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665. オランダの歯医者

今日は朝一番から、第二弾の書籍の加筆修正を行っていた。幸いにも、集中した意識の中、この作業に取り組むことができたように思う。 以前言及したように、文章を寝かせることはとても大切なことだと思った。文章を寝かせてみて、再度自分が書いた文章に目を向けると、論理展開の不備という表面上の問題のみならず、言葉の密度のばらつきという、私にとってより大事な問題に気づくことができる。 今日は朝から、言葉の密度が弱いところを補強するように、新しい言葉を付加させていくことを行っていた。この作業は、昼食後をもってして、とりあえず無事に完成したと言える。 図表の作成も終わっているので、これから取り組みたいことは、三種類の見出しのうち、最小単位である小見出しを自分なりに設定していくことだろう。前回の著作では、中見出しと小見出しを全て編集者の方に付けてもらっていた。しかし、今回は編集者の方から事前に助言を得ていたので、自分なりに小見出しを付けておきたいと思う。 そして今日は、五年間の外国生活の中で初めての経験をした。それは歯医者に行くことである。 振り返ってみると、今から六年前の渡米直前に、当時住んでいた大阪で歯医者に行ったきりになっていた。その時の光景が蘇る。当時、歯のメンテナンスを兼ねて毎年一回は歯医者に行くように、という忠告を担当の歯科医から受けていたことを今になって思い出す。 アメリカに渡ってからは、歯医者に行く余裕があまりなく、そもそも日本人以外の人間に自分の歯を治療してもらうことに対して、当時は幾分抵抗感があった。しかし今回はそのようなことを言っていられない事態に見舞われた。 今から数日前、日本

664. 習慣的・突発的な文章執筆

昨日は、ほぼ一日中、第二弾の書籍の加筆修正を行っていたように思う。もちろん、早朝の早い時間帯に少しばかり学術論文に目を通したり、昼食前にランニングに出かけたりしていたが、基本的には残りの時間を執筆に充てていたように思う。 そのおかげで、随分と中身の体裁が整ったように思う。昨日積み残していた章に対して、今日も加筆修正を行っていきたい。 文章を執筆している最中、そこにはいろいろなリズムがあることに気づく。特に昨日は、自分の精神状態と言葉が生み出されるリズムに着目をしていた。 両者のリズムが合致するとき、私は「書く」という行為と一体になれるのだとわかり始めた。ここでも、シンクロナイゼーションの重要性を知る。つまり、精神状態のリズムと言葉が生み出されるリズムの双方が同調しなければ、書くという行為と一体になることはできないということを知ったのだ。 さらに興味深いのは、二つのリズムが合致するとき、行為との一体化という一段次元の違うリズムが生み出されることだ。シンクロナイゼーションにはもしかすると、何かしらの二つのリズムを同調させることにとどまらず、同調からさらに新たな別種のリズムを生み出す力があるのかもしれない、ということを思った。 書籍の加筆修正を続けていたとき、ある時点でふと、私が毎日書き残している日記の時間帯について思考が飛び移っていた。これまでは、特にどの時間帯に日記を書くということを決めておらず、気の向いたときに筆を走らせていた。 だが、よくよく自分が日記を書く時間帯を思い返してみると、朝と夕方あたりに多いことに気づいた。ここから、日記を書く時間帯をある程度設定し、文章を書く習慣

663. 既踏の道と未踏の道

辺りは一面雪景色のままであるが、今日は今朝から天候に恵まれている。起床直後はいつも闇に包まれているため、朝の九時近くになるまで今日が良い天気なのかを肉眼で確認することはできない。 辺りが少しずつ明るくなってきた頃、今日は天候に恵まれた日であると始めて知る。そうした気づきを得た後、午前中は第二弾の書籍の加筆修正を行っていた。加筆修正を行ってみると、文書を寝かせて正解であったことに改めて気付く。 文書をしばらくの間寝かせることは、私自身の内面をさらに熟成させることと同義であり、内面が少し深まった状態で改めて文章を読み返すと、色々なことに気付く。確かに、それらの多くは、論理的なつながりであったり、言葉の選択であったりと細かな点である。 しかし、それ以上に重要なのは、しばしば一段深掘りされた考えが文章に付加されることがある、ということだ。午前中は文章を読み返しながら、細かな修正を加え、一段深掘りされた考えを文章に付け加えていくということを行っていた。 加筆修正がひと段落ついたところで、ランニングに出かけることを決意した。書斎の窓からストリートの状況を確認してみたところ、歩道は雪で埋もれているが、自転車道は雪が積もっていないことを発見した。 そのため、近くのサイクリングロードを走ることにした。黄金色に優しく輝く冬の太陽を背にし、私は一歩一歩の足取りを確認するかのように走っていた。すると突如、自分はフローニンゲンという街に捕まったのではないか、という感覚に襲われた。 ただし、これはそれほど強い束縛感ではなく、この街にもう少し留まっていたほうがいいという柔らかな感覚であった。具体的には、当初

