Search By Tags

1204. 白銀に輝く不気味な夢

「清澄な恐怖心を催すような夢」と表現するのがふさわしいであろう夢を昨夜見た。それは、非常に陰鬱かつ残虐な内容の夢だったが、陰鬱性と残虐性が極度に濃縮しているがゆえに、不気味な清澄さを持つ夢だったと言うことができる。 夢の中で私は、中国の農村部にいた。その農村部は、昔ながらの生活様式としきたりを踏襲していながらも、村の一角に一つの近代的な建物があった。 それは一階だけの建物であり、鉄筋で作られていた。村の他の建物は、全て木材で作られているようであったから、鉄筋で作られたその建物はひときわ異彩を放っていた。 村の村長と私は面識があったようであり、村長の案内のもと、その建物の中に入った。建物の中に足を一歩踏み入れた瞬間、背筋が凍るような感覚があった。 それはこれから目撃する光景の予兆であり、戦慄の伴った感覚だった。村長の後ろをついていく形で、私たちは建物の奥の方に向かっていった。 一階だけしかないこの建物のフロアは広かった。だが、フロアの左右に各々二つほどの個室のトイレがあるだけであり、フロアの真ん中には何もなく、少し大きめの四つのトイレがあるだけの建物だった。 フロア内はどこもかしこも、白銀色を放っていた。それは美しく輝いているような色では決してなく、鈍く鬱蒼とした色であった。 村長の後ろをついていく形で建物の奥に行くと、中年男性がそこにたたずんでいた。村長と私が目の前に来たところで、その男性は「ちょうどいいところに来られました。今から始めます」という言葉を静かに述べた。 その言葉を述べた男性の表情に笑みはなく、それは無表情と形容できるものだった。何が始まるのか皆目見当がつかない私

1203. 夏季休暇の三日目より

夏期休暇に入り、二日目が経った。確かに、大学関連でこなすべきことがほとんどなくなったという点においては、夏季休暇の様相を呈している。 しかし、この二日間において、自分のなすべきことに対する姿勢については何の変化もない。一昨日は、南オランダのライデンという街に観光に出かけたが、それでも自らの進むべき方向を絶えず確認しながら歩みを続けていくという姿勢には、何らこれまでと変わるところはない。 昨日には、午後から夕方にかけて雑事があったのは確かであるが、それ以外の時間については、これまでと全く変わらない形で一日を過ごしていたように思う。今日も、これまでの流れを汲んだ日にしたい。 具体的には、午前中にまずは教育哲学者のインナ・セメツキーの論文を三本ほど読む。その後、ダイナミックシステムに関する論文をいくつか読み進めていきたいと思う。 今年の九月からのプログラムについて確認しておかなければならないことがあるため、昼食後、大学の学生支援課に足を運ぶ予定である。その足で、社会科学キャンパスに行き、マライン・ヴァン・ダイク教授と面会する予定だ。 先日、私の方からヴァン・ダイク教授にメールをし、教授が参加する予定の「ジャン・ピアジェ学会」について質問をしていた。今年の六月の二週目に、サンフランシスコで開催されたこの学会は、私もサスキア・クネン教授から話を伺っていたので大変関心があった。 クネン教授から、フローニンゲン大学からはちょうどヴァン・ダイク教授が学会に参加するということを聞いていた。ヴァン・ダイク教授は、前の学期に「複雑性とタレントディベロップメント」のコースを履修していた時にお世話になっ

1202.『成人発達理論による能力の成長』:発達科学のリテラシー向上と言説空間の確立

今日は、一日の多くの時間を使って、昨日のライデン訪問について振り返っていた。随分と書き留めることがあり、実際に多くのことを書き残したのだが、それでも今日一日だけでは書き残せないことが多々あることに気づいた。 明日や明後日、さらには、それ以降も折に触れて、昨日の出来事について何かを書き留めていきたいと思う。今日はいつも以上に文章を書くことに時間を充てていたためか、書斎の窓から外を見る機会がほとんどなかったように思う。 今、夕食を摂り終えて、ようやく窓の外を眺めるといった具合である。時刻はすでに夜の八時に近づいているが、辺りはまだ夕方のような景色である。 夕方のそよ風が、木々を優しく揺らしているのが見える。仕事や学校から戻る人たちの姿もちらほらと見える。 そうした景色を眺めながら、第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』について改めて考えていた。未だに、本書を通じて表現したかった主題を探すようなことをしている。 本来であれば、主題を設定した上で書籍を執筆していくべきだと思われるが、書籍が完成した後になって初めて、隠れた主題が浮かび上がってくることに気づかされる。そうした隠れた主題について、これまで少しずつ書き留めていたが、今日は新たにもう一つ、主題と呼べるべきものを見つけた。 それは、本書を通じて、私は、人間の成長や発達に関する多くの方のリテラシーの向上に寄与したいということだった。実のところ、成長や発達を取り巻くリテラシーの欠如に関しては、あまり悠長なことを言っていられないように思われた。 先ほど、これは隠れたた主題だと述べたが、そうした思いからよくよく本書を読み返してみると

