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1566. 文章執筆と知識体系の高度化の関係

昨日は、具体的な課題に取り組みながら学習を進めていくことの重要性を改めて実感するような体験をした。昨日の午前中から、「評価研究の理論と手法」というコースの課題に取り組んでいた。 この課題は、メキシコの国家規模の教育問題をケーススタディとし、毎週のクラスで学習する項目をもとに、いくつかの質問に回答していくというものである。設問事項の字数制限を見たときに、それほど分量が多いとは感じなかったが、実際に文章を書いてみると、随分と分量の多い文章を書かせることが要求されていることがわかった。 昨日私が実感していたのは、単にテキストを受動的に読ませるのではなく、また、単に講義を受動的に聞かせるのではなく、このような形で具体的な課題を提供しながら、学習した項目をもとに文章を書かせることの意義である。 ケーススタディに取り組む過程の中で、必然的にテキストに立ち返ることや、講義資料に立ち返ることになった。具体的な課題に対して、試行錯誤し、学習済みの項目を思い出しながら文章を書いていくことは、学習した知識項目を確かなものにする上で極めて大切である。 ここにはいくつかのポイントが含まれており、具体的な課題に取り組むことは、拙書『成人発達理論における能力の成長』において、能力の成長における肝であることを述べていたように思う。こうした具体的な課題に取り組むとき、私たちは必然的に以前に構築した知識やスキルを再想起することを余儀なくされる。 とりわけ、知識体系を構築していく際に、これまでに習得した知識項目を再想起することは、知識のネットワークをさらに密なものにする上で大切になる。一つ一つの設問に取り組む過程の

1565. システム的なネットワークとしての知識体系

昨夜は一日の最後に、今後の創造活動に関する事柄を書き留めていたように思う。それが影響をしてか、昨夜の夢の中にも同様の主題を持つであろうシンボルが現れた。 夢の中で私は、主題の類似性を明確に認識していたことは確かなのだが、それがどのようなシンボルであったかを具体的に思い出すことができない。ただし、「創る」ということに関して、啓示的な気づきをもたらすものであったことを覚えている。 夢の中の私は、どこか雷に打たれたかのような状態になっていた。おそらくこの状態とそこで得られた気づきは、今後の覚醒状態の中で徐々にその姿を表すことになるだろう。 昨夜は就寝前に作曲実践に従事した。学術研究の休憩がてらに、午後に一度、音楽理論に関するテキストを読むことを行っていた。 音楽理論に関する既存の知識のネットワークの中に、再び新しい知識が組み合わさっていくかのような感覚があった。むしろ、学習をそのように進めようと意識する自分がいる。 これはおそらく、現在履修中の「学習理論と教授法」というコースの影響によるものかもしれない。このコースを履修しながら頻繁に思うのは、自分のこれまでの学習方法には見直すべき点が多々あり、学習理論は自分の探究をより深くしてくれることに非常に有益だということだ。 ネットワーク科学と教育科学を架橋させるような発想を昨年の秋あたりから持つようになった。人間の発達現象をダイナミックシステムかつダイナミックネットワークとして捉えるという発想が芽生え、それに関する探究が始まったのはその時期だったと記憶している。 システム科学とネットワーク科学の観点から人間の発達を捉えた時、知識体系とい

1564. 6500:2000:3、少なくとも80年

気がつけば、今日も一日が終わりに近づいている。時刻は午後の八時を過ぎ、辺りがすでに薄暗くなり始めている。 先ほど、西の空に、夕日で赤紫色に照らされた美しい空を見た。ホログムラのように輝くあのような空を見たのは随分久しぶりのことなのではないかと思う。 今日は午前中から文章を書くことに従事し続けるような一日であった。現在履修中のコースの中でも、とりわけ「評価研究の理論と手法」のコースの課題は、比較的多くの文章を書くことを要求している。 このコースでは、自由記述形式の最終試験に加え、教育問題に関する一つのケーススタディに対して、毎週のクラスのトピックに応じて、ケースに対する分析をレポートの形にまとめていくことが課せられている。 今週の課題は、四つの問いから構成されており、それらの問いへの回答で課せられている字数の上限値を合計すると、2,000字ほどになる。これから五週間に渡って、同じケースに対して、異なる角度から同様の分量を要求する課題が出されるであろうから、結局この課題は合計で10,000字ほどの上限値を持つことになるかもしれない。 昨年執筆した修士論文の上限値は、まさに10,000字であり、下手をすると、これから五週間ほどの間に、修士論文一つほどの分量の文章を執筆することになるかもしれない。 今回の課題の文字数の上限値が2,000字ということだけであり、当然ながら上限値よりも少ない形でレポートを提出することになるだろう。そのため、厳密には修士論文ほどの文章を書くことにはならないと思うが、それに準ずるぐらいの文章執筆が課せられていると言っても過言ではない。 今日もまずはドラフトがて

