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580. 発達心理学者アネット・カミロフ=スミスの運命について思うこと

昨日、1970年代後半における構造的発達心理学の状況を理解することのできる論文 “The stage question in cognitive-developmental theory (1978)”を読んでいた。 この論文は、構造的発達心理学に多大な功績を残したジャン・ピアジェの段階モデルに関する著者のチャールズ・ブレイナードの論考に対して、様々な研究者が短いコメントを残す、というような形式になっている。 そもそもこの論文を読もうと思ったきっかけは、現在、ピアジェが残した仕事を再度辿り、私に影響を与えてきた数々の研究者に影響を与えたピアジェの発達思想をより深く理解したいと思ったことにある。 さらには、構造的発達心理学の世界における過去の研究や論争などを把握することによって、自分の専門領域の歴史に対する理解をさらに深めることができると考えたからである。この論文の執筆年代は非常に古いが、コメントを投稿している研究者はそうそうたる面々である。 新ピアジェ派の筆頭格であるジュアン・パスカル・レオンをはじめ、カート・フィッシャー、ジョン・フラベルなどがいる。その中でも、私が前々から気にかけていた、アネット・カミロフ=スミス(1938-)という英国人の女性の研究者がいる。 カミロフ=スミスは、もともとジュネーブの国際連合で同時通訳者として仕事をしていた。通訳者として、他者の言葉をそのまま伝えることを続けていく中で、自分の言葉を失いつつあることに気づいたカミロフ=スミスは、キャリアを変更することを考え、大学で再び学問を修めることを決意した。 彼女のエピソードは、私が知性発達科学の世界に飛

579. 理論モデルの構築について

現在履修している「複雑性と人間発達」というコースは、毎回新たな発見を自分にもたらしてくれる。クラスでの学びを書き留めることが全く追いつかないほどである。 また、クラスで取り上げられた内容について、自分なりに考察を深め、それらの内容を適切に消化していくという作業も行なっていく必要がある。第二回と本日のクラスを振り返ってみたとき、以前言及した「捕食者・被食者の個体数増加モデル」について、再び考えを巡らせていた。 前回のクラスでは、このモデルを主に取り上げ、Netlogoというコンピュータープログラミングを用いてシミレーションを行っていたが、モデルの意味をもう少しきちんと考えなければいけない。例えば、自分の研究とこのモデルを照らし合わせると、どのようなことが言えるだろうか。 現在私は、成人のオンライン学習を研究しており、学習者の概念理解度の発達プロセスを探究している。成人がオンラインを通じて何らかのコンテンツを学習するとき、一つの大きな目標としては、そのコンテンツに対する理解度を深めることにあるだろう。 そこで、被食者の個体数を学習者の学習コンテンツに対するモチベーションと見立て、捕食者の個体数を教師の不適切な関与(モチベーションを下げるような説明などの振る舞い)と見立ててみる。 つまり、教師の不適切な関与——捕食者の個体数——が増えれば増えるほど、学習者のモチベーション——被食者の個体数——が減少していき、学習者のモチベーションが減少すればするほど、教師の不適切な関与が減少する、という理論モデルを想定してみる。 このモデルの前半部分は直感的に正しいそうだが、後半部分は少し違和感があ

