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728. 箝口令を突破して

今日は芯から冷える一日だった。最高気温がマイナスであるか否かは、外に出た時の体感ですぐにその違いがわかる。 午後になっても最高気温がマイナスから抜け出ることはなかった。このような日は本当に寒い。身も凍えるような日が続いているが、相変わらず日々の充実ぶりには自分でも目を見張るものがある。 外気が下がれば下がるほど、内側の熱気を示す内気が上昇していく様子を見て取ることができる。それぐらい、今の私にとって毎日はとても充実したものだと言える。 自分が到達しようと思っている境地から今の自分を眺めると、両者には絶望的なまでの隔たりがある。また、日々の仕事の深まりも、亀の歩きよりも遅いとさえ言える。 それにもかかわらず、一日一日が素晴らしい日であったと何のためらいもなく言えることができるのは、本当に喜ばしい。このように毎日がとても充実したものとして感じられるのは、私の中で、「一日」という時間単位の捉え方が変わったからだろうし、それ以上に、もはや生きることの意味と生き方そのものに大きな転換があったからだろう。 私は、自分が歩もうとする道や到着地点を、もはやそれほど重要なものとして位置付けることはなくなった。同時に、日々の歩みのプロセスでさえも重要なものとみなせなくなっているのだ。 目的地点でも過程でもなく、私にとって重要なのは、歩き続けるという行為だけなのだ。私が歩き続けるのではなく、歩き続ける行為が私なのだ。 歩き続ける行為が私になる時、それは生がもたらすあの爆発的な歓喜にも似た充満性と一つになることに他ならないように思えて仕方ない。おそらくこれこそが、一人の人間がその人固有の人生を生きよう

727. 論文の読み方について

昨日の「複雑性科学とタレントディベロップメント」のコースを通じて、論文の読み方について再考を迫られるような思いになった。 このコースは通常のものよりも時間が長く、三時間にわたって行われることになっている。前半の一時間は担当教授からのレクチャーに当てられており、次の一時間は二人一組か少人数のグループワークに当てられている。 最初のレクチャーは全て英語で行われるが、グループワークからは英語かオランダ語を選択することができる。私は英語のグループを選択し、昨日は四人ほどの受講者が英語のグループを選択していた。 このコースはマライン・ヴァン・ダイク教授とラルフ・コックス教授の二人が担当しているため、グループワークでの課題をこなした後、各教授がオランダ語と英語のグループがいる部屋を訪れ、最後の一時間は教授を交えてディスカッションをするという構成になっている。 今回のグループワークの課題は、生得主義を批判する経験主義者の主張を実証結果を引き合いに出しながら批判するという論文を取り上げ、四つの質問に答えていくものであった。事前に一読した際に、著者の主張の大枠を把握していたつもりなのだが、いざ課題に取り組んでみると、自分の読みが相当に浅いことがわかった。 課題の焦点は、経験主義者が生得主義を批判する際に代表的に用いる六つの論拠に対する著者の批判的見解の内容を掴み、その著者の主張に対してさらに私たちが肯定的・否定的な見解を独自に展開していくことにあった。 また、著者の見解を実証研究で明らかにするためにはどのような実験を行うことができるのか、という提案なども考えさせられる課題となっている。 二人一組

⭐️【お知らせ】Back Number Vol 22 & 23(記事421-460)

いつも発達理論の学び舎をご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 寒暖の差が激しい二月末、体調にはくれぐれもお気をつけください。 それでは、過去のブログ記事421-460に加筆・修正を加えたBack Number Vol 22と23を共有させていただきます。 皆さんのご関心に合わせて、必要な箇所だけを読んでいただければ幸いです。 閲覧・ダウンロードは下記より: ・Back Number Vol 22 ・Back Number Vol 23 目次(Back Number Vol 22) 421. フリジア人 422. 飛行機雲、書籍、そして三日月 423. 企業組織における個人の創造性とイノベーション 424. 創造性の街フローニンゲン 425. 言葉の召喚作用と知識の体系化 426. 内なる原形 427. 理論創出方法について 428. 11月開講予定の新ゼミナールについて 429. 変わらぬ休日 430. 物質的かつプロセス的な知識 431. 大空を羽ばたく二羽の鳥 432. 感性の通り道 433. 変化と不変 434. 啓蒙書 435. 研究プロセスにおけるホロン階層について 436. 有意味と無意味を超えて 437. 熱感 438. 多様な文化から 439. カート・レヴィンの理論より 440. 超越的文脈把握力 目次(Back Number Vol 23) 441. アメリカドラマと「文脈」について 442. 才能や創造性に関する二つの研究アプローチ 443. 卓越性と文脈:文脈を見定める二つの眼 444. 時空の交差と文脈 445. 時間超越的な意識の中で