1563. 幻想の向こう側にあるリアル

自分が今このようにしてオランダで生活をしていることが、ときにとても不思議に思う。先ほど書斎の窓越しから、道行く人を何気なく眺めていると、改めてそのようなことを思った。 そして、私が今オランダという国にいることが、とても愉快なことのように思え、思わず笑みがこぼれた。 一体自分は、どこからどのようにしてここに来て、一体何に向かって今日という一日を過ごしているのかという問いは、日々様々な場面で立ち現れる。 今日という一日が、どこからかやってきて、またどこかに向かっていくのを感じながらも、一方で、全く動かずにたたずむ今日という一日の中で、常に自分は生きているような感じがするのである。 早朝からフローニンゲンの街を覆っていた霧が徐々に晴れてきた。霧が晴れるに従って、様々な生き物たちの姿が見え始めた。 目の前に見える木々の上の方に小鳥が止まり、か細く、それでいて透き通るようにはっきりとした鳴き声を発し始めた。 欧州での生活を始めて以降、私は頻繁に、自分の生の奥深くに入っていき、生を通じて自らの生を生きているという強い実感を得ることが多くなった。ここで不思議なのは、そうした実感にはいつも決まって、自分が生きているのかわからなくなるような感覚が伴うことだ。 つまり、生の通常感覚を超えたところにある生の充実感に触れる時、生きているという実感そのものが、実はそれほど明確なものではなくなるのである。生の本質的な実感とは、ひょっとすると、何か明瞭な強い感覚というものではなく、もっと素朴な自然なものなのかもしれない。 自分が本当に生きているのかわらかなくなる感覚というのは、死の擬似的な体験だと捉えていい

1562. 夢から夢、黒から白

真っ黒な世界から真っ白な世界への変貌。早朝の闇がゆっくりと消えていくのに応じて、世界が白に包まれ始めた。 今朝のフローニンゲンは、深い霧に覆われている。書斎の窓を通じて見える景色は、普段のものと随分異なる。 いつもは見える赤レンガの家々が霧に覆われ、その姿を確認することはほとんどできない。かろうじて、目の前の通りに植えられた木々の姿を確認することができるだけだ。 秋も近づき、これから紅葉に入ろうとしている木々は、それでもまだ青々としていて、青の深さがさらに濃く感じられる。とても幻想的な世界。その表現はありきたりであり、陳腐なものだが、それ以外に表現は見つからず、むしろその表現は今目の前に広がる景色の本質を突いている。 ある表現が本質を突くとき、その言葉がいかに使い古されていようが関係なく、陳腐さの表皮から脱皮し、新鮮なものに映る。早朝の真っ白な世界に吸い込まれていく感覚は、闇夜の真っ黒な世界に吸い込まれていくのとはまた異なる感覚を引き起こす。 だが、どちらもその世界の中に私を呼び込み、その世界と一体となることを促す。私はしばらくの間、この深い深い霧に覆われた幻想的な世界の中に入り、その世界と一つになっていた。 一羽の黒いカラスが一つの木から別の木に飛び移った時、その世界から抜け出して、再び書斎の中の世界に私は戻ってきた。 先ほど思い返すことを止めた昨夜の夢が、また私の関心事項として浮上し、その夢の後に見た夢を思い出させた。夢の中で私は、波の穏やかな瀬戸内海の磯場で釣りをしていた。 友人らしき姿が二、三人ほど見えるため、彼らと一緒に釣りを楽しんでいるのだろう。どうやら私は釣竿