1201. ライデン訪問記:ある街の古書店での出会い

今日は、午前中から午後にかけて行わなければならない雑事があり、それを終えてから、再び昨日のライデン訪問について回想していた。 国立古代博物館を後にした私は、すぐさまスピノザ記念館に向かおうとした。なぜなら、ライデンからフローニンゲンの街までは電車で二時間半ほどかかるため、夕方にはライデンを出発しなければならなかったからだ。 しかし、国立古代博物館のある通り沿いを歩いていると、ある店の前で、一人の男性がサンドイッチを食べながら窓越しに何かを覗いていた。近寄ってみると、窓を通して、中に陳列されている数多くの書籍が私の目に飛び込んできた。 スピノザ記念館に向かって急いでいたのだが、どういうわけか私は、窓の外で足をぴたりと止め、店内に入るわけではなく、店の外から窓に面した形で陳列されている書籍を眺めていた。すると、面陳列されたある一冊の書籍が目に飛び込んできた。 それは、 “The Egyptian Book of The Dead”という書籍だった。その書籍は、見たこともない大きさであり、私の書斎にも、このような大判の書籍は一冊もない。 その書籍の表紙の絵が不気味な魅力を放っており、タイトルにも非常に惹かれるものがあった。というのも、先ほどの博物館で、古代エジプト人の死生観について多大な興味を示している自分がいたからである。 この本への興味から、私は古書店に足を踏み入れることにした。重たい扉を開き、中に入ると、店主の姿はなく、ラジオがかかっていた。 店の奥の方に店主がいる気配を感じ取っていたのだが、店主は一向に表に顔を出さすことはなかったので、私は店内の書籍をくまなく眺めていた。

1200. ライデン訪問記:「国立古代博物館」を訪れて

国立古代博物館に到着した私は、受付を済ませ、荷物をロッカーに置いてから、三階建てのこの博物館の鑑賞を始めた。地上階では、特別展示と古代エジプトの所蔵品を閲覧することができる。 私は、特別展示へと続く入り口に置かれていた古代エジプトの彫像にすぐさま捕まった。それは、博物館の訪問者を歓迎しているようでありながらも、今を生きる人間を寄せ付けぬ威圧感のようなものを放っていた。 この巨大な石で作られた彫像は、人間の姿を成しており、頭部から察するに、それは女性を表しているのだと思う。その胴体に刻まれたヒエログリフに私は思わず息を飲んだ。 それらはあまりにも細密であり、精密でもあったからだ。そこに刻まれた象形文字がどのような意味をなすのか、非常に気になっていた。 古代エジプト人は、どのような意味を込めて、この彫像にこれらの象形文字を刻み込んだのだろうか、ということを絶えず考えていた。今からおよそ5000年前の紀元前3000年に、このような彫像技術と文字を持った文明があることに、私は驚きを隠せなかった。 博物館に入館したはいいものの、この彫像を見物するのに随分と長い時間をかけ、大きな驚きと感動をしばらく感じた後に、私はまず特別展示室に向かった。この特別展示室には、様々な地域の古代文明が残した、石の宝飾品が展示されていた。 入り口で目撃した古代エジプトの彫像と同じように、そこで展示されている一つ一つの宝飾品の技術の高さには、大きな感銘を受けた。それらは、私の想像を遥かに凌ぐほどの技術的精密さを体現しており、当時の時代において、このようなものを生み出せたことをすぐに信じることができないほどであった