726. 日々の取り組みへの確信

今学期は前の学期と異なり、夕方からのコースが一つある。今日参加したのは、「複雑性科学とタレントディベロップメント」というコースであった。 このコースは元来、過去数年間オランダ語でのみ提供されていたものであるが、今年から英語での履修を希望する学生が4名以上いた場合には、英語でも開講するという話を半年前に聞いていた。 私がフローニンゲン大学に来た最大の理由は、複雑性科学の観点——ダイナミックシステムアプローチや非線形ダイナミクス——から発達現象を探究することであった。以前の学期に履修していた「複雑性と人間発達」というコースは、まさにその目的に合致したものであり、今回の「複雑性科学とタレントディベロップメント」というコースも前回のコースの延長線上にあるようなものである。 そのため、複雑性科学の観点から人間発達についてより理解を深めるために、このコースをどうしても履修したかったのである。なんとか英語での開講にこぎつけるため、同じプログラムに属している友人やオランダ語で提供されている発達心理学のプログラムに在籍するオランダ人を勧誘していた。 結果として、英語で開講できる人数を確保することができ、無事に英語でこのコースを履修できることになったのはとても喜ばしい。 今日は初回のクラスであったが、期待していた通り、内容が非常に濃いものであった。マライン・ヴァン・ダイク教授とラルフ・コックス教授は、発達心理学に造詣が非常に深く、同時にダイナミックシステム理論にも造詣が深い。 特に、コックス教授は、以前紹介したように、非線形ダイナミクスに関する数学的な理論や技法に精通している。今日のレクチャーは、

725. 科学論文の創出方法について

フローニンゲンの街も二月に入ってからしばらく経った。先週は比較的暖かい日が続いていたが、今週は再び最高気温がマイナスとなる日々が続いている。 今日は、最高気温がマイナス1度なのだが、体感はマイナス10度ぐらいに感じられるという予報が出ている。十倍に寒さが強化されているのはなぜなのか気になるところだが、粉雪が散らつく様子を書斎の窓から見る限り、確かに外は非常に寒そうだ。だが、それでも今日は昼食前にランニングに出かけようと思う。 早朝から諸々の学術論文に目を通していると、ふと、自分の関心事項が泉のように次から次へと湧き上がってくることに気づく。文献に目を通すときの私の思考は、良かれ悪しかれ拡散しており、先ほどの関心事項は「創造性」「組織のイノベーション」「重層(重ね合わせ:superposition)」などであった。 それらの関心は、分離した形で自分の中で湧き上がってくるのだが、それらの一見関係のないように思える概念群は、何らかの一つの形を作ろうとするような意図(もしくは「動き」)を持っているように思える。 「発達」という現象を中心軸に据えて探究活動を続けていると、知らず知らず、探究の幅が広がっており、様々な概念に自ずと触れることにならざるをえない。しかし、結局のところ、そうした概念を全て同時に深めていくことはできず、一つ一つじっくりと自分の内側の進行に合わせて深めていくしか方法はない。 より厳密には、ある概念について少し考えると、別の概念に関心が飛び火し、そこで少しばかり思考を巡らせると再び別の概念に関心が飛び移り、そこから気づかないうちに、また最初の関心事項に戻ってくるというよ