1561. 本当の夢

今朝は六時前に起床した。あの不安定な天候が落ち着き、今日からは天気が安定するようだ。 書斎の窓の向こう側に広がる景色は、一見すると夜の闇と見間違えてしまう。しかし、そこには早朝の独特の静けさが広がっている。 その静けさが視覚的な景色を生み出しているのだ。だから、今は夜ではなく朝だということがわかる。 昨夜の夢は、とある進学塾で講義をする役割を担っていた、というものだった。担当講義は数学だったが、受講生の年齢を考えると、算数だと言った方が正確だろう。 数人に対して講義をすることを想定していたのだが、思っていた以上に教室が大きく、講義の開始時間になる頃には、随分と多くの生徒が教室の机に座っていた。そして、生徒だけではなく、保護者の姿も何人か見える。 時間となり、講義を始めようとすると、一人の生徒から提案があった。どうやら、算数ではなく、夢について話してほしいということだった。 その提案をしてくれたのは、歌手になることを夢見る一人の女の子だった。彼女の提案は、私たちが就寝中に見る夢ではなく、将来の夢について話をしてほしいということだった。 ちょうど彼女の母親も教室に来ており、どうやら母親もプロの歌手のようだった。その女の子の容姿は日本人だが、彼女の母親は日本語の流暢なアフリカ系アメリカ人だった。 その母親も、講義の冒頭に夢について話をすることを望んでいるような表情を浮かべていた。すると突然、私の眼の前に座っていた小さな男の子も夢について話を聞きたいと発言をした。 男の子が座る列の一番後ろの席、つまり先ほどの女の子の横の席に、その男の子の父親が座っていた。不思議なことに、その男の子の容

1560. 英文執筆と作曲実践の類似性

昨日、シンガポール国立大学が提供するオンライン作曲講座の二回目の視聴を終了した。文章を書くのと同じぐらいの自然さで、実際に曲を書くことからは程遠いところにいるが、一回目の受講の時と比べて、作曲に関する技能が格段に向上したように思う。 これは書物との向き合い方でも同じだが、何らかのテーマの講座についても、自らの手を動かしながら繰り返し講座を聞くことは、当該領域の知識と技術を深めることにつながる。今日は夕食後の休憩として、MIDIキーボードで音を出しながら、音楽理論のテキストを読み返していく。 昨夜も少しばかりこのテキストを読み返していたが、その時に、音楽理論が新たな言語体系として自分の内側に徐々に構築されている姿を見ることができて、確かな進歩を実感した。 音楽理論を学習する前の段階において、その全貌がよく見えず、作曲するに際してどれほど音楽理論を学ぶ必要があるのかがわからなかった。しかし、音楽理論を徐々に学び、それに並行して作曲実践を積み重ねていくことによって、作曲に必要な音楽理論の全体観を掴みつつあることは喜ばしい。 音楽理論もその他のいかなる学術理論と同じように、その世界は極めて深い。事実、音楽理論だけを取り扱った修士課程や博士課程も存在しているほどであるから、その探究には終わりはないのだろう。 しかし、私は決して、音楽理論の専門家になろうとしているわけではないのだ。音楽理論を活用しながら曲を生み出すことが何にもまして重要なのだ。 作曲実践をしていて頻繁に思うのは、それこそ英文執筆との類似性である。それが論文にせよ、日記にせよ、英語で文章を書くときには、英語の文法を知って

1559. 知識習得過程の観察

今日は午前に「学習理論と教授法」の講義と午後に「評価研究の理論と手法」の講義に参加した。どちらの講義も毎回自分にとって実りが多く、それらの講義に関してどこから何を書き留めておこうかいつも迷う。 記述の初期値設定問題については、実は偶然ながら今日の昼にも考えていたテーマであり、なぜ自分がある書き出しをその瞬間に選んでいるのかとても不思議に思うことがよくある。 そこには当然ながら、自覚的な意図を伴うことがしばしばだが、その自覚的な意図が働く前の無意識的な創造プロセスにとても関心がある。この問題は今のところ、問題の輪郭すらも明瞭にすることができていないので、この問題へ取り掛かることは極めて難しい。 だが、書き出しという記述の初期値がどのようなものであるかは、記述の最終地点がどのようなものになるかを決定づけるものであるため、この問題は非常に興味深い。 今朝方、講義に参加する前に自宅で考えていたことが、そっくりそのまま今日の講義で取り扱われた。一つには、学習プロセスの中に、いかに余白を設けるかというテーマだ。 「銀行型学習」のように、知識を休みなく詰め込もうとすることには大きな問題があり、知識を咀嚼するのに十分な時間的・精神的な余地を与えながら学習を進めていくことは、堅牢な知識体系を構築する上で鍵となる。 本日の講義を通じて、もう一つ考えていたことは、自分の学習プロセスの再検証の必要性だった。これはおそらく、私だけに当てはまることではなく、多くの人に当てはまる事柄なのではないかと思う。 身も蓋もない言い方をしてしまえば、私たちはあまりにも無意味な学習に従事しているということである。言