1199. ライデン訪問記:長大な時間をかけて積み上げられたもの

ライデンに向かう列車の中、私は持参した書籍をずっと読んでいた。時折顔を上げ、窓の外に広がる景色を眺めるのは、心地よい息抜きとなった。 持参していた“Authority, Responsiblity, and Education (1959)”という書籍を読む中で、改めて、教育哲学に大きな貢献を果たしたジョン・デューイ、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、フリードリヒ・フローベルの仕事を参照する必要があると思わされた。 フローベルに関しては、彼が発達に関する優れた洞察を持って教育を捉えていたことがわかった。具体的には、フローベルは、子供たちには様々な発達段階があり、そうした発達段階を的確に掴むことの重要性を強調し、子供たち各人が持つ関心事項と発達段階を考慮した教育を施す重要性を指摘していたことを知った。 それに気づいた時、自宅の書斎の本棚の中に、フローベルの “Friedrich Froebel: A Selection From His Writings (1967)”があることを思い出した。列車の中で私は、その書籍をこの夏にぜひ読みたいと思った。 早朝の列車は非常に空いており、隣の席には誰も座っておらず、気兼ねなく書籍に没頭することができた。デューイとホワイトヘッドに関しては、私がこのところずっと関心を示していた、「躍動する知識」に関してヒントを得たように思った。 特に、ホワイトヘッドは、自らの関心に合致しないような知識を無理に学ぶことは害悪であり、それを通じて仮に何らかの知識が得られたとしても、それは「不活性な知識」だと見なしている。つまり、自らの関心に引きつけて獲得され

1198. 精神療法の負の側面

間違いなく自分に何かが起こり、その何かが少しずつ自分の奥深くに浸透していく運動が始まったかのような感覚に今包まれている。それを引き起こしたのは、昨日のライデン訪問だった。 昨日の早朝に自宅を出発し、フローニンゲン駅に到着した私は、早朝の肌寒さもあり、駅構内のコーヒー屋でホットコーヒーを注文した。注文したコーヒーが届き、店内のテーブルに腰掛け、何口か飲んだところで、出発時刻までもう少し時間があったが、プラットホームに向かうことにした。 乗車予定の列車は、すでにプラットホームに到着して出発を待っていた。列車に乗り込むと、私はすぐに、持参した “Authority, Responsiblity, and Education (1959)”をカバンから取り出した。 この書籍は、フローニンゲン大学の社会学棟にある、書籍の寄付所で偶然見つけたものであり、特に権威が教育にもたらす肯定的・否定的な影響について関心があった私にとって、この書籍は非常に参考になる一冊である。 ライデンまでの二時間半ほどの間、私はこの書籍を食い入るように読み進めていた。権威が教育に与える影響とは直接関係ないのだが、著者は、全ての心理的な現象を無意識の問題として説明しようとするフロイトの考え方に否定的な見解を述べている箇所が印象に残っている。 その見解の中で、一つ面白い話があった。「ピタゴラスの定理」で知られる古代ギリシャの数学者ピタゴラスが、ある日、砂の上に三角形を描いているというところからその話は始まる。 そんなピタゴラスのもとに友人がやってきて、ピタゴラスの横に腰掛けてから、二人の会話が始まる。 ピタゴラス:「

1197. ライデン訪問から一夜が明けて

昨日のライデンの訪問から一夜が明けたが、まだその余韻が残り続けている。昨日は、新たな点において感化されるような日であった。 起床直後、昨日についての回想を始めようとしたところ、それよりも先に、昨夜の夢について思い返すことを強いられていた。夢の中で私は、一人の老賢人と対話をする機会を得ていた。 その方は、80歳の日本人の方であり、日本で生まれた後、三歳の時に台湾にわたり、それ以降、36歳までその地で生活をしていたそうだ。知人がかつてその老人のもとを訪れ、話を伺った時にとても感銘を受けたという話を聞いた。 その老人の知識の豊富さというよりもむしろ、一つの知識をいかに深く習得するかに関して、常人の想像を遥かに超えているということを聞いていた。知識の獲得の際に、自らの身体を通じて知識項目と接し、知識を深める際にも、それを自分の身体を通過させることによって、知識が血肉化していくというプロセスを、私たちの想像もつかない次元で行っているらしい。 私はその知人に、その老賢人との面会の約束を取り付けてもらい、老人が住んでいる家に向かった。その家は、小高い山に続く道の中腹にあり、その外見はあまり立派なものには見えなかった。 偶然にも、私の到着に合わせてその老人が家から顔を出し、お互いに簡単な挨拶をしたところで、家の中に招き入れてもらった。すると、家の外見とは対照的に、家の内装はモダンな感じであった。 全てのものが小綺麗に整理されており、リビングと書斎を兼ねた部屋はとても開放的だった。その老人と少しばかり会話をしてからだっただろうか、老人はリビングからロフトのような二階に、一風変わった階段を使って上