724. 今学期の履修コースについて

今学期は一つほど、公式な形で履修をしているのではなく、ある種の聴講生として履修しているコースがある。それは、以前「タレントディベロップメントと創造性」というコースの中の一つのクラスを担当したニコ・ヴァン・イペレン教授のコースである。 コースのタイトルは「能力とモチベーション」というものであり、私たちが持っている能力の発達とモチベーションの関係を実証研究をもとに考察することを中心に、モチベーションが私たちのパフォーマンスに与える影響などについて理解を深めていくことを目的にしているコースである。 昨日は、午後からそのコースに潜り込んで講義を聴講していた。本来このコースは、産業組織心理学のプログラムで必修のものとなっており、仮に私が九月からそのプログラムに在籍することになれば必然的に履修するものなのだが、今のところ、九月からは実証的教育学のプログラムに進もうと思っているため、今回このクラスを聴講しておこうと思った。 さらに重要な理由としては、知性や能力の発達を考えていく際に、感情的な要素、特にモチベーションの特性を掴む必要があるため、このコースを通じて、そのあたりの理解をより深めていきたいと考えていたのだ。 昨日のクラスは初回ということもあり、オリエンテーションの要素が多分に含まれていたが、知性や能力の発達とモチベーションの関係について考察を深める新たな観点を獲得することができるだろう、という予感がしている。 コース終了後、「創造性と組織のイノベーション」というコースで要求されている課題論文をプリントアウトしようと思い、図書館に立ち寄った。このコースを担当するのは、イペレン教授と同様

723. オランダの博士課程事情と査読付き論文へ向けて

今日は午前中に拙書『なぜ部下とうまくいかないのか:自他変革の発達心理学』に関するインタビューを受けさせていただき、その後、私が所属しているプログラム長のルート・ハータイ博士の研究室に足を運んだ。 ハータイ博士と私は年が一つしか変わらず、友人のような存在でもありメンターのような存在でもあるという関係から、親しみを込めてここでもルートと記しておく。ルートの研究室に足を運んだ理由は、今所属しているプログラムの最初の学期を終えてみて、どのような感想を持ったかに関するインタビューを受けるためであった。 本日二回目のインタビューとなったが、終始一貫してルートとは様々な意見交換をした。正直に評価してみても、私が所属しているプログラムは文句のつけようがないぐらい充実したものだと言える。 教授陣からのサポートも手厚く、自分の研究に関して、私がある分野の専門家を探せば、十中八九その道を専門としている教授が在籍しており、すぐに面会をすることができる。実際にこれまでも、様々な教授陣から研究上の助言をいただいてきた。 本日学内のカフェテリアに立ち寄った際に、分野の異なる何人かの教授たちが和気あいあいとランチテーブルを共にしている光景を目撃した。このように、分野の垣根を越えて、多様な研究者が交流を図っているというのは、とても望ましいことのように思えた。 異なる分野を専門とする人たちとのやり取りは、やはりお互いの研究アイデアを刺激しあうことにつながるであろうし、異なる観点から自分の専門領域を深めていくきっかけにもなると思われる。だが彼らの姿を見ていると、実際のところは、自分の研究に有益だからという理由で他の

722. インタビューを受けて

今朝は五時半に起床し、履修コースの課題論文をいくつか読み進めていた。早朝に読み進めていたのは、人間発達に関する哲学的な論争に関するものである。 古典的な論点であるが、生得主義と経験主義に関する論争において、経験主義の研究者が抱きがちな、生得主義に対するいくつかの誤った批判を、実証研究を例に挙げながら批判する論文である。 いつも論文に向き合うように、それらの批判内容を記憶するような読み方をすることなく、むしろ著者の批判を通して、自分なりの考え方を育むことを意識していた。また、論文中の論点とは全く関係のない閃きを大切にしながら論文を読んでいた。 どのような論文にせよ書籍にせよ、結局のところ、よほどその領域に関する知識がない限り、一読しただけでそれらの文献を理解することは難しいということに改めて気付かされる。そのため、初読のときは、その論文の構成や著者の重要な主張を押さえることを意識するだけであり、あとはその論文を通して自分の中で湧き上がってきた考えを論文に書き込むことを行っている。 二読目や三読目ぐらいにならなければ、細かな論点や著者の論理を精密に追いかけることは、私にとってとても難しい。それゆえに、特に優れた論文に関しては、やはり繰り返し読み込むことが大切となる。こうしたプロセスは、書籍を読むことに関しても全く同じである。 早朝の読書がひと段落ついたところで、昨年出版した『なぜ部下とうまくいかないのか:自他変革の発達心理学』に関するインタビューを受けさせていただいた。普段、自分の研究内容や実務内容を話し言葉で表現する機会がほとんどないので、こうした対話形式の場をいただけることはと