662. 夢見と覚醒の狭間

今朝は起床直後、夢の中の意識と覚醒後の意識の狭間に少々漂っていたように思う。この意識状態は大変不思議なものであり、思いがけないアイデアが湧き上がってきたり、覚醒中の意識では見ることのできないビジョンが脳内で知覚されることがよくある。 今日も何かしらの思いがけないアイデアが表出していたのであるが、とかくそれらを書き留めておくことなどもしなかったために、それらはどこかに飛び去ってしまった。今この瞬間の内側に感触として残っているのは、ある二つのテーマに対する自分の確信であった。 命題の内容すらも忘れてしまっているのだが、ある二つのテーマについて思考が働いていたのは覚えており、それらのテーマに対して確信を持った回答が湧き上がっていることだけは覚えている。それらが何であったかは、いずれ覚醒意識の中で思い出すであろう。 そして、ビジョンに関しては何の変哲も無いものである。夢見と覚醒の狭間に位置する意識状態の中で、私はよく専門書や論文を読んでいる。今日も、自分の脳内である論文が鮮明に想起され、それを読んでいたのだ。 いずれの体験にせよ、脳と意識が持つ不思議な特性が生み出したものであることに変わりはないだろう。 早朝起きてみて気づいたが、フローニンゲンに戻ってきてから新しい食生活にしたことが功を奏してか、肌の調子がとてもいい。食生活に変更を加えたのは、サラダにかけるオイルを三種類の有機オイルに変えたこととニシンの酢漬けを毎日食べるようにしたことぐらいなのだが、その効果は大きいように思う。 自分の各種の臓器を観察してみると、特に腸の調子がとてもいいことに気づく。この食生活は是非とも継続させていき

⭐️【お知らせ:録画教材】「卓越性研究の最前線!」高度な知性や能力の獲得に関する理論と実践

「発達理論の学び舎」をいつもご覧になっていただきどうもありがとうございます。 2016年11月に開催したオンラインゼミナール「卓越性研究の最前線!」の内容に基づき、私たちの知性や能力が高度化していく理論と実践が学べる教材のご案内です。 本教材は、「私たちの知性や能力はどのようにして卓越の境地に至るのか?」というプロセスとメカニズムについて、発達理論の観点からだけではなく、他の科学領域の観点から学んでいくことを目的にしています。 卓越性に関する実証研究を紹介しながら、人や組織の発達について学びを深めていくことを目指しています。 2016年11月から2016年12月にかけて行われたゼミナールの受講生のご快諾を得て、講義部分が本教材のコンテンツになっております。 年始のお時間のあるときに、人や組織の成長に関する理解を深めるために本教材をご活用いただけると幸いです! ✔︎教材はこちらより ✔︎初回のレクチャーPPT 【教材説明】 下記の動画(合計約1447分)と学習用資料(レクチャーPPT176枚)が教材に含まれます。 【講義動画】 1.第一回:卓越性研究の歴史と最新動向その1:約83分 2.第一回:卓越性研究の歴史と最新動向その2:約85分 3.第二回:感情やマインドセットと卓越性の関係その1:約94分 4.第二回:感情やマインドセットと卓越性の関係その2:約88分 5.第三回:スポーツ科学から見る卓越性の獲得プロセスその1:約107分 6.第三回:スポーツ科学から見る卓越性の獲得プロセスその2:約129分 7.第四回:個人の創造性と組織のイノベーションその1:約120分 8.第四回

