に書き留めていたように思う。 改めて、昨年クネン先生と共同で執筆した修士論文をもとに、査読付き論文を執筆したいと思

1628. 科学への疑義
昨日は、ほぼ終日、学術研究と日本企業との協働プロジェクトに関する仕事を進めていた。昨日の目覚めは午前七時といつもより遅く、気づけば就寝前の作曲実践に従事することなく睡眠を迎えた。 今日も昨日からの続きとして、いくつかのレポートをまとめ、協働プロジェクトに関する資料を完成させたい。今日は日曜日であるから、作曲実践を就寝前だけではなく、午後の時間帯やできれば午前中にも行いたいと思う。
現在、履修している二つのコースで論文を執筆している最中だ。ふと思ったが、コースで要求される最終論文を元にして、査読付き論文を執筆できるのではないかと思った。 毎回のコースでは、オランダの研究大学院に固有の、厳格な基準に則った科学論文の提出が求められるが、せっかく論文を執筆するのであるから、それを担当教授だけに提出するのではなく、科学論文として広く共有することに意義があると思った。 先日授かった二つ目の修士号の卒業証書の補足資料の中に、科学研究の最初から最後までのプロセスを一貫して担えることを証明する文言があった。今となっては昔のことだが、日本の学士過程にいた時は、自

1627. ヘリコプターと翼
早朝の気分がどうしてもドビュッシーの曲に合わず、ベートーヴェンのピアノソナタを聴くことにした。今から10時間ほど、マウリツィオ・ポリーニの演奏するピアノ曲を聴くことになる。 朝食を摂りながら、曲に耳を傾けていると、改めてクラシック音楽の持つ不思議な力に気づかされた。これは音楽に限らず、古典と呼ばれるもの全般に当てはまる特質かもしれない。 長い年月をかけて蓄積と純化を経た末に生み出されたものだけが持ちうる力。古典と呼ばれるものには、そうした力が秘められており、クラシック音楽にもそのような力を感じることができる。
起床してからすでに二時間ほどの時間が経ったが、昨夜の夢の内容がまだ残っている。私は普段、夢の印象が鮮明なうちにそれを書き留めておくことにしているが、今日はそれをしなかった。 あえて夢の印象を熟成させ、濾し取られた部分だけを抽出して書き留めておこうという意図が働いた。夢の中で私は、河川敷のグラウンドで行われるサッカーの試合に参加する予定になっていた。 その会場は隣町にあり、そこに行くためには、大きな河川を渡っていかなければならない。試合会