721. 今学期に向けて

昨夜就寝前に、今学期履修する「複雑性科学とタレントディベロップメント」と「創造性と組織のイノベーション」というコースの概要について確認していた。 前者のクラスを通じて、「複雑性と人間発達」に引き続き、ダイナミックシステム理論の観点から人間の発達について考察を深めるとともに、より深く哲学的な観点やこれまで私が学んだことのない他の観点を通じて、人間発達について迫っていきたいと思う。 このコースはどうやら筆記試験のようなものはなく、クラス内で習得した研究手法を用いて、自らが関心のある発達プロセスを分析するレポートが課せられている。どうやらこの最終課題は、一人でレポートを書くのではなく、二人か三人の受講者が共同して執筆する形式らしい。 正直なところ、諸々の理由から、私にとってグループワークというのはあまり好ましい形式ではないのだが、今後共著論文を書くための訓練の一環だとみなしたい。 そして、「創造性と組織のイノベーション」というコースでは、個人の創造性に関する学術的な理論を学び、個人の創造性を組織のイノベーションとして昇華させていくことに関する理論や方法を学ぶことが目的とされている。 こちらは、最終試験として筆記試験があり、なおかつグループプロジェクトがある。こちらのプロジェクトは、何やら、クラス内で学んだ理論を用いながら、フローニンゲン大学のイノベーションを推進する改革案を提出することが目的にされている。 要するに、フローニンゲン大学に対するコンサルテーションのようなものを、実証ベースの科学的な理論を用いて行うことが課せられているのだ。こちらの課題もまたグループワークであり、今学期は

720. 底なしの明るさの中で生きることと研究の進展

今日は三週間ぶりにクネン先生とのミーティングがあった。先週は、クネン先生が休暇を取り、スペイン領の島を家族と訪れていたため、ミーティングがなったのだ。 今朝、先生とのミーティングに向けて自宅を出発した私は、歩いている最中、絶えずこみ上げてくる笑いをこらえることができなかった。というのも、非常に些細なテーマに基づいて知人とテキストメッセージでやり取りをしており、返信のメッセージの草稿を頭の中で考えていると、その内容が自分でも可笑しくなってしまい、笑いをこらえることができなかったのだ。 ここからも、やはり自分の根幹には、底知れぬ陽気さが存在していることがわかった。自分が持っている底知れぬ陽気さについて考えていると、モーツァルトも底なしの明るさを持っていたという話を思い出した。 モーツァルトの人生そのものは、苦難の連続であったという話をよく耳にするが、それでも彼は陽気さを忘れることなく日々を形作っていった、ということも耳にしている。モーツァルトのそばには、絶えず死が存在しており、実際に35歳という若さでこの世を去っている。 モーツァルトに私が惹かれるのはもしかすると、絶えず死の意識の中で、死を超える生の底なしの喜びと明るさを持ちながら、日々の仕事に打ち込んでいた姿勢にあるのかもしれない。私もできることなら、モーツァルトのように、湧き上がる抑えがたい喜びと明るさを持って、疾走の中で生を形作りたい。 飛び上がるような躍動感の中で、一日一日を、一瞬一瞬を生きるためにはどうすればいいのだろうか。そのようなことを考えながら、私はクネン先生が待つ研究室に向かっていた。 先生の研究室に到着すると、