1196. ライデン訪問記

今日は丸一日を使って、オランダ南部にあるライデンという街を観光した。ライデンの街がこれほどまでに自分に重大な意味をもたらすとは、全く想像していなかった。 三日ほど前に、今年一年間のプログラムに区切りをつけるために、何気なく訪れようと思った街だったにもかかわらず、この夏の過ごし方を一変させてくれるかのような感覚を私にもたらしてくれた。早朝の六時半に自宅を出発し、フローニンゲン駅へ向かう最中、私は昨年の夏の欧州小旅行の朝を思い出した。 昨年の夏に、ドイツ、スイス、フランスへ訪れたあの時の出発の朝が、今朝の姿と重なっていた。昨年の夏の欧州小旅行の出発時の朝を思い出す時、私は、昨年の冬に訪れたデン・ハーグに向けて出発した朝も同時に思い出した。 記憶の連鎖反応に従うままに、私はフローニンゲン駅へ向かって歩いている最中、絶えずそれらの記憶について思い出していた。オランダ国内の旅行にせよ、オランダ国外の旅行にせよ、旅立ちの朝は何か格別な感情と感覚を引き起こす。 今朝の私は、とにかく古代エジプトと古代ギリシャの歴史に触れることへの期待感と、スピノザが思索活動に打ち込んだ住居へ訪問することへの期待感が強くあった。そうした期待感を胸に、私はフローニンゲン駅から列車に乗り込み、二時間半ほどかけてライデン駅に到着した。 ライデンに到着してすぐに気づいたが、フローニンゲンとまた異なる雰囲気が漂っていた。両者の都市は、文化的かつ歴史的に異なるものを堆積してきたことを物語っていた。 二つの都市が堆積してきたものが異なることは明白であり、両者が私にもたらす感覚も歴然と異なるものであることが知覚されたのだが、そ

1195. 夏季休暇の始まり

今日は夏季休暇の一日目である。本格的に二年目のプログラムが始まるのは、九月の二週目ぐらいであるから、およそ二ヶ月半を越す休暇となる。 この期間は、自分にとって大きな転換期になるだろう。そんな風に思う。 この期間の過ごし方は、探究者として、実務家として、いや、究極的には一人の人間として、今後どのように生きていくのかを決定づけるような気さえする。今朝は五時に起床し、六時半あたりに自宅を出発し、ライデンへ向かう。 それは、古代エジプトと古代ギリシャの彫刻を見に、「国立古代博物館」へ行くためである。また、哲学者スピノザの過ごした場所を見るために、「スピノザ記念館」に行くためである。 これら二つの場所を訪れるのは非常に楽しみでありながらも、今の心境はとても静かだ。早朝ということも手伝っているのかもしれないが、初夏の季節に自分が溶け込んでいるかのような季節との一体感、取り巻く自然との一体感がある。 書斎から窓の外を眺めてみると、今朝は無風だ。一切の風がなく、家の周りに植えらた木々の小さな葉すら揺れていない。 動いているのは空を舞う鳥たちだけであり、後の世界は微動だにしない。こうした静の優位な世界の中にあることも、今の私の心を鎮めてくれることにつながっているのかもしれない。 昨日は、外に出ると暑さを感じる一日だった。一方、今日はまた涼しい気温になっている。 天気予報を確認すると、オランダ南部に位置するライデンの今日の気温は、昨日のフローニンゲンを少し上回るらしい。当地では少し暑さを感じるかもしれないが、天気に恵まれているため、ライデンの街を観光するにはうってつけの日である。 今朝は五時に