661. 2017年最初のクネン先生とのミーティング

今日の午前中に行われたクネン先生とのミーティングは、新年早々のものであるにもかかわらず、とても密度が濃く、今後の研究を大きく推進させてくれるものであった。 支度に要する時間がいつもよりかかってしまい、先生の研究室に向かう最中に通るノーダープラントソン公園を少しばかり小走りしていた。雪道と化した公園を抜け、社会科学のキャンパスに到着し、無事に定刻通りに先生の研究室のドアを叩いた。 先生の研究室に入り、挨拶を交わすと、まずはお互いの年末年始の話となった。私はもちろん日本に一時帰国した話をし、先生はフローニンゲンの北部に位置する島に訪れた話をしてくれた。 その後、先生に日本茶の手土産を渡し、早速私の研究に関する話を行った。実際に修士論文を提出するのは、五ヶ月後のことなのだが、先生の助言と私の意向もあり、昨年の終わりから少しずつ論文を執筆し始めていた。 具体的には、論文の構成を練り、特にイントロダクションと研究手法に関するセクションを書き始めていたのである。まさに今日添削をしていただいたのは、イントロダクションと研究手法の前半部分である。 論文提案書を執筆する段階から、この提案書に記載する内容を論文のイントロダクションに活用しようという算段であったため、イントロダクションに関しては添削される箇所が何もなかった。また、研究手法の前半部分に関しても、先生から修正されるような箇所はほとんどなかった。 そのため、これから執筆していく予定の箇所について先生に助言を求めた。具体的には、イントロダクションから研究手法のセクションへの橋渡しとなる箇所である。 今のところの構成案では、イントロダクション

660. 自然からの恩恵と精神の鍛錬

辺りが一面雪景色に変化を遂げたが、変わらずに毎日を過ごしている。今日は、新年最初のクネン先生とのミーティングがあった。 先生とのミーティングは、月曜日の昼食前の11時から行われることが定番となっている。10時過ぎまで自分の仕事を進め、そこから支度をして自宅を出発した。 いざ白銀世界に一歩を踏み出してみると、実に新鮮かつ神妙な気持ちに包まれた。自宅の玄関側は、日中の時間帯にはちょうど日が当たらないため、玄関側の道路には雪が多く残っている。 溶けずに残った雪を踏みしめながら、私は先生の研究室に向かった。私の自宅の近くには、幾つかの運河がある。そのうち、流れの緩やかな小さな運河が凍っていたことに気づいた。 以前、クネン先生から話を聞いていたように、フローニンゲンの真冬には、運河が凍り、その上でアイススケートができるとのことであった。先生の話の通りのことが目の前に起こっており、確かにこの状態であれば、運河の上をアイススケートができると思った。 なぜだか、そのことに対して少し滑稽に思い、思わず笑みがこみ上げてきた。同時に、一面が雪景色に変貌しているにもかかわらず、それほど寒さが厳しいものではないと感じるようになっていた。 確かに、気温はマイナスなのだが、不思議なことに寒さをそれほど感じないのだ。当然ながら、防寒対策をして外出をしているという表面的な理由もあるだろうが、それ以外に重要な理由がある気がしている。 先生の研究室に向かう道中、その理由について考えていた。白銀世界の中において、朝の太陽光の有り難さが身にしみてくる。そして、優しい冬の太陽光が一面真っ白な雪景色の中でどれほどの美しさを