719. ベートーヴェン ピアノソナタ第26番『告別』より

一昨日、ベートーヴェンのピアノソナタ第26番『告別』を聴いていると、感涙が静かに目に滲み始めた。ここしばらく、その日の仕事がひと段落すると、欧米の大学院が提供するMOOCを視聴している。 現在は、米国フィラデルフィアにあるカーティス音楽院が提供するオンラインコースを趣味の一環として受講している。このコースは、ベートーヴェンのピアノソナタに関する理解を深めていくことを趣旨にしたものである。 このコースを通じて、『告別』という曲の構成的な意味を初めて知った。三つの楽章からなるこの曲は、それぞれの楽章に副題が付けられている。 それは順番に、「告別」「不在」「再会」である。実は以前から、この曲を何度も聴いていたのだが、一昨日はいつもとは違う感覚を得たため、その感覚がもたらされた理由について少しばかり思いを馳せていた。 それは一つに、鑑賞者側の態度が重要であるように思う。これまでの私は、仕事の最中にこの曲が生み出す音を浴びていたにすぎない。 しかし、一昨日は、仕事の手を完全に止め、椅子に深く腰掛けながら、この曲と真剣に向き合ってみることにしたのだ。 書斎の窓の外には、完全に日が暮れた闇夜が広がっていた。薄明かりの灯った書斎の中で、そうした外界の闇をぼんやりと眺めながらこの曲にじっくりと耳を傾けていたのである。 すると、感涙を引き起こすような感覚が私に襲いかかってきたのである。芸術全般に言えることかもしれないが、やはり対象と真摯に向き合うという姿勢がなければ、その作品は私たちに何も語りかけてくることはなく、同時に、私たちはその作品から何も汲み取ることができないのではないか、と思わされる出来

718. 論文執筆と日記について

今日は集中的に論文を書き進めた一日だった。英語で科学論文を執筆する愉しみと日本語で書籍を執筆する愉しみは、執筆過程での思考の働かせ方や言葉の紡ぎ出し方等を含めて、両者には色々と違いがある。 どちらも自分の言葉を一つ一つ構築していくことは共通しており、それは一つの建築物を建てているかのようである。だが、前者が精密かつ慎重に言葉を積み重ねていく中で、ようやく一つの小さな建築物が出来上がる感覚を持っているのに対し、後者はより自然な流れの中で、大胆に言葉を積み重ねていくことによって、一つの大きな建築物が出来上がる感覚がするのである。 今日は、研究論文の中でも、数多くの論文を俯瞰的な視点で眺めながら、情報を一段高い次元でまとめ上げるような作業が要求される箇所の執筆を行っていた。要するに、今日の作業は、既存の発達科学の研究が抱える盲点の中でも最重要なものを取り上げ、それに関する数多くの見解を統合することによって、自分の主張を生み出していくようなことを行っていたのである。 それに付随して、論文の中で鍵を握る概念の説明や取り扱う理論の背景を説明する文章を執筆していた。ページ数で言えば、わずか4ページに満たない分量であるが、ほぼ一日中論文と向き合っていたように思う。明日はまた1ページほど論文を書き進めたいと思う。 今朝、起床直後に読み返していた文章は日記について取り上げているものだった。その記事を読み返しながら、日記が持つ意味について再び考え事をしていた。 私にとって日記というのは、日々の出来事を列挙することでは決してない。自分が日記に付与している意味は、日常の些細な出来事を通じた自己展開の過程

717. 収まらぬ余震

昨日からの余震がいまだに続いている。昨日は猛省に次ぐ猛省を強いられるような一日であり、それを契機に内側で生じた連続的な揺れの波がまだ収まりを見せていない。 未だ拭い切れない自己欺瞞の数々を乗り越えることができずにいることを猛省していた。特に、自分の頭を用いて自分で考えること、自分の心を用いて自分で感じること等、自律的な主体であれば意図せずとも行われるべき行為を、今の私は未だにそれを意識しなければ、自分の考えではない考えに囚われ、自分の感覚ではない感覚に囚われる。 それらに囚われてはいけないのだ。それらを超えることができなければ、自分の人生を生きていることにはならないのだと痛感させられる。 自分ではないものに自己を無意識に委ねてしまう時、突如として、生きているというあの確かな情感が色あせていくのである。そのような経験をしたことはないだろうか。 私にとって、自分ではないものとの癒着は、日々の探究生活の中で頻繁に見受けられる。それらは特に、文献を読む際や文章を書く際に顔をのぞかせる。 それらをなんとか振り払い、自分の頭と経験を通じて文献を読み、自分の頭と経験を通じて言葉を紡ぎ出すことを忘れたくはない。自己を通して言葉を読み解き、言葉を紡ぎ出すという一見単純に思えることが、いかに難しいことか。 そこからさらに私は、言葉の用い方についてより修練を重ねていかなければならないと痛感している。言葉の用い方は、思考の用い方と密接に結びついており、それは直ちに経験に作用する形で、自分のあり方にもつながってくるのだ。 自分の言葉・思考・経験・あり方の総体が、自分の内側で構築される体系に他ならないこと