578. ポール・ヴァン・ギアートの背中を追いかけて

今日は、「複雑性と人間発達」の第三回目のクラスに参加した。今のところ、このクラスの前には必ず、友人の誰かとカフェテリアで一時間ほど話をしている。今日は、ドイツ人の友人であるヤニックと対話をしていた。 学部時代からフローニンゲン大学で学んでいるヤニックは、この街で生活を始めてからすでに五年が経過しているとのこと。現在は、博士課程に在籍しているため、少なくとも八年間はこの街で生活をすることになるそうだ。 私は高校を卒業して以降、同じ街に四年以上生活をしたことがないため、八年という月日を同じ街で過ごすことが、どのような意味と影響を私に及ぶすのか想像がつかない。特に根拠はないのだが、この数年以内に、四年以上の時を過ごすことになるであろう場所が見つかるような気がしている。 それが世界のどの街なのか、未だ定かではないが、候補地が幾つかあるのは確かである。知性発達科学の研究を進めるという観点であれば、今私が所属しているフローニンゲン大学はとても素晴らしい環境である。 複雑性科学の一領域であるダイナミックシステムアプローチを発達科学に適用した先駆者は、エスター・セレン、アラン・フォーゲル、マーク・レヴィスなど様々な研究者の名前を挙げることできる。だが、その中でも私が最も関心を惹かれたのは、フローニンゲン大学教授ポール・ヴァン・ギアートの仕事であった。 ヴァン・ギアートは、形式上、昨年引退をしてしまったが、今でも共著論文を執筆するなど、引き続き学術探究を行っている。まさに、ヴァン・ギアートと私の論文アドバイザーを務めるサスキア・クネン教授が協働することによって、「フローニンゲン学派」と呼ばれるダ

577. 推測的理論の検証のためのダイナミックシステムアプローチ

流れ星を眺めるかのように、今日という一日もあっという間に過ぎ去っていった。フローニンゲンで生活を始めてから四ヶ月が経つが、まだそれくらいの期間しか経っていないのか、という思いを持っている。 メソな時の経過は比較的ゆったりとしたものに感じられるが、ミクロな時の経過はとても早く感じられる。書斎の窓から見える景色が、その日を終える準備をし始めている様子が見て取れた。今日は、時折小雨の降る一日であった。 昨日と同様に、今日も集中的に文献と向き合っていた。今日の文献調査は、自分の研究と直接的に結びついているものというよりも、間接的に自分の研究を下支えしてくれるようなものである。専門書や科学論文というのは、自分の関心に合致するものを探せば探すだけ見つかるものであるため、この作業に終わりはない。 研究者として、こうした作業を生涯にわたって積み重ねていく必要があるのだろう。文献調査と実際の研究を進めていく過程の中で、徐々に自分の知識体系が構築されていくはずである。 ここ数年の間、特に注目をしていたのは、元フローニンゲン大学教授ポール・ヴァン・ギアートの仕事であった。ヴァン・ギアートは、カート・フィッシャーの長年の共同研究仲間であると同時に、ダイナミックシステムアプローチを発達科学の世界に導入した功績者である。 フィッシャーの執筆した論文に比べ、ヴァン・ギアートの論文には数式モデルが活用されることも多く、さらには、発達科学に関するメタ理論的な観点が盛り込まれていることが多いため、読み解くのはなかなか難解である。 そうした事情もあり、特にこの数年間は、まずフィッシャーの論文を中心に読み、その後

576. 建築家のように

集中的な読書を行った日の夜の睡眠時間は、やはり普段以上に長くなっていることに今朝も気づいた。おそらく、九時間近い睡眠時間を確保していたように思う。 奇妙なことだが、いつも就寝前に、自分の知識や経験の体系が少しでも深みを増すように願っている自分がいるのだ。こうした祈るような行為はおそらく、自分の内側の構築物の高度や堅牢性が、非常に取るに足らないものだという自分の思いから生まれている気がしている。 専門書や研究論文を読んでは何かを書き、何かを書いてはまた何かを読み、具体的な実務作業に従事しては何かを書き、何かを書いてはまた具体的な実務作業に従事する、というような生活を日々送っている。 私たちの内面世界に存在するものが深まり、高度化していくには、長大な時間を要することを頭では重々に理解しているつもりである。まさに、内面世界に生起する思考や経験、そしてアイデンティティなどが深まっていくプロセスとメカニズムを私は研究しているはずなのだ。 しかしながら、自分に正直となり、私の内面世界の諸々の現象に着目してみると、それらが深まっていく速度に物足りなさを感じているのは確かである。つくづく、内面世界の現象の発酵過程は、忍耐強く時間をかけながら対象と向き合う必要がある、と感じさせられる。 忍耐と継続という要素が欠けたとき、内側の発酵過程はそこで終わりを告げる。忍耐強く継続的に対象と向き合い続けることができるかどうか、ということこそが発達的な試練なのだろう。 早朝、以前の自分の文章を読み返すことがあり、少しばかり愕然とさせられた。というのも、一つの対象について言葉を紡ぎ出していく際に、自分の語彙