659. 睡眠の質とこれから

フローニンゲンに戻ってきてから、就寝に向かう準備を始める時間を30分ほど早くすることにした。実際に、夜の九時半あたりから就寝に向かう準備をし始め、10時を迎える頃には完全に就寝した状態にしておくと、朝の目覚めが非常に良いことに気づく。 私はこれまでも非常に早寝であり、十時から就寝に向かう準備をし始めるのが常であったが、たった30分さらに時間を早めるだけで、随分と睡眠の質に差があることに驚いている。脳と身体の回復と、その日に獲得した情報の整理に対して、夜の九時半に就寝することは、自分にとってとても良い効果をもたらしてるように思う。 夜の十時から深夜の二時にかけて、その時間帯が睡眠の「ゴールデンタイム」と呼ばれている理由が体感的にわかる気がする。この習慣を是非とも継続させていきたい。 今朝すっきりとした目覚めと共に、書斎の窓から景色を眺めた。真っ暗闇の中に雪が降り積もっているのがわかる。まさに、白と黒のコントラストで織り成された世界が目の前に広がっていたのだ。 このコントラストは非常に明瞭であり、白黒がはっきりしている目の前の世界と、白黒がはっきりしない現実世界とを対比させている自分がいた。 今日は午前八時を過ぎたあたりに夜が明けた。いつもより幾分早い時間に太陽が昇り始めたことが不思議であった。 早朝の仕事がひと段落したところで再び空を眺めると、空の一部が薄桃色になっていることに気づいた。その色はとても優しく、幻想的であったため、一目散に窓に駆け寄ってじっくりと眺めた。 幻想的な空模様の下には、非常に張り詰めた冬らしい空気が漂っている。ピンと張りつめた糸のように、とても緊張感のある

658. きらめく星と五十代の頃

living(生きること)とlearning(学ぶこと)に何か違いがあるのだろうか?と最近思う。どちらも英語の頭文字が ”L”で始まっていることがとても気になっている。 単なる偶然だろうが、そこには偶然を超えた何かがあるような気がしている。生きることと学ぶことを切り分けることは、今の私にはできようもない。 生きることは学ぶことであり、学ぶことは生きることであるように思えて仕方ないのだ。私が学ぶ実感を得る時、それは強烈なまでの生きる実感につながっている。そこからも、学ぶことと生きることは、私の中で一本の切れない線を成していると言える。 現在私は、人間の発達を複雑性科学のダイナミックシステムアプローチの観点から探究している。この探究アプローチはとても科学的なものである。一方、人間の発達に関して哲学的な観点から探究することも並行して行なっている。 現在所属している環境の都合上、どうしても科学的な論文や専門書を読むことが多いが、時間を見つけて哲学関連の論文や専門書にも目を通すようにしている。つまり現在は、科学的な探究に傾斜する自分がいる一方で、その傾斜が極端にならないように、哲学的な探究を補佐としている自分がいるのだ。 夕食をとりながら、食卓の窓から夜空を眺めると、そこにはひときわ強い光を放つ星がきらめいていた。その星の輝きを見た瞬間、自分はいつか、科学そのものを哲学的に探究するような試みに着手し始めることを知った。 そして、それは五十代になってからのことであり、欧米のどこかの大学院で、「科学哲学」を探究しているのだと知った。その背後に根拠のようなものは全くなく、これは突然の啓示であり

657. ザルツブルグと人生の舵

今日は正午過ぎに、突発的に大きな粒のあられが降った。窓に激しく打ち付けられるあられを見ながら、ザルツブルグで春に開かれる国際会議に思いを寄せていた。 今目の当たりにしている冬の景色の影響だろうか、春のザルツブルグはどのようなものなのかを想像しただけで、心踊る気持ちにならざるをえなかった。以前の日記で言及したように、今回の国際会議の参加には、様々な偶然が重なっていた。 そうした偶然に偶然を重ねた産物が、今回のザルツブルグ行きだったのである。この国際会議は、四月の六日から八日にかけて開催されるのであるが、ここでも偶然ながら、その前後の私のスケジュールがぽっかりと空いていたのだ。 そのおかげで、ザルツブルグに行く前に、音楽の都であるウィーンに立ち寄ろうと思う。ウィーンに数日滞在し、主要な博物館や美術館を巡り、ウィーンの街がどのようなものなのかをこの目で確認しておきたいと思う。 当然ながら、ここで述べているのは、肉体の眼でウィーンを見てくるということのみならず、心の眼や観想の眼を用いてウィーンを見てくるという意味である。表層や外形に囚われることなく、その背後に広がる世界を感じてきたいと思うのだ。 調べてみると、列車を用いてウィーンやザルツブルグに行こうとすると、フローニンゲンからだと15時間ぐらいかかってしまう。さすがに今回は列車の旅を断念し、飛行機を用いてオーストリアに向かうことにした。 非常に良心的な価格の航空チケットが購入できることが判明し、それはアムステルダム国際空港からではなく、ロッテルダムの空港からウィーンに向かうものである。計画としては、ウィーンで数日過ごした後に、列車で