1194.『成人発達理論による能力の成長』:能力という生態系の危機

本日の夕方から、二ヶ月半ほどの夏期休暇に入った。最終試験終了後、自宅に戻ってから早速、この休暇を利用して読もうと思っていた論文群に手をつけ始めた。 今から数日間ほどは、まずMOOCに関する論文、インナ・セメツキーの教育哲学に関する論文、ダイナミックシステム理論に関する論文を読む予定である。そこからは、七月に一括購入する予定の専門書が届くまでの期間において、書斎の本棚にある専門書と哲学書をとにかく順番に読み解いていく計画を立てている。 この夏の集中的な読書は、秋以降、特に冬の時期における私を大きく支えるものになるだろう。さらには、この夏の集中的な読書は、今後長きにわたって私の探究の重要な土台になってくれるだろう、という予感がしている。 最終試験から自宅に戻り、コーヒーを入れて一息つこうとしたところ、能力の成長に関する「バランス」について新たな問題意識が芽生えた。もしかすると、拙書『成人発達理論による能力の成長』を読むことによって、自分の中で現在能力がそれほど高くないものを高め、能力全体のバランスを取ることが望ましいという発想を持ちかねないことを危惧した。 私たちは、ここで用いられている「バランス」という言葉を吟味しなければならない。なぜなら、一般的に用いられる「バランス」という言葉は、「均衡(equilibrium)」と「均質(homogeneity)」の二つの異なる意味のうち、後者のことを指していることが多いからである。 結論から述べると、能力の成長において重要なバランスというのは、前者であり、決して後者の意味ではない。能力の成長において、「均衡」というのは何を指しているかとい

1193.「測定主義」の危険性

先ほど、一年目のプログラムの最終試験を全て終えた。今日は、太陽が燦々と降り注ぐ夏日であり、試験会場に行く最中の道のりは、とても暑く感じた。 今日の試験は、「成人発達とキャリアディベロップメント」に関するものであり、一年目のプログラムを締め括る最後の試験だった。この一年間で受講してきたコースの最終試験は全て、コンピューター上で解答するものか手書きで解答するものだった。 中には、期末の論文を課すコースもあった。今回のコースは、論文だけではなく、選択式試験も加味して最終成績を評価することになっていた。 私自身、フローニンゲン大学で初めて選択式試験を受けることになったため、出題形式や出題難易度などに未知の部分が多々あったが、比較的満足のいく出来であったように思う。試験会場を後にした私は、広大なキャンパスと同じように、開放的かつ解放的な心になった。 ようやく一年目のプログラムが全て終わったことに対して、大きな安堵感を得たようだった。この一年間で得た学びというのは、知識面のみならず、むしろ知識以上により重要なことを数多く学んだように思う。 それについては、また改めて書き留めておきたい。とりあえず今は、この解放感を持ったまま、これから始まる夏の休暇における探究活動に入っていきたい。 眩しいぐらいに輝く太陽のもと、私は、キャンパスから自宅に戻る最中に、発達測定について改めて考えていた。本書『成人発達理論による能力の成長』で紹介した、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を活用した測定手法は、領域固有型ではなく、領域全般型という特徴を持つがゆえに、理論上は全ての能力について測定をするこ

1192. ライデン訪問に向けて:「スピノザ記念館」と「国立古代博物館」

今年一年のプログラムを締めくくる最終試験への準備のため、連日連夜、自らの関心事項に純粋に則った探究と仕事を控えている。そうした日々が少しばかり続いたためか、疲労のようなものが蓄積していることに気づく。 特に、昨日と今朝は、午前中にしばらく目をつむっておきたくなるような倦怠感があった。先ほどは実際に、書斎の椅子ではなく、ソファに腰掛け、しばらく目をつむって安静にしていた。 すると、ここ数日間、最終試験に向けて蓄積してきた知識が、断続的な映像を伴って動いている様子が知覚された。その映像の動きが落ち着きを見せるまで、無意識の世界にしばらく浸っていた。 数分ほど経ち、知識の消化運動が収束すると、私は目を開けて、再び書斎の机の前に座った。そして、論文の読み込みを再開させた。 こうした日々も今日の午後で終わりを迎える。あと少しのところまできた。 午後に控えた最終試験が終われば、夕方からは、止むに止まれない形で、自らが選択した論文と専門書を読み進めたい。ただし、明日だけは、休息というわけではないかもしれないが、オランダの他の都市に日帰り旅行をしたいと思う。 日帰り旅行と言っても、デン・ハーグの北に位置する「スピノザ記念館」ただ一つの場所に足を運ぶだけだが。 調べてみると、フローニンゲンから二時間ほどかけて、オランダの主要都市の一つであるライデンに行き、そこからバスに10分ほど乗ればスピノザ記念館に着く。しかし、ライデン駅からスピノザ記念館まで歩いてわずか一時間ほどであったため、当日は歩いて目的地に向かうことにしたい。 地図を眺めていると、ふと「国立古代博物館」が目に止まった。スピノザ記念館だ