575. ピアジェの構成的知性発達モデル

今日は、ほぼ一日中、ピアジェの発達理論と向き合っていた。ピアジェの生誕の地であるスイスのニューシャテルを訪れて以降、ピアジェの存在がより近しいものになっている気がする。 私自身の知性発達科学に関するこれまでの探究を振り返ってみると、ピアジェの理論について学ぶよりも、新ピアジェ派と呼ばれる研究者たちの理論について学習することが多かった。その大きな理由の一つとして、知性発達科学の探究を始めた時の私の関心は、成人期以降の発達にあり、ピアジェの理論では、成人期前の発達についてしか基本的に扱われていないためである。 もちろんピアジェは、成人期以降の知性に見られる「後形式操作段階」についても提唱していたが、彼が行った具体的な研究というのはほとんど無い。これはよく言われることであるが、発達心理学に多大な功績を残したピアジェを発達心理学者という枠組みで括ることは、少し乱暴であるように思われる。 実際に、ピアジェは自分自身のことを発達心理学者とは見なさずに、「発生的認識論者」と定義付けていたのだ。ピアジェを知性の発達を取り扱う哲学者だと捉え、その書籍を読んでみると、いくつもの面白い発見と出会うことができるだろう。 本日、改めて面白いと思ったピアジェの理論モデルは、「構成的知性発達モデル」と呼ばれるものである。私たちの知覚を司る能力と概念を司る能力は、相互作用をしながら私たちの知性の発達に寄与している。 しかし、ピアジェの指摘で面白いのは、知覚を司る能力が概念を司る能力を決定づけることはなく、概念を司る能力は質的(構造的)に変容し、それは知覚を司る能力を決定づけるほどの大きな影響を与えるという

574. 構成的感覚

早朝から昼にかけて、仕事が大変はかどった。米国のアマゾンに注文した専門書と異なるものが昨日届けられたため、午後一番に、それを返品するために近所の郵便局に出かけた。それにしても、オランダに到着してから、アマゾンを経由した注文に紛失などの手違いが多いことは残念である。 今回注文した書籍は、ダイナミックシステムアプローチを幼児の身体運動の発達に適用した第一人者であるエスター・セレンとリンダ・スミスが執筆した “A dynamic systems approach to development: Applications (1993)”だったのだが、 間違って同著者の “A dynamic systems approach to the development of cognition and action (1994)”が届けられたのだ。 後者の書籍は、二年半前にすでに購入しており、成人以降の知性発達にダイナミックシステムアプローチを適用する際にも有益な洞察を多数含んでいるものである。今回注文した書籍も非常に楽しみにしていただけに、今回の一件は残念だ。 懲りずにもう一度他の書店に注文しようか迷ったが、オランダで生活を始めてから、アマゾンで注文した書籍が届かないということが、すでに四、五回起こっているので、結局注文することを止めた。 その代りに、大学のオンラインジャーナルを活用し、幸運にもE-Book形式でダウンロードすることができることを発見した。いつも、自分が本当に必要とする専門書や論文は、必ず紙媒体で入手するようにしているため、今回もE-Bookをダウンロード後、特に注目をしてい