1558. 学習理論と教授法の重要性

今朝方、起床直後に執筆していた日記について、やはり現在学んでいる学習理論は、他者の成長支援の実践に有益なだけではなく、自らの探究活動そのものに直接影響を与えるものだと思う。 知識を詰め込むのではなく、余白を作りながら探究を進めていくというのは、当たり前と言えば当たり前なのだが、大量消費型の現代社会の風潮にさらされ続けていると、こうした当たり前のことがわからなくなってしまうような感覚の麻痺に陥りがちである。 また、探究活動が日々の重要な仕事の一つである私にとって、余白を作りながら絶えず探究活動に従事するというのは口で言うほど簡単なことではない。少しでもボタンを掛け違えると、ついつい誤った形の過剰労働を自らに課すことになってしまうのだ。 現代社会の風潮と人々の学びの姿勢、より広義には教育のあり方はやはり密接に関わっている。その点を考慮に入れると、私にとって重要なのは、絶えず現代社会の風潮を肌感覚で捉え、誤った形の学びや教育に人々が従事していないかをつぶさに検証していくことだろう。 そして、社会的な問題に焦点を当てるのと同時に、個人としての私自身の学びや教育にも焦点を当てていく。社会と私を遊離させることは間違っており、私もこの社会の中で学び続ける一人の当事者なのだ。 現代社会で生きる一人の当事者の視点を常に持つことは至極当たり前だが、この点を忘れてはならない。当事者意識の欠落した個からの出発は単なる主観的探究の域を出ないが、当事者意識を持った個からの出発は主観的探究を超えていく。 探究は、徹頭徹尾、当事者意識を持った個から主観的になされるべきであり、それが深まりの極致を見せる時、普遍

1557. 余白の重要性と「銀行型教育」の弊害

今朝は六時を少し過ぎた時間に目覚めた。フローニンゲン大学で過ごす二年目のプログラムの第二週が始まりを告げた。 起床直後のダークブルーの空も、シャワーを浴び終えた頃にはライトブルーの空に変わりつつあった。そのおかげもあってか、目の前を通り過ぎる黒い鳥たちの姿がよく見える。 今日も、自分の内側の燃焼過程に忠実となる、活動的な日になるだろう。一昨日と同様に、昨日も夢を見ていたのだが、どうも印象が薄い。 無意識の世界が不気味な落ち着きを放っている。ただし、昨夜の夢に関して一つだけ印象に残っているのは、夢の中で川端康成と三島由紀夫が現れたことだ。 厳密には、私が二人の視点に交互に立ち、何やら会話を行うというものだった。しばらく二人の役回りで会話をしていると、突然三島氏が消えた。 それは一時的な意味で消えたのではなく、永遠の意味で消えたのだ。そこで、川端氏が一言つぶやいた。 「非常に残念な死に方をしたものです」 前後の文脈はもはや覚えていない。川端氏が漏らしたその一言が何度も頭の中に響き渡る。そのような夢を見たのが昨夜だった。 昨日について改めて振り返ってみると、自分の内側に余白を作りながら探究を進めていくことの大切さを実感した。探究に絶えず従事していたとしても、探究内容を自分の内側に詰め込んではならない。 それは早晩消化不良を起こし、探究の速度も質も落とすことになるだろう。とにかく内側に余白を維持したまま、徐々に咀嚼されていく探究項目が、育っていく空間を与えることが重要である。 昨日はとりわけそうした意識を強く持っていたため、自分の内側にいつも以上に余裕があり、それでいて探究項目が身