656. ザルツブルグでの第七回「国際非線形科学会議」へ向けて

今日もまた大きな 偶然に見舞われた。午前中の仕事の手を休め、本日まだ一度も開いていなかったメールを確認すると、一通のメールが届いていた。 それは、この春にザルツブルグで開催予定の第七回「国際非線形科学会議」の案内であった。フローニンゲン大学で今学期に履修中の「複雑性と人間発達」というコースの中で、非線形ダイナミクスの研究手法を幾つか学び、それらの応用方法に目を開かれるものがあったため、ここのところ非線形ダイナミクスの論文や専門書に目を通すことが多かった。 非常に力を入れて探究をしていた分野だけに、今回の案内はとても嬉しい知らせであった。私が今回の国際会議に引き寄せられたのかもしれないし、今回の会議が私に引き寄せられたのかもしれないと解釈した。 いずれにせよ、何かの分野と真摯に向き合い続けていれば、必ずどこかで新たな扉を開く機会に出会うことができるのだと思った。 今回の会議の案内が届いた時、直感的にこの会議に自分は参加する必要があると思った。これまでの人生において、幾つかの重要な決断を迫られることがあったが、それらの重要性が高ければ高いほど、そしてそれらが自分の想いに合致したものであればあるほど、決断に迷いが生じるようなことはほとんどなかった。 これは、人生の意思決定における面白い点である。私がこれまで迫れてきた決断の種類はさほど多くなく、代表的なものは、単に新たな環境に飛び込むのか否かの意思決定である。 新しい環境に飛び込むことに迷いが生じるようでは、その環境はさほど自分にとって重要ではなく、ましてや自己の成熟につながるようなものなのでもないと思う。成人になると、確かに経済

655. 秋からの進路について

今日は午前中の仕事を済ませ、昼食後に買い物を兼ねて近所を散歩しに出かけた。午前中はあいにくの雪模様であり、午後からの晴れ間を見計らって外出をした。 正味10分ほど晴れ間に恵まれたが、途中から粉雪が舞い始めた。折り畳み傘を広げると、粉雪が傘と触れ合う音が静かに聞こえ始めた。 その音を聞きながら、欧州での生活を始めてのこの六ヶ月の時間の経過の早さに改めて驚かされた。毎日が過ぎ去る速度が驚くほどに早いのだ。 それでいて自分の内側の流れは、非常に緩やかに流れているのがわかる。外側の時間の流れと内側の時間の流れが歩調を異にしているということが、最近とりわけ強く意識される。 散歩に出かける前に、今年の夏にプログラムが終了した後のことについて少しばかり考えていた。具体的には、フローニンゲン大学で探究を深める分野を明確にし、どのプログラムに在籍するのかを決めようとしていたのだ。 現在のプログラム終了後、もう一年フローニンゲン大学に残ることになれば、欧米で取得する三つ目の修士号となる。修士号を収集しているわけでは決してなく、適切な時期が来れば欧米のどこかの大学院の博士課程に進学しようと思っているのだが、今はまだその時期ではない。 自分の仕事を進めながら、自身の関心に沿って探究を進めているうちに、結果として三つ目の修士号取得に向かいつつあると言うだけの話である。散歩前に自宅で情報を精査していたのは、三つ目の修士プログラムを何にするかということであった。 実はフローニンゲン大学に入学する前から、フローニンゲン大学では少なくとも二つの修士号を取得しようと考えていた。現在は、もっぱら人間の発達に関して、