1191. 発達の律動と発達の淵

何かに触れる形でそれを知ること。それは身体的な次元でなされるというよりも、精神的な次元でなされるようなものであり、それは精神的な何かを「触知する」と表現できるだろう。 昨日、私は何かに触れていたんだと思う。それはこれまでにないようなものであり、今日からの私を新たに導いていくようなものであった。 正直なところ、それはまだ言葉の形になることを許さない。別の表現で言えば、それは、今の私の言葉の世界から滑り落ちてしまうようなものである。 ゆえに、私はあえてそれに今の自分の言葉を当てない。それは間違いなく、緩やかに深耕していく現在の自分の内面世界の深くにあるものであり、それこそが自分の次の内面世界を形作るものなのだと思う。 それは将来の自分の内面世界を形作るものであるがゆえに、今の段階の私の言葉を寄せ付けないというのは、とても納得のいくことだ。だが、昨日間違いなく私はそれに触れたのだという感覚が、一夜明けた今この瞬間にも残っている。 それは「発達の淵」と表現できるようなものであり、私はそれを触知していたのだと思う。それは、現在の自己と将来の自己とを同時に知覚するような感覚を引き起こす。 また、絶えず緩やかに深耕していく発達の淵に触れるというのは、発達の律動に触れることに他ならない。もしかすると、それは生の躍動と言い換えることができるかもしれない。 ただ、発達の淵に触れるというのは、自分がまさに徐々に深耕していく何かに他ならないという自覚的な感覚を引き起こす点において、生の躍動と表現されるものとはまた別種のものなのかもしれないと思う。 今、自分がこのようにして、欧州で生活と仕事を営んで

1190. 刻印と刻成

それは黄色というよりも、黄金色と形容した方がふさわしい朝日だった。早朝目を覚ますと、まばゆいほどの朝日が寝室全体を包んでいた。 目を開けた時の黄金の輝きと相まって、先ほどまで見ていた夢の内容が、なぜだかもう一度まばゆく鮮明に思い出されるかのようであった。夢の中で私は、懐かしい旧友たちと旧交を温めていた。 夢の中で何を話し、何をしていたかは、ここでは問題にならない。問題として取り上げるべきは、夢の核にあるものであり、今この瞬間の私を促す何かである。 つまり、書き留めるための必然性を生むものだと言っていいだろう。欧州での生活を始めてから、旧友が登場する夢が多くなったような気がしている。 もしかすると、以前からそうした夢を見ていたのかもしれないが、その頻度が高まっているような気がするのだ。この現象は、私にとって一体どのようなことを意味するのだろうか。 日々、何かに向かって進んでいるような気がしながらも、何かに帰っていくような感覚が絶えずある。表現するのは難しいが、それは失われたものを取り戻すような感覚、いや、刻印されたものをもう一度自分の内から外へと顕現させるような感覚がするのである。 この感覚を促すかのように、夢の中では昔の友人が登場し、過去の生活地などが想起されるのかもしれない。今朝はとりわけ、内側に流れている感覚が不思議なものに知覚された。 それはまるで、昨日までにないような感覚を獲得したかのような感覚、と表現できるかもしれない。この感覚は、今日から本当に何か新しいことが始まるかのような思いを引き起こす。 人生の進行は極めて緩やかであり、同時にそれは不可避に進んでいくようなもの