573. 孤島と連絡船:能力開発に対する視点

やはり今の自分は、特殊な環境の中に身を置き、特殊な活動に従事し続けていることに気づく。正直な感覚は、孤島の中での生活に近いと言えるだろうか。このような生活を望んでいた自分が存在していたことは間違いない。 また、このような環境に私を運んでくるような力が自己の背後にあったこともわかる。以前言及したように、どのような環境も固有の力を内包しており、それが私たちの発達を促進することもあれば、阻害することもある。 今私がいる環境は、紛れもなく自分の内面世界の成熟をもたらすものであると思っているが、その環境が持つ特殊性に対して、時に圧倒されることがある。さらには、こうした特殊な環境の中でしか育まれようのない特殊な力を獲得しつつある自分に対して、圧倒されることがあるのだ。 「自分が自分に圧倒される」というのは、一見すると奇妙なことだが、もしかすると、こうした感覚こそが、内側の発達が進行するときの偽らざる感覚なのかもしれない。今、私が生活している環境は、特殊な発達促進力のようなものを兼ね備えているように思う。 しかし、フローニンゲンの街が全ての人の発達を促すような力を持っているとも思えないのだ。この点が非常に不思議である。環境というのは、やはり私たちの内面世界と相互作用をしており、環境が私たちを形作るのと同時に、私たちの内面世界が環境を形作る、というフィードバック関係が存在しているように思う。 今の環境を特殊なものだと認識する私の中に、特殊性の種のようなものがあり、それが環境に働きかけているようなのだ。その結果として、特殊な環境の中で特殊な能力が育まれている、という現象が偶然ながら起きているのだ

572. ジャン・ピアジェの発達思想より

今朝はいつもより早い四時に起床し、早朝からジャン・ピアジェの発達思想に触れていた。多くの人は、ピアジェを発達心理学者とみなすかもしれないが、それは少々誤解がある。 もちろん、ピアジェが発達心理学に果たした貢献は非常に大きいが、彼は発達心理学の領域を超えた探究を行っていたのである。一部の専門家から、ピアジェは認識論者であった、とみなされる所以はそこにある。 一言で述べると、ピアジェは、人間という存在とは知識を構築する有機体とみなしていたのだ。発達心理学のロバート・キーガンが「人間は意味を作ることを宿命づけられた存在である」と述べていることと同様に、ピアジェは「人間は知識を構築することを宿命づけられた存在である」と述べていたと言っても過言ではないだろう。 ピアジェは元々、生物学者としてキャリアをスタートさせたこともあり、環境の中で生じる人間の行動に着目しながら、それらの行動がどのように組織化され、時間の経過に合わせてどのように再組織化されていくのかを探究していた。 とりわけピアジェの発想で面白いのは、知識を継続的に発達する人間の器官の一つとしていたことである。生物が進化を遂げていく際に、環境に適応しながらその器官を形作っていたのと同様に、人間の知識は、環境に適応しながら新たに形成されていく一つの器官なのである。 ピアジェのこうした発達思想に触れていると、私がオランダに来てから、どうして自分の知識体系の色と形が変わってきたのかがわかった。私たちの知識体系は、思考と密接に関係していることにはそれほど異論がないだろう。 ピアジェも指摘しているように、知識が組織化されるためには、その環境内

571. 存在することの不思議な感覚

早朝の四時から仕事を開始し、気づけば夜が明けていた。少しばかり足元が冷えると思っていたら、外気がマイナス七度であることがわかった。 今日も昨日同様に、雲ひとつない晴れ間が広がっている。外の寒さを問題としていないかのように、小鳥たちが力強く空を舞っている。フローニンゲンの街に昨夜降りた霜が、ストリートを優しく包んでいる。 その様子はまるで、スポンジケーキの上に優しく降りかかっている白いパウダーのようである。このパウダーは、赤いレンガ造りの家の屋根にも降りかかっている。そして、こうしたレンガ造りの家の上に架かっているのが、薄いブルーの雲ひとつない大空である。 そのような景色を書斎から眺めることができる場所に、今の自分は住んでいる。一週間のうち、ほぼ毎日、書斎の中で自分の仕事を行うか、書斎の窓から景色を眺めるか、ということだけを行っている気がする。 つまり、常に自分の内側と向き合うようなことと、内側から離れて外側と向き合うようなことしか行っていないようなのだ。興味深いのは、自分の外側にいくら焦点を当てても、結局のところ、やはり自分の内側に戻っていくのである。 とはいえ、外側の事物の存在を認めないような極端な観念論に陥っているわけではない。なぜなら、外側の事物に触発される形で、自分の内側が動き出しているのは、確かな感覚として感じ取れるからである。 昨夜、「生きていること」に対する不可思議な体験をした。これは以前どこかで言及したように、周期的に自分の内側に訪れる体験である。「生きていること」に対する不可思議な感覚を言い換えるなら、「存在していること」に対する不可思議な感覚と述べていいかも