716. 連弾による懐古と教示

人生というのは、やはり偶然性と必然性の数珠から構成されているのだとつくづく思う。 偶然性や必然性に関する問題は、今の私には手に負えるものではなく、偶然だと思っていたものが、それを超えた視点から眺めてみると必然であったり、必然だと思っていたものが、それを超えた視点から眺めてみると偶然であったりする。 「偶然」「必然」という概念が真に意味するものを、言葉の表層的な意味に囚われることなく、経験を通じて捉え直していくことが大切であるように思う。経験を通じて検証を重ね、経験を通じて意味を捉え直していくという試みを、私の中に存在している全ての日本語の語彙に対して少しずつ行っていくことが、今の私にとっての一つの課題である。 そうした試みを課題として認識するのではなく、日々の生活の一部となるまで愚直に継続させていきたいと思う。 以前の日記の中で、今年の四月にオーストリアのザルツブルグの国際学会に参加する話を書き留めていたように思う。また、三日前に、共通の知人を持つ日本人ピアニストの方が、私の上の階に引っ越してきたという偶然についても書き記していたように思う。 さらに大きな偶然として、その方の知人のピアニストが現在、ザルツブルグのモーツァルテウム大学で音楽教育を専攻しており、昨日からフローニンゲンに来られるという話になった。私の日々の生活の中で、音楽は無くてはならないものであり、書斎にいる早朝から晩までの間中、常に音楽が流れている。 特に、仕事の最中は、何かしらのピアノ曲を絶えず流すようにしているのだ。そうしたことからも、ピアニストの方にあれこれと質問をしてみたいことが無数にあり、今回の偶然性は

715. 新たな場所へ

ここ最近、様々な偶然に見舞われることが多く、今から三日前にも大きな偶然に見舞われた。ちょうど三日前の早朝に、上の階の住人であるスウェーデン人のアクセルが母国に帰国するため、彼が自宅を出発をする音が聞こえた。 アクセルがいなくなってから、少しばかりの時間、次に上の階に住むのはどのような人なのだろうかという関心が、私の頭の中を幾分占めていた。 その日の午後、誰かが螺旋階段を登り、上の階の部屋に入っていく音が聞こえたので、新しい居住者が早速引っ越してきたのだとわかった。その時には手が離せない仕事に取り掛かっており、すぐに挨拶に行くことができなかった。 仕事がひと段落ついたところで、上の階に引っ越してきた新しい居住者に挨拶に行くことにした。上の階に続く階段を上っていると、何やら日本語が聞こえてきた。 私の上の階に引っ越してきたのは、京都大学から来ている日本人留学生の知人を介して話に聞いていた、日本人ピアニストの方だったのだ。この偶然にはとても驚いた。ちょうど共通の知人も引っ越しの手伝いに来ており、三人でしばらく雑談をしていた。 お互いに共通の知人を持っていることもあり、さらに、その知人から色々と話を聞いていたこともあったため、その方とは初対面であったにもかかわらず、あまりそのような気はしなかった。昨日は、その方がフローニンゲンに来る前に留学していたフランス時代の話やピアニストに関する全般的な話を教えてもらった。 これまで私にはピアニストの知り合いがいなかったため、その方の話は非常に斬新なものに映った。同時に、現在の私の専門分野である知識発達科学の観点からすると、その方の話は思わず唸って