654. 研究の新たな方向性とやるべきこと

昨日は、午前中と夕方が同質の闇と静けさを持っていた。二つの鬱蒼とした雰囲気に挟まれていたのが、昨日のフローニンゲンの街であったと言っていいだろう。 ただし、昼前から午後にかけては太陽が差し込んでいた。そのため、私は気分転換に近くのサイクリングロードにランニングに出かけていた。 ランニングから戻り、午後の仕事をひと段落したところで浴槽に浸かった。すると突然、自分の研究に関して新しい考えが閃いた。それは一週間ほど前に、名古屋から静岡を通過しているあたりの新幹線の中でふと考えていたシンクロナイゼーションという現象に関するものである。 浴槽の中で閃いたのは、どうやら教師と学習者が教室空間で見せる振る舞いには何かしらのシンクロナイゼーションが起こっているのではないか、というものであった。シンクロナイゼーションという現象を分析する非線形ダイナミクスの手法を、偶然にも先日のクラスで学習していたため、簡便的に研究データに対してその手法を適用してみた。 このデータは、教師と学習者の振る舞いを7×8のマトリクスに分類したものであるが、それらの振る舞いを再度時系列データに変換して分析手法を適用してみたのだ。するとやはり、教師と学習者間にはシンクロナイゼーションらしき現象が起こっていることがわかった。 そこからさらに個別の学習者に着目し、教師とのシンクロナイゼーションの度合いについて分析を行い、シンクロナイゼーションの度合いの高い学習者の特徴は何であり、逆に、シンクロナイゼーションの度合いが低い学習者の特徴は何かを突き止めたいと思った。 具体的には、カート・フィッシャーのスキルレベルで分析した学習の成

653. 基意志と離意志

今日は、朝から激しいみぞれが地面に打ち付けていた。そして、ある時を境にして、みぞれから雪に変わり、書斎から見える景色が瞬く間に白銀世界に変貌した。 一向に止むことのない雪により、白銀世界がより一層白味を増していく。今の時刻は朝の九時半にもかかわらず、辺りは夜に向かう雰囲気を醸し出している。これが北欧に近いオランダの冬の姿なのだろう。 外の雪景色を眺めながら、ふと昨夜の夢の内容が思い出された。その夢の核をなす伝言は、「できるだけゆっくりと自分の内側に知識と経験の広いネットワークと高い体系を構築せよ」というものであった。 人間の発達に関する研究や実務に携わってしばらくの時間が経ったが、私たちはつくづくゆっくりとしか成長しない生き物なのだと思わされる。成長の瞬間は確かに突発的である。しかし、そうした突発的な成長に至るためには、長大な時間を重ねる中で多くのことを積み重ねていくことが何よりも重要なのである。 束の間の超越体験や刹那的な変容体験を求めてはならない。それらの体験は、瞬間的な高揚感をもたらし得るが、永続性はなく、それらが真の自己変容につながることはほとんどない。 ダイナミックシステム理論に真剣に取り組むことによって、成長や発達の要諦は、つくづく日々の規律さと勤勉さにあるような気がしている。私たちの知性や能力は、動的なシステムと見立てることが可能であり、そうしたシステムが発達するためには、目には見えないところで確かに進行している変化の積み重ねが何よりも大事なのだ。 日々の一つの行動や学習は、それ自体は何の変哲も無いものかもしれない。しかしながら、それらを積み重ねていく過程の中で、

652. 孤独感と連帯感

昨日、フローニンゲン大学の社会科学キャンパスから自宅に帰るため、ノーダープラントソン公園の中を通った。これはいつもの通学路である。 公園の中心部にある池に差し掛かった時、大量の鳥が群遊していた。どうやら、池の近くにいる通行人が鳥たちに餌をあげているようである。 鳥たちの鳴き声は威勢が良く、多くの白い鳥たちがノーダープラントソン公園の空を舞う姿は、少しばかり壮観ですらあった。ところが、私の関心を引いたのは、それらの鳥の群れではない。 池の端っこに、一羽の鳥がたたずんでいるのを見つけた。その鳥は、仲間の鳥たちの姿を静かに見つめている。その姿はまるで、保護者のようであり、その達観した様子が幾分滑稽であった。 実際に、私はその鳥を見て思わず微笑んでいた。その微笑みは、その小鳥の達観した姿からもたらされたものであり、同時に、その鳥に対する共感の念からもたらされたものでもある。 池から公園の外に向かって伸びる一本の小道を歩きながら、決して群れることのないその鳥の中に、孤独の真髄を見たような気がした。孤独という現象については、随分と前に何かを書き残していたように思う。 その鳥から考えさせられたのは、真の孤独さを自己の内側に見いだすことの困難さと大切さである。真の孤独さとは、徹頭徹尾、自分が何者にも代えがたい個として存在していることの自覚だと言い換えていいかもしれない。 この自覚を持つことがいかに難しいことか。そして、その自覚がいかに私たちの内面の成熟を促すことか。私たちが真に自己の孤独さに目覚める時、そこで初めて自分が孤独ではないということを知る。これは逆説的に響くかもしれない。 だがそれは