1556. 自己、即、道:道、即、自己

——我らの行為は、我らを追う——ポール・ブルジェ 日曜日も終わりに差し掛かり、明日からまた新たな週が始まる。先ほど夕食を摂りながら、改めて自分の日々の取り組みが一体何であるかを明確なものにしようとしていた。 やはり、私の日々の取り組みは、人間発達に関する科学的・哲学的・音楽的な探究を行い、探究の成果を現代社会との接点の中で形として表現していくことなのだ。そこから一瞬も離れることはできないし、離れたくはないという強い思いがある。 私は長らく、そうした探究に従事するための環境から蚊帳の外に置かれていた。今、欧米での生活の六年目を迎えるにあたって、ようやくそうした環境の中に自己を置くことができるようになった。 それは実際にこの世界にある物理的な環境であり、同時に心理的な環境でもある。この六年間、いや、これまでの人生全ては、そうした環境に自分の身を置くために必要な時間だったのだと思う。 感傷的にではなく、冷静にこれまでの自分の歩みを振り返ってみた時、その歩みが一見すると無駄なように思えても、それらは一つとして無駄なものはなかったのだ。 今から七年前、まだ私が企業に勤めていた時、私には、人間発達に関する科学的・哲学的・音楽的な探究を行い、探究の成果を現代社会との接点の中で形として表現していくことの基盤などなかった。それでも、それまでの人生の一歩一歩の歩みが私にとっては必要だった。 そこから現在にかけて、満足のいく探究すら許させれない環境に置かれた時期を過ごすこともあり、そうした最中にあっても、ごく僅かでも基盤を構築していくための小さな一歩を毎日前に進めていた。七年前の決断の日から今日

1555. 燃焼と静けさ

遠方の空に白く輝く雲が見える。その他の雲は、灰色というよりもむしろ、薄い青色を発しながら空全体を覆いっている。 天気予報では午後から雨とのことであったが、夕方を迎えた今において、まだ雨が降っていない。幸いにも、来週の半ばからは天気が回復し、晴れの日が続くようである。 二ヶ月半に及ぶ夏季休暇を挟み、欧米での生活の五年目を終える頃、自分の内側に激流のような激しさと同時に、激流のそばに存在する静かな岸の両側面を見て取ることができるようになった。 自分はそれらの一方ではなく、両者である。いや、むしろ私の存在は、激流と岸を含んだ背景全体だと言った方が正確かもしれない。 いずれにせよ、自己を形成する背景の中に、全てを溶解する激しい流れと、全てを抱擁する静けさが存在していることは間違い無いだろう。巨大な燃焼に際して、極度な緊張を伴う静けさが訪れる、というリルケの主張は重く私に響く。 欧米での五年目の生活の中で、私は確かに巨大な燃焼を経験した。だが、それは決して終わることの無い燃焼であり、燃焼過程は今もなお続いている。 一人の人間が真にその人間性に目覚め、それを自覚しながら自らの生を全うしようとするとき、私たちは誰しも巨大な燃焼を経験することになるのではないだろうか。そうした燃焼に伴って、いつからか、私はこれ以上にないほどの静けさに包まれるような体験を度々してきた。 全てを抱擁する絶対的な静けさ。それは全てを打ち消す雷鳴の静けさであり、激流の音だけが鳴り響く、激しい流れがもたらすあの静けさだ。 書斎の中に、ベートーヴェンのピアノソナタが静かに鳴り響く。作曲実践を始めて以降、曲と向き合う姿勢