714. フローニンゲン大学へのコンサルティングサービス

昨日に今学期の最終試験を終えたばかりなのだが、今日も早朝から、普段と全く変わらない生活リズムで仕事に取り組んでいた。 昨日の最終試験であった「複雑性と人間発達」というコースでは、必読文献以外に、担当講師のラルフ・コックス教授から15本程度の参考論文を紹介してもらい、さらに、最後のクラスで短いレクチャーをしてくれた博士課程のバートからも幾つかの論文を紹介してもらっていた。 それらの論文は全て、以前に一読していたのであるが、一読しただけでは消化不良な箇所が多くあるため、試験が終わってから再度じっくりと読みたいと思っていた。そのため、今朝はそれらの論文に目を通すことを行っていたのだ。 数年前から少しずつダイナミックシステムアプローチに関する学習を進め、今回のコースを履修することによって、幸いにもダイナミックシステムアプローチの言語体系が徐々に自分の内側に馴染み始めたことを実感している。複雑性科学の様々な概念や理論の意味がより深い階層で掴めるようになり、自分が何かの事象を見た際に、それらの概念や理論を組み合わせながら新しい意味を作ることができつつあるように思う。 ただし、今回のコースで本格的に触れることになった非線形ダイナミクスの研究手法については、理解がまだまだ足りていないと実感している。非線形ダイナミクスで登場する数々の手法を理解する前に、その手法を構成する数学的な発想や背景知識についてより理解を深めなければならない。 午前中に読んでいた論文は、まさにそうした私の課題意識と合致するものであり、今朝の文献調査を通じて、また新しい観点を獲得することができた。おそらく、研究者として今後活

713. 来学期に向けて

昨日、「複雑性と人間発達」のコースの最終試験を終え、ザーニクキャンパスを後にし、試験問題についてあれこれ振り返りを行いながら歩いていた。特に、解答が思うようにいかなかった問題について考えを巡らせていた。 それらの問題については、後日改めて自分の知識を確認しておく必要があるだろう。試験会場から自宅に帰るのではなく、社会科学のキャンパスに立ち寄り、来週から始まる来学期の課題論文をプリントアウトしに行くことにした。 一応、明日までが試験週間であるため、キャンパスの図書館には勉強している学生が何人か残っていた。だが、ピーク時に比べれば、その人数はとても少ない印象を私に与えた。 来学期は、二つのコースを履修し、一つのコースを聴講する予定である。履修するコースは、「複雑性科学とタレントディベロップメント」と「創造性と組織のイノベーション」の二つである。 前者は発達心理学のコースであり、後者は産業組織心理学のコースである。社会科学のキャンパスに立ち寄ったのは、「複雑性科学とタレントディベロップメント」というコースの課題論文をプリントアウトするためである。 このコースは、今学期に履修していた「複雑性と人間発達」のコースと同様に、ダイナミックシステムアプローチの観点を中心に据えて、人間の発達に関する理解を深めていくものである。このコースを担当するのはマライン・ヴァン・ダイク教授と、前回のコースでも御世話になったラルフ・コックス教授である。 ヴァン・ダイク教授は、以前どこかで紹介したように、ダイナミックシステムアプローチを子供の発達に適用した研究をしていることで有名である。そのため、今回のコースで

712. 久々の手書き試験

今日は昼食後、「複雑性と人間発達」のコースの最終試験を受けるために自宅を出発した。今日は随分と気温が高く、二月初旬にもかかわらず、最高気温が10度を超えていた。 これまで気温の低い日が続いていたので、このように暖かい日が一日あるだけでも、なんだか心が温まる気がした。そのようなことを思いながら、試験会場のザーニクキャンパスに向けて歩き始めた。 試験会場に早めに到着したので、教室番号を電光掲示板で確認し、その後は外のベンチに座りながら試験内容の最終確認をしていた。最終確認にちょうど目処がたったところでキャンパスにもう一度入り、しばらくすると、試験会場の教室の扉が開いた。 扉が開くのと同時に教室に入った時、少しばかり異変を感じた。というのも、前回の「タレントディベロップメントと創造性の発達」の最終試験の時とは異なり、試験会場に一台もコンピューターが設置されていなかったからである。 ちょうど、友人であるエスターが近くを通りかかるのが見えたため、話しかけてみると、今回の試験はコンピューターベースではなく、筆記なのだそうだ。それを聞いた時に初めて、今回の試験が手書きで回答する形式だということを知った。 コンピューターであろうと手書きであろうと、自分の中ではそれほど大きな問題ではなかったのだが、文字の出力のしやすさでは、やはりコンピューターの方に軍配が上がるので、コンピューターの方が有り難かったというのが正直な気持ちである。 そのような気持ちを抱えながら、私は指定された自分の席に着いた。席に着くと、試験問題の表紙に、「回答は英語でもオランダ語でもどちらでも良い」ということが記載されていた。