570. デュッセルドルフに住む友人より

昨日10年ぶりに、大学時代から付き合いのある、ドイツ人の友人と連絡を取った。実際には、私がオランダで生活を始めるに際して、隣国のドイツに住んでいるその友人に数ヶ月前にメールを送り、彼からの返信をそのままにしていた、という事情がある。 昨日、二ヶ月半前にもらった彼のメールに対して、ようやく返信することができた。彼は私よりも五歳くらい年上なのだが、今ではもう、子供が二人もいるそうだ。大学時代には、何人かの留学生と交流をしていたが、一番仲が良かったのは間違いなく彼である。 お互いにサッカーという共通の話題があったため、彼とは頻繁にサッカーの話をしていた。さらには、二人とも経営学科に所属していたこともあり、経営理論に関する話もよくしていたのを覚えている。 彼は大学院で、特にマーケティングを専攻しており、卒業後、名門コンサルティングファームに就職することになった。彼への返信メールを書きながら、大学時代の思い出が少しばかり蘇ってきた。特に、彼が山口県の私の実家に宿泊に来た時、山口県近郊を観光したことがとても懐かしい。 山口県東部の岩国市にある、錦帯橋と岩国城を案内し終えた時、彼から、「洋平、今から宮島に行こう!」と夕暮れ前の岩国城で提案を受けたことを今でも鮮明に覚えている。当時の私は、山口県の岩国から広島県の宮島が目と鼻の先にあることを知らなかったのだ。 彼からの提案のおかげで、私は生まれてはじめて、広島県の宮島を訪れたのだった。宮島で見た、厳島神社の何とも言えない力を放っている赤い鳥居の存在が、今でもまぶたに焼き付いている。あれから10年経ったというのに、まだ記憶が鮮明なのは、とても不思

569.「トランスパーソナル防衛メカニズム」の集合的蔓延

今日は、文句の付けようがない素晴らしい天気であった。午前中の仕事を終え、ランニングに出かけて心身をリフレッシュさせた。その後、午後からは引き続き、ケン・ウィルバーが提唱した「20の発達原則」について調査をしていた。 構造的発達心理学に馴染みのある人にとっては、もはや当たり前の概念かもしれないが、「ある発達構造が崩壊すると、その構造よりも上の構造は全て消滅するが、その構造よりも下の構造は依然として残る」という考え方について、少し立ち止まって考えていた。 これは、ウィルバーが提唱した20の発達原則のうち、13番目の原則に該当するものである。背筋を登るようにしてふと生まれてきた考えは、多くの日本企業や日本という国そのものが、この原則を犯しているのではないか、というものであった。 頻繁に耳にするのは、日本企業や国家から、能力水準の高い優秀な人財が流出し始めている、というものである。結局のところ、このようなことが起こっている背景の一つに、一定以上の能力水準を兼ね備えた人が存在できなくなってしまうような集合的な文化や仕組みがあるからではないだろうか。 言い換えると、多くの企業や日本国家の中に、ある特定の能力水準を押し殺すような仕組みや文化が存在しているために、結果として、人々はそこから逃れようとする、という構造があるのではないだろうか。こうした構造は、間違いなく、その構造段階以上の人々を消滅させるものであり、その構造段階以下の人々を残存させることに寄与しているように思う。 そこからさらに厄介な問題は、こうした構造が単に、ある能力水準以上の人々を流出させるということのみならず、その組織や国家