1189. 『成人発達理論による能力の成長』:高度な能力と具体的な行動との関係性

第二弾の書籍の発売日とフローニンゲン大学の最終試験の期間が重なり、心中穏やかではない。そのような日も、ようやく明日で終わる。 明日からは実質上、夏期休暇に入り、ここから二ヶ月強の間、私はなすべきことをなそうと思う。それは、全く異なる場所に行くための必然的な準備である。 この期間をどのように過ごすかの気概はすでに充満しており、具体的に何をなすべきかも明確である。明日の午後に最終試験が全て終わるその瞬間から、全ての新しいことが始まる。 書籍が出版されてから三日が経ち、早速何人かの知人の方から読了後の感想を教えていただいた。その中でも一つ、重要な質問事項をここで取り上げたいと思う。 その質問の趣旨を端的に述べると、カート・フィッシャーのレベル尺度において高度な段階に到達している人が実際に発揮する具体的な行動についてである。言い換えると、能力レベルと具体的な行動との関連性に関するものだ。 例えば、「マネジメント能力」というものを例に取った場合、「マネジメント」という概念に対して、仮に原理レベル(レベル12)の力を持っていたとしても、具体的な行動としてそれが現れるのかどうか、という問いにつながる。 より具体的には、マネジメント論に関して高度な原理原則を構築している人が、他者への関わり方が自己中心的になってしまったり、他者への配慮を欠き、結果としてチームを巧くマネジメントすることができないケースもあるのではないか、ということだ。 確かにこうしたケースは起こりうる。なぜなら、マネジメント能力を構成するサブ能力に関して、それらの構成要素のレベルがどういったものかによって、各要素で発揮される

1188.能力開発と能力測定の誤解

午前中の仕事に取り掛かる前に、最後にもう一つだけ書き留めておきたいことがあった。 それは、第二弾の書籍『成人発達理論による能力の成長』に記載した、「能力の高度化と実践力」の関係性についである。私は本書の中で、能力の高度化に伴って実践力が高まるということの意味について説明し、その注意点を明記していた。 しかし、改めて振り返ってみると、もう少し言葉を付け加えなければ、少々誤解を生みかねないと思った。あるいは、既存の誤解が解けないままに、能力の高度化と実践力を結びつけてしまいかねないと危惧した。 ここで、実践力というのは、知識と経験を具体的な状況における具体的な課題に対して適用する力だと捉えている。その意味を踏襲するのであれば、実践力という言葉を「パフォーマンス」という言葉に置き換えてもいいだろう。 しかし、最もありがちな誤解は、「意識の発達が高まればパフォーマンス」が向上するというものである。この誤解の原因はどこにあるのだろうか? それは端的に、還元主義的な発想と心理統計に関する基礎的な知識の欠落に原因があるのではないだろうか。まず、還元主義的な発想というのは、本書で指摘したように、ロバート・キーガンやビル・トーバートをはじめとした発達理論で取り扱われている領域は、私たちの能力が持つ無数の領域のうちの一つに過ぎないにも関わらず、意識の発達を無数の能力領域と安易に関係付けてしまうことを指す。 繰り返しになるが、意識の発達をもってして、個別具体的な能力のパフォーマンスが向上するという実証研究は今のところ存在せず、意識の発達もまた一つの能力の発達に過ぎないということを頭に入れておく必要が

1187. 徹頭徹尾の一貫性

けたたましい慟哭が去ってからの朝は、奇妙なほどに静かだった。開放された書斎の窓から、小鳥のさえずりが聞こえ、書斎の窓から外の通りを眺めると、通りの上を一匹の灰色の猫が歩いていた。 一切合切をまたここから進めていこうと思う。 昨夜の夢は、激しい慟哭によって破壊された内側の瓦礫を洗い流すかのような夢だった。夢の内容があまりにも光に満ちていたのは、就寝前の内面世界の状況の反動からだろう。 ここでは夢の内容について書き留めることをしない。なぜなら、昨夜の夢も間違いなく、私にとっての大切な意味を内包しながらも、それは就寝前の慟哭に対する慰めの報酬に過ぎず、夢の中の光を信じることができないからだ。 真実の光の前には、常に偽りの光が存在しているように思う。真実の光に行き着くまで、偽りの光に目をくれてはならない。そのような思いが湧いてくる。 昨日の午後にふと、慟哭の中で探究を続け、世界に関与しようとした人間たちについて考えている自分がいたことを思い出した。彼らは一様に、止むに止まれぬものによる探究活動を余儀なくされ、彼らの途轍もなく個人的な問題が社会の問題と強く合致している様子が見て取れた。 おそらく、「探究」というものは、本来このようなものでなければならないのだと思う。先日の日記で、探究という言葉の持つ意味が変化し始めたことについて書き留めていたように思うが、あの時に書き綴っていたことの意味はまさにこれである。 個人的な問題と社会的な問題が、徹頭徹尾の一貫性を持ち、そこに一切の隙間もない状態。その状態の中で、止むに止まれぬものに突き動かされながら、絶え間ない思索と実践を遂行していくこ