711. 眼と意識の発達からの無境界

ここ最近、新しく一つ、とても小さな楽しみができた。私は毎朝、起床直後にその日分のヨギティーを作っている。 そのヨギティーのティーバッグに付いているタグの言葉を、これまでは何気なく読んでいた。何かにはハッとさせられるような言葉もあれば、時にはあまり響かない言葉もある。 ここ最近の楽しみとは、ハッとさせられるような言葉が記されたタグを取り外し、それをノートに貼り付けながら収集するというものである。オランダに来てから、二つの製造元のヨギティーを購入しているが、片方はタグの言葉が英語で記載されており、もう片方はドイツ語——なぜだかオランダ語ではない——と英語で掲載されている。 今日は後者の方のお茶を選び、タグに記載されている言葉を見たとき、少しばかりハッとさせられるようなものがあった。私はドイツ語をほとんど解さないため、タグに記載されている英文にハッとさせられるものがあったのである。 そこに書かれていた英文を直訳すると、「私たちの眼を持ち上げると、そこには境界がない」という意味になるだろう。字面を追うだけでは、この言葉が真に意味することを掴むのは容易ではなかった。 ティーバッグの入った容器にお湯を注ぎながら、しばらくこの言葉の意味について考えていた。 自分の専門知識というのは、良かれ悪しかれ自分の認識世界を強固に形作ってしまうものであり、私は意識の発達理論の観点から、この英文の意味を無意識的に汲み取ろうとしていた。 すると、ここで表現されている眼というのは肉体の眼だけを指すのではなく、心の眼、魂の眼(観想の眼)を含めた、世界認識を規定する媒体物のことを指しているのでないかと思ったのだ。

710. 言語の深化

今朝方、いつものようにオランダ語の学習を行っていると、また少しばかり小さな壁を破ったような感覚があった。 私の中で、オランダ語の語彙を積極的に増やそうという意識はそれほどないため、獲得した語彙に関しては未だにそれほど多くないが、オランダ語の音に徐々に慣れ始めていることに気づいたのだ。 このようにオランダ語の音への慣れを生み出したのは、毎朝、オランダ語のリスニングとシャドーイングを続けてきたおかげかもしれない。最も入門的なテキストを何度も繰り返しているうちに、ごくわずかずつ聞き取れる音が増え、理解できる内容が増加しているのを感じる。 実際に、昨日も歯医者に行ったのだが、そこで受付の人と患者がオランダ語でやり取りをしている内容の趣旨がだいたいわかったのである。ここから少し考えていたのは、「オランダ語を理解する」ということに関して、ある言語を理解するというのは、どうやら語彙や音の問題だけではない気がしたのだ。 というのも、そもそも言語とは常に文化に埋め込まれたものであり、文化的な理解がなければ、真にその言語を理解することは難しい。実際にオランダで生活をすることを通じて、知らず知らず、自分の中にオランダの文化が流入していたようなのだ。 オランダ文化が私の内面世界へ流入することによって、オランダ語の理解が進行しているのではないかと思ったのだ。ここから言えるのは、やはりある特定の言語を理解するというのは、語彙や音を学習していてもほとんど意味はない、ということだろう。 つまり、ある特定の言語を理解する際に鍵を握るのは、その言語が立脚する文化の奥に徐々に入り込んでいくことであり、語彙と音を文化

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