651. 構造的カップリングとシンクロナイゼーション

第六回目の「複雑性と人間発達」のクラスが終わり、私は図書館に向かった。図書館で幾つかの論文をプリントアウトし、そのままその場でそれらの論文に目を通していた。 年代としては少し古いが、 “Science and complexity (1948)”という論文を読みながら、考えさせられることがあった。私は現在、科学者という立ち位置と実務家という立ち位置を取りながら日々の探究と仕事を進めている。 それは多分に、元々経営コンサルティングに携わっていたというこれまでの自分のキャリアから影響を受けているだろう。それ以上に重要なのは、それらの両方の立ち位置を取ろうとする自分の内側の想いかもしれない。 論文を読みながら、科学的な研究というのは記述的なアプローチで世界に関与し、実務家としての仕事は規範的なアプローチで世界に関与することなのだ、ということを改めて思った。私はどちらかに偏るのではなく、その両者に携わっていきたいという想いがどうしてもある。 どちらのアプローチも固有の観点と方法で世界に関与していく道に他ならず、その一方の道を辿ることに対して、私は強い違和感を覚えているのだ。二つの道を同時に辿り、両者の道を開拓していくことにどれだけの困難がつきまとったとしても、私は二つの道を通じた世界への関与を行っていきたいと強く思う。 そのようなことをこの論文を読みながら考えていた。論文から目を離し、時計が示す時刻を確認すると、年末に私が行ったのと同様に、同じプログラムの他の学生が研究の中間発表をする時間が近づいていた。そのため、図書館をあとにし、発表会場に向かった。 今回の発表を担当したのは、六人の

650. 「それ」の正体と涙について

きっとあるに違いない。そのようなことを確信させる出来事であった。前々から気づいていたのであるが、毎日書き留めている日記は日々の雑感に他ならないにもかかわらず、理由の定かではない涙が込み上げてくるような文章があるのだ。 その涙は、昨年日本でブームになった『君の名は。』の中で、主人公が流す涙と性質を同じにしているかのようである。自己を超越した存在に私たちが触れる時、自己は大いに揺さぶられ、その振動が私たちの奥深くから涙を湧き上がらせているのではないか、と思わずにはいられない。 自己を超越した存在は、自分とは異質の存在である場合もあるだろうし、今の自分を超越した大いなる自己の場合もあるだろう。いずれにせよ、私たちが自分自身を遥かに凌駕した存在と内面世界で出会う時、理由が確かではない涙が自然と流れてくるのではないだろうか。 先日、日本に一時帰国している最中、日本橋を歩いている時に、込み上げてくるものがあった。また、隅田川をかける橋を渡っている時にも得体の知れない込み上げてくるものがあったのだ。これらの現象に共通していることは、疑いようもなく、自己を超えた存在との邂逅であった。 振り返ると六年前に母国を離れて以来、私は頻繁に内側から込み上げてくるものを知覚するようになっていた。実際に、人目をはばからず涙を流すこともあり、同時に、一人で涙を流していることが頻繁にあった。 それは予期せぬ涙であり、きっかけはいつも些細なものなのだ。何気なく道を歩いている時であったり、人との何気ない会話の最中に、「それ」は突然やってくる。 もしかすると、自己を超越した存在は、自己を超越しているがゆえに、自己のす