1554. 回るコマとそれを支える存在

今日は早朝から、何だかとても活力に満ち溢れている。フローニンゲンの寒さなど物ともしない熱情が自分を包む。 炎に炎を注ぐことなどできない。これはすでに完全であり、いつも常に私の中に絶えずあるものだ。 ただ、私がこの完全な炎に気づけないことが時にあるだけなのだ。早朝の起床時に最も驚いたのは、今日がまた始まったということだった。 始まったのは昨日でも明日でもなく、今日だということへの純粋な驚き。自分は昨日に生きたことはなく、明日に生きたこともない。 昨日を思い出し、明日に思いを巡らせることはできても、昨日を思い出す自己と明日に思いを馳せる自己は、今日の自分に他ならない。いつまで経っても今日の連続。 今朝目覚めた時、目覚めに気づいたのは、昨日の自己でも明日の自己でもなく、今日の自己だった。早朝から笑いが込み上げてきた。 それは、自分がいついかなる時も、常に今日に生きているということへのシンプルな事実に対する笑いだった。昨日も、いつもと同様に、その日があっという間に過ぎ去ったように感じられた。 確かに、私はその日において、自分のなすべき仕事に絶えず従事していたから、時間があっという間に過ぎ去ったというのも納得がいく。だが、私は徐々に、この「絶えず何かに従事する自己」とは異なる自己を自分の中に見出しつつある。 それは絶えず何かに従事する最中にあって、何にも従事しない者である。私が日々、自分の仕事に安心して没入することができているのは、この何にも従事しない者の存在のおかげかもしれない。 最初私は、日々の生活の中で絶えず仕事に従事する自分をコマに喩え、何にも従事しない者をコマの軸に喩えた。確か

1553. 不毛な試みに邁進する現代人

自己を求める人。自己を探そうとする人。それらはどちらも本質的に何かを見誤っているようである。 昨夜就寝前に、「自己の基底」に触れる体験にまたしても見舞われた。この体験についてはこれまで何度も書き留めているから、あえてここで繰り返して説明することをしない。 この体験の本質は次のようなものである。自己が「見つけた!」と叫んだ瞬間に、自己の基底が「それではまた」という挨拶すら残さぬまますぐに消え去るということだ。 仮に自己が自己の基底と合一した状態を維持していると、自己は自己の基底に安らぐことができる。自己が自らの身体でもなく、感情でもなく、思考ですらなく、それらを目撃する者ですらないという意識。 それらを目撃する者が広大な気づきの意識の中に溶け込み、全てから薄皮一枚完全に離れ、それでいて全てと一心同体であるという感覚の中に私はいた。この体験それ自体、あるいは自己の基底はいつも極めて狡猾だ。 いや、自己の基底が狡猾なのではなく、単に自己が愚鈍すぎるのかもしれない。つまり、自己が自己の基底を見つけたと気づくとき、「あぁ、自己の基底はこれだったのか」と一瞬でも自らの思考を挟むとき、自己の基底は一瞬にして姿を消す。 その理由は簡単である。なぜなら、自己の基底は見つけられるようなものではなく、最初から、しかも常にそこにあるものなのだ。 「ある」という言い方ですらおかしいかもしれない。なぜなら、私たちは常に、この基底意識と寸分違わず、日々の瞬間瞬間を生きているからだ。 私たちは、一度たりともそれと離れたことはなかったのだ。一度も離れたことのないものを求めるというのは、馬鹿げだことではないだ

1552. 意義喪失と意義再燃

今年のフローニンゲンでは、夏をほとんど感じることができず、気付けば秋がやってきた。今日も天候が優れず、晴れ間が一瞬広がった昼食前に、数日分の食料を買いに近くのスーパーに出かけた。 天候は優れないが、自分の探究活動は順調に進んでいる。今日も午前中に、予定の専門書を読み、それは二回読んだだけではほとんど理解できないが、初読の時よりも若干理解が進んでいることを実感した。 書籍を一読や二読程度で済ませてしまう消費的読書ではなく、繰り返し上塗りするような形で何回も読むことをしなければ、書籍に記載されている事柄を深く理解することなどできない。 とりわけ午前中に読んでいた書籍が専門的な内容であり、なおかつ、記載内容が実際に研究の中で活用してみなければ理解しづらいものであるがゆえに、数回程度読んだだけでは、知識を身体感覚まで落とし込んでいくことができない。 幸運にも、このテキストを取り上げているコースでは、テキストの内容に紐付いた課題がこれから毎週出題されるため、手を動かしながら課題に取り組むことによって、徐々に記載内容が身体の次元にまで浸透していくだろう。 書籍の記載内容を頭で理解する次元にとどめてしまうことは、もう止めにしなければならない。少なくとも身体感覚の次元で知識を捉え、それを身体を通じて活用できるところにまで理解を深めていかなければならない。 実際に研究や実務の中で活用できない次元で知識と向き合うことを早急に止めにする必要があるだろう。また、自分の深層的な存在に響かないような知識項目とは、そもそも接触することさえ避けなければならないだろう。 そのような知識項目を追いかけていては、存