568. 何気ない日常より

今日は早朝から、昨夜の就寝前に気にかかっていたことを調べる作業から仕事を開始した。昨夜、ダイナミックシステムアプローチに関する文献を読んでいた時に、そこで紹介されている発達の原理が、アメリカの思想家ケン・ウィルバーが提唱した「20の発達原則」と大きく重なることに気づいたのだ。 昨夜の就寝前、とりあえず書斎の本棚からウィルバーの傑作であるSESを取り出し、机の上に置いてから床についた。起床後、20の発達原則に関する箇所を丹念に読み解くことを開始した。 ウィルバーが提唱する発達原則の中でも、例えば、「発達現象の創発性」、「階層的な発達」、「複雑性の増加」などは、ダイナミックシステムアプローチが強調する発達原理と通底するものがある。私は折を見て、ウィルバーの書籍を今でも読み返すことがあるのだが、未だに彼の発達思想からはいつも何かしら得るものがある。 もちろん注意を要するのは、ウィルバーの発達思想には、新ピアジェ派の発達研究までしか盛り込まれていないため、情報の鮮度が古い記述を時折見かけられることである。ウィルバーの発達思想には、近年の発達研究は一切盛り込まれていないが、彼の思想の真髄の部分が色あせることはない。今朝改めてウィルバーの書籍を読み返して、そのようなことを思った。 ウィルバーが提唱した20の発達原則を再度確認したところで、書斎の窓から目の前のストリートを見ると、昨日はどうやら雪が少々降っていたようだ。レンガ造りの家々に並行する形で、ストリートの路肩に何台かの車が停められており、それらの車の上に雪が少し積もっているのを確認した。 今日の最低気温はマイナス五度であり、午前九時現

567. カート・フィッシャーとポール・ヴァン・ギアートの仕事を辿りながら

フローニンゲンの最低気温が本格的にマイナスに入り始めた。外気の寒さに反比例する形で、自分の内側の熱気が日増しに高まっているのを感じる。 もはや自分の内面世界は、外面世界の表面的な変化に左右されることはない。内面世界と外面世界は、深層的な部分で深いつながりを持っているのは確かである。 しかし、今の自分の内面世界は、外面世界の表層的な現象に動じない形で、進化の歩みを進めているのを感じる。早朝のオンラインゼミナールのクラスを終えた後、研究プロジェクトに取り掛かっていた。 昨日は、発達科学者のカート・フィッシャーの執筆した専門書と論文を一心不乱に読み耽っていた。このような集中的な読書を行うと、その日の夜に見る夢が、特殊な影響を受けながら、いつもとは毛色の異なる夢になることは面白い。 昨日の午後はまず最初に、手持ちのフィッシャーの論文と専門書を本棚から取り出し、とりあえず書斎の机の上に積み重ね、机に乗りきらないものは、食卓の上に並べるということを行っていた。 同時に、フィッシャーのCVを見ながら、彼が過去に執筆した全ての論文目録に目を通し、自分の研究に関するものの中で、自分がまだ入手していないものをチェックしていた。チェックのついた項目をもとに、大学の電子ジャーナルを通じて、それらの論文をダウンロードすることを行っていた。 この電子ジャーナルは非常に便利であり、正規の大学に属していなったこの三年間の間に読みたいと思っていた論文を、今このようにして自由に読むことができることは、とても有り難い。フィッシャーが1970年に博士論文を提出して以降、引退をする2014年までの間に、執筆論文は300