649. 内側の炎の強まり

この日は、「複雑性と人間発達」というコースの最後のクラスに参加した。教室に到着してすぐに、このクラスの様々な受講者と挨拶を交わした。 話題は極めて単純であり、お互いがどのように冬休みを過ごしたか、というものである。このクラスをいつも私は、博士課程に在籍するドイツ人のヤニックと心理学科に在籍するピーター・デヨング教授と隣り合わせの席で受講している。 いつもは私が二人の間に座る形だが、今日はデヨング教授の横の右端の席に座った。以前紹介したように、このコースは修士課程の者だけではなく、博士課程に在籍している者や、ダイナミックシステムアプローチに関心のある教授たちが受講している。 そうした教授たちの一人に、デヨング教授がいる。デヨング教授は非常に気さくな方であり、雑談にいつも花が咲く。私が日本に一時帰国した話をすると、デヨング教授はまだ日本に行ったことがないらしく、いつか自分を日本へ招待してくれと冗談交じりに述べていた。 いつになるのかわからないが、もし私がいつか日本の大学に籍を置くことになった時には、デヨング教授をはじめ、フローニンゲン大学に在籍する優秀な教授や研究者を招待したいと思う。そのような日が来ることを、今からとても楽しみにしている。 今日のクラスが終了したところで、図書館の中で少しばかり振り返りを行っていた。今日のクラスの振り返りというよりも、このコース全体を通じて得られた学びに対する振り返りと、最終試験に向けて自分がしなければならないことを明確にしていたのだ。 特に、最終試験に向けて自分が取り組まなければならないのは、このコースで取り上げた全ての研究手法について内容を整理

648. 非線形ダイナミクスの興味深い研究手法

いよいよ今日から2017年の学期が始まった。今日はフローニンゲンに戻ってきて初めてのクラスがあった。具体的には、「複雑性と人間発達」というコースの第六回目のクラスである。 早いもので、全七回のクラスのうち、今日のクラスを除けば残すところあと一回のクラスとなる。自宅を出発し、講義が行われる社会科学のキャンパスまで歩いている最中、常に私は意気揚々としていた。 おそらくこれは、新年を迎え、気持ちが新たなものになっていたからかもしれない。また、日本に一時帰国した際に、色々と思うことや掴んだことがあったためかもしれない。 いずれにせよ、自分の探究と仕事に専念できる素晴らしい環境の中に再び戻って来れたことが、何にも増して嬉しかったのだ。このような内側からほとばしる歓びを噛み締めながら、ノーダープラントソン公園を横切り、キャンパスに着いた。 本来であれば、今日は「リサンプリング」という手法を習う予定であったが、コースの内容が入れ替わり、三人の博士課程の者たちの研究発表を聞いた。その中でも、ダイナミックシステムアプローチを発達研究に本格的に導入したポール・ヴァン・ギアートをアドバイザーに持つ一人の博士課程の研究者の発表が印象に残っている。 彼女の研究は、子供たちのジェスチャーと発話の発達レベルの関係性を調査するものである。彼女は、カート・フィッシャーのスキル尺度をもとに、ジェスチャーと発話のレベルを評価し、それらのミスマッチやシンクロナイゼーションが起こる要因を特定しようとしていた。 私もフィッシャーのスキル尺度を用いる研究をしているということや、シンクロナイゼーションという現象に着目をしてい

647. 連想的な思考

昨日から本格的に探究活動と仕事が再開された。日本に一時帰国する前と比べて、活動内容自体に変わることは何もない。ただし、活動への向き合い方と進め方に変化が見られるのは確かである。 これまで以上に平穏な心の状態の中で活動と向き合い、大きな全体を見通しながら活動が進められているという違いがある。印象的だったのは、学術論文や専門書籍の中で記述されている言葉の捉え方である。 当然ながら文献の細部を理解するために、焦点を狭めることがあるのだが、焦点を狭めたとしても常に全体が自分の内側に流れ込んでくる感覚があるのだ。つまり、部分に着目しながらも全体が把握できているという感覚だ。 そこからさらに、一つの文献が生み出す言語世界や情報世界を一飲みにしているような感覚も自分の中で生じている。このように、部分に焦点を当てながらも、それらの部分が寄せ集まったものを超えた形で生み出される全体を把握できているのは、自分の中に新たな眼が獲得されたこととも関係しているだろう。 新たに獲得された眼の真価は、自分の内側の世界をこれまでとは違う次元で把握するためのものだ。しかしながら、今はその真価を発揮するところに至っておらず、外側にある情報世界を見通すことに効力を発揮しつつある。そのようなことを感じている。 昨日の文献調査の中で、「人間は論理的な生き物というよりも、連想的な生き物である」という言葉が依然として頭から離れない。確かに私たちは、論理を司ることができるが、近年のコンピューターの発達に伴い、論理思考に関しては、コンピューターの方に軍配が上がるように思う。 私たちが自分の頭で論理を積み重ねていくことには限界が

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