1551. 探究サイクル

昨日から暖房をつけ始め、就寝時には湯たんぽを使うようになった。まだ九月半ばだというのに。 今朝も足元が冷えるため、暖房をつけることにした。今日は土曜日であるが、普段と一切変わらずに学術研究と作曲実践を行っていこうと思う。 まずは午前中に、「評価研究の理論と手法」のコースの後半で取り上げられている“Experimental and Quasi-Experimental Designs for Generalized Causal Inference (2002)”の二読目を進めていきたい。 月曜日は、このコースの二回目のクラスがあるが、今日読み進める箇所は第五回目と第六回目のクラスで取り上げられる箇所だ。このコースが自分の研究や実務にもたらす意義を考えた場合、このテキストに記載されている内容を是非とも深く理解したいと思う。 しかし、このテキストは簡単に消化できるようなものではなく、そのため、何度も繰り返し読む必要がある。今、このテキストを再読しているのもそのためだ。 実際のクラスが始まる前に二読目を終えておき、クラスの前日に簡単に三読目を行う。そして、クラスから自宅に戻ってきた後に、要点とキーワードの確認を兼ねて、簡単に四読目を行うということを心がけている。 それぐらい繰り返し学習しなければ、学習内容が真に我がものになることはない。その他にも心がけていることは、とにかく知識を無理に詰め込もうとしないことだ。 以前の私であれば、このような分厚いテキストでさえも一日で読もうとし、そのテキストを読み終わったらすぐに次のテキストに移るということをしていた。実はこれはかなり問題のある学習方

1550. この世界の神々との邂逅

フローニンゲン大学での二年目のプログラムの第一週が終わり、週末を迎えた。起床直後、いつもと同じ日課を終えてから書斎の机に着く。 A4サイズで印刷をした年間カレンダーの一日を、また今日も一つ丸で囲む。ここ数日間の風の強さとは打って変わって、早朝のフローニンゲンはとても穏やかだ。 今は完全に無風状態であり、全てを打ち消す雷鳴のような静寂さを持っている。そんな静寂さの中にいれば、どのような音もたちまちに聞こえてくるだろう。 昨夜、忘れることのできない夢を見た。夢の中で私は、山の景色が美しいある町にいた。 私はその町から隣町に行く予定があり、二つの町をつなぐ山道を移動することにした。山道と言っても、それは整備の行き届いた国道であり、車が走ることのできる道である。 二車線のこの国道を、私は空を飛びながら移動していた。車よりも幾分高い位置を維持し、国道を取り巻く山々の自然を眺めながら、私は目的地である隣町に向かって飛んでいた。 自分が空を飛んでいる車線を含め、対向車線にも何台かの車の姿が常に見える。中には私が空を飛ぶ速度よりも早い車があり、実際に私を後ろから追い越していく車があった。 山の景色が輝いているかのように見え、その景色に見とれていたためか、空を飛ぶ速度は比較的ゆっくりとしたものだった。しばらくすると、自分が空を飛ぶ高度が徐々に下がってきていることに気づいた。 これでは後ろからやってくる車にぶつかってしまい、下手をすると対向車線を走る車にもぶつかってしまうかもしれないと思った。そこで私は、車線から離れ、道の左手で一度止まることにした。 すると、左手には広大な海が広がっていた。海