1186. 慟哭

昨夜の就寝前に慟哭に襲われた。ただしそれは、悲しみの慟哭ではなく、嘆きの慟哭だった。時に私は、こうした慟哭に襲われることがしばしばある。 日本を離れ、米国で生活をし始めてから、特にそれは定期的に現れるようになり、欧州で生活をする今も、同じような頻度でそれに襲われる。 昨夜の慟哭をもたらしたのは、私たちが最後の一日を過ごす際に、果たして本当に「金銭の獲得」や「生産性の拡大」を叫びながら過ごすことができるのか、仮にできないのであれば、なぜ今それを叫ぼうとするのかに対する嘆きだった。 なぜ最後の日に主張できないことを、今この瞬間に盲信的に主張しようとするのか、それに対する憤りのようなものに私は包まれていた。これは、文化人類学者のアーネスト・ベッカーが指摘するような「死の拒絶」からもたらされているのだろうか。 なぜ私たちは、自らの死の直前に主張できないことを、今この瞬間に主張しようとするのだろうか。なぜ私たちは、自らの最後の日と同じように、今日という日を過ごすことができないのだろうか。 最後の日における死の直前に、札束を握りしめて銀行口座の数字を気にする人間が一体何人いるのだろうか。最後の最後まで、貪欲に何かを消費しようとするような人間が一体何人いるのだろうか。 生産性を強調する人間は、それでは果たして最後の最後まで生産性を追い求め、生産的に死のうとするのだろうか。もし仮に、そんなことはないと言うのであれば、なぜそれらを今求め、それらを今声高に主張しようとするのだろうか。 昨夜の私は、最後の日と今日の日における言行不一致の状況に憤りを感じていた。そしてもう一つ、嘆きを感じている対象があ

1185. 自己と集合を冒涜する日本語に無自覚な日本人

今日は、ドイツから来られた二人の日本人の方とフローニンゲンのレストランで昼食を共にした。フローニンゲンに来てから一年が経とうとしているが、知人の方がこの街に足を運んでくれることは初めてであった。 三人で昼食を摂りながら、様々な話題について意見交換をしていた。そこで話題に上がったどれもが、私にとって重要なものであり、これからの欧州生活を通じて、それが意味するものをより明確にしていかなければならないと思う。 時間としては二時間半ほどだったが、欧州で暮らす日本人の方とこのように話ができたことは、私にとって様々な意味で有り難かった。その方たちと別れた後、私はまた一人になった。 自宅に向かう道中、独り言を口ずさみながら、考えなければならないことを考えていた。自宅に到着し、すぐさま午前中の続きとして、論文を読むことを始めた。 論文の文言をいくら大きな声で音読しても、それよりも大きな音を持つ自分の内側の声が絶えずこだましていた。なにやらそれは、第二弾の書籍の主題に関するものだった。 結局私は、日本の中で、真の日本人がいかに少ないかを強く嘆いていることがわかった。そうした嘆きをもたらす現象は、日本人の中で、いったい何人の人が、その瞬間瞬間に自分が日本語を話していることに自覚的であり、いったい何人の人が、自分の日本語を鍛錬することを毎日意識しているのか、という問題意識の中に如実に表れている。 人間としての器の成長にせよ、能力の成長にせよ、それが日本語空間において営まれるものであるならば、自らの精神が拠って立つ日本語を涵養しなければならないと思うのだ。ここではあえて、言葉と器や能力との関係性につい

© 2013 All rights reserved by Yohei Kato

 

免責事項:当サイトを利用したウェブサイトの閲覧や情報収集については、情報がユーザーの需要に適合するものか否か、情報の保存や複製その他ユーザーによる任意の利用方法により必要な法的権利を有しているか否か、著作権、秘密保持、名誉毀損、品位保持および輸出に関する法規その他法令上の義務に従うことなど、ユーザーご自身の責任において行っていただきますようお願いいたします。

 

当サイトの御利用につき、何らかのトラブルや損失・損害等につきましては一切責任を問わないものとします。当サイトが紹介しているウェブサイトやソフトウェアの合法性、正確性、道徳性、最新性、適切性、著作権の許諾や有無など、その内容については一切の保証を致しかねます。当サイトからリンクやバナーなどによって他のサイトに移動された場合、移動先サイトで提供される情報、サービス等について一切の責任を負いません。当サイト内には、他の著作物から引用し、文章を作成している記事がございます。万が一、著作権に抵触する場合にはお知らせください。速やかに対処させていただきます。