1549. 不毛な探究の停止へ向けて

夕方の時刻を迎えた。早朝の天気予報を裏切る形で、今日は夕方までは晴れ間が広がっていた。 明日からまた天気が不安定になるようであるから、本日ランニングに出かけた方が良かったのかもしれない。しかし、今日はランニングに出かけなかった分、自分の仕事が進んだ。 相変わらず、毎日自分の関心事項に純粋に従う形で探究を進めているのであるが、常に自分の後ろには、「探究をする」という言葉を発することによって、探究と探究でないものを区別している自分に気づいている自分がいる。 すなわちここでは、探究などというものが本質的には存在しないものであり、探究すればするほどに、探究対象から離れていくことを自覚している自分がいるのだ。これは「自己探究」と呼ばれるものに関しても等しく当てはまることだろう。 「自己を求めるということは、すでに自己を見つけているということなのだ。だからそこにくつろぐとよい」とパスカルは言う。自己など求められるものでも、得られるものでもない。 自己はすでに今この瞬間に顕現している「それ」のことを指す。一度たりとも顕現していなかったことなどないこの自己を、私たちはどうやって見出すことなどできるだろうか。 常にすでにそれは見出されているものなのである。自己探究なるものを始めると、すぐにそうした試みに終わりがないことに気づくだろう。 自己など究極的には知りえないものであり、それはすでに究極的に今この瞬間に知りえているものなのだ。私たちは、洗面所にある鏡を見習うべきだろう。鏡は一切努力しなくても鏡像を得る。 なぜ私たちは、すでに得ている得られぬものを懸命に得ようとするのか。もうそれは、最初から完

1548. 直接的な師・間接的な師を求めて

早朝目覚める直前に、額の中心を閃光が貫いた。それは、少しばかり黄色がかっているかのような白い光だった。 その光が、自分の額の中心を貫いたのを知覚した瞬間に目を覚ました。昨夜は作曲実践をしている時にふと、正統な作曲教育を受けることなく作曲家として活動を続けた人物に思いを馳せていた。 このテーマについて考えるとき、私の中でやはり真っ先に思い浮かぶのは、ロシアの作曲家アレクサンドル・ボロディンだ。ボロディンとの出会いについては以前に書き留めていたように、彼は私に大きな励ましをもたらす存在である。 化学者としての仕事においても大きな功績を残しながら、作曲家としても偉大な仕事を残していったボロディンは、私にとって大きな指針となる。ボロディンは、ロシアの作曲家ミリイ・バラキレフに出会うまでは作曲の正統的な教育を一度も受けたことはなかった。 また、ボロディンが作曲を志した年齢は、私が作曲を志した年齢とほぼ同じであることも、私がボロディンに惹かれる理由の一つである。ボロディンがどのように作曲技術を磨いていったのかのプロセスに強い関心がある。 もっとも重要な点は、自分の内側に作曲への強い衝動があり、その衝動を形にするための指導者がいたということだろう。ボロディンにとってはバラキレフであり、ボロディンはバラキレフという師につきながら作品という具体的な形を生み出す過程の中で、作曲の技術を徐々に磨いていったのだろう。 今の私は、作曲を直接的に学べる師がいない。現代社会の技術的進歩によって、今はオンラインを通じて作曲を学ぶことができる環境があるが、やはり直接的に師と呼べる人物から教えを授かることは重要で

1547. 課題の続き

昨夜の就寝前に考えていたことをもう一度考え直している。自分の中で、科学者として、哲学者として、作曲家として生きるという括りをどのように取り払えばいいのかという課題だ。 それらひとつひとつの社会的構成概念で自らを括ろうとすることが、自分の仕事が科学・哲学・音楽の分離を促しているように思えて仕方ない。 しかし同時に、そもそも科学・哲学・音楽の三つの領域が固有の価値を持つ独立した領域として存在していることも確かであり、それらの領域の名称が確かに三者異なることからも、自らを前述の括りの中で捉えるというのも、ある意味仕方のないことかもしれない。 だが、仕方のないことでは済まされない感覚が自分の内側にあるのは事実だ。科学的研究成果を論文にし、哲学的探究成果を論文にし、人間発達を取り巻く科学的・哲学的な探究を通じて得られた事柄を曲の形として表現していく際に、それらが決して分断されたものではなく、包括的になされたものだと自らを納得させるためには何が必要なのだろうか。 もしかすると、自分の中で最大のテーマ、すなわちそれら三つの領域を包括する根幹主題を明確に掴めていないことが課題なのではないかと思った。それら三つの領域を包摂し、それらの仕事を統合的に推し進めるための、「これしかない」という究極的な主題を、私はまだ明瞭にしていないのではないか。 科学・哲学・音楽がどのような繋がりになっているのかを外面的に探究しても無駄である。つまり、それらの三つの領域の関係を説明するような文献を読んでいては全くダメなのだ。それは完全に方向が違う。 方向のズレ以上に、私が行おうとすることの実現から逆に遠ざかる。外面的

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