566. 後継者として

発達科学者のカート・フィッシャーが残した功績について、まだ書き足りないことがあったようであり、フィッシャーが発達科学に与えた貢献についてしばらく考え続けていた。特に、優れた理論が持つ応用力について考えを巡らせていた。 ここで述べている理論モデルの応用力というのは、実務の世界で具体的に活用できるかどうかという力も当然含まれているが、それ以上に、その理論が科学研究の進展にどれだけ寄与するかの力のことを指している。 つまり、その理論に基づけば、どれだけ多様な研究が行うことができ、当該科学領域にどれだけ新たな知見を加えることができるのか、という力である。そのようなことを考えると、フィッシャーのダイナミックスキル理論は、途轍もない応用力を持った理論だと思う。 ダイナミックスキル理論が持つ密度・強度・高度など、どれを取っても、一線級の科学理論であるように思えてならない。事実、私が今取り組んでいる研究で活用している主な理論は、まさにフィッシャーのダイナミックスキル理論であり、彼の理論がなければ、今の私の研究が成り立たないとすら言える。 私以外にも、知性発達科学の研究者たちの多くが、今もなお、フィッシャーの理論を活用しながら、自分の関心テーマを追いかけ、当該領域に新たな知見を加えようと日々の研究に励んでいると言える。 残念ながら、フィッシャーは数年前に引退をしてしまったが、彼が創造したダイナミックスキル理論は、フィッシャーの引退後も、さらに磨きをかけられていくのではないかと思っている。いや、より洗練させていくことが、多くの知性発達科学者に求められていると思う。 遡れば、知性発達科学の創始者に位

565. 構造的発達心理学の二大巨頭:ロバート・キーガンとカート・フィッシャーについて

今日も非常に有意義な休日を過ごすことができた。午前中のオンラインゼミナールの後、仕事関係や交友関係の諸連絡を済ませ、予定通り、複数の論文と専門書に取り掛かることができた。 今日の文献調査を通じて、改めて、元ハーバード大学教育大学院教授カート・フィッシャーは、偉大な発達科学者であると思う。もちろん、ロバート・キーガンからも多大な影響を受けたことは間違いないが、キーガン以上に私に大きな影響を与えてくれたのは、間違いなくカート・フィッシャーである。 今からかれこれ三年半前、フィッシャー教授が引退をする前年、偶然にも彼の研究室を訪問させていただく機会に恵まれた。フィッシャー教授との対話の時間は、何にも代えがたいものであった。 研究室訪問後も、折に触れてフィッシャー教授に連絡をし、発達科学に関して諸々の助言を受けてきた。フィッシャー教授は、私にとって良きメンターであったし、現役を退いた後も、彼が残した専門書や論文は、私にとってのメンターのような存在である。 発達科学者としてのフィッシャー教授の偉大さは、やはり、自ら構築した理論を、一生涯をかけて彫琢し続けたことにあるだろう。実は、フィッシャー教授の有名な「ダイナミックスキル理論」というのは、今から35年以上も前の1980年に誕生した「スキル理論」が原型となっている。 フィッシャー教授の発達科学者としての生涯は、まさにこのスキル理論を彫琢し続ける過程であったと言ってもいいだろう。心理学の世界において、最も権威の高い専門ジャーナルの一つであるPsychological Reviewに投稿された “A theory of cognitive d

564. 探索とゆとりについて

小鳥たちの美しい小さなさえずりが、早朝のフローニンゲンの静寂な空間の中にこだましている。早朝六時の真っ暗闇の中、小鳥たちのさえずりは、闇の中を進む存在にとっての道しるべのような役割を果たしているように思えた。 朝の八時に近くなってから、ようやく辺りが明るくなってきた。今日は、寒さの中にも暖かな太陽が差し込む土曜日である。土日の早朝に開催しているオンランゼミナールを終え、一息ついていた。 書斎の開放的な窓から見える景色は、常に私を支えてくれる大切な存在となった。自分を呑み込むような晴れ渡る空が、私の眼の前に広がっている。裸になった木々に、小鳥たちが休憩にやってくる。レンガ造りの家々の屋根に、冬のほのかな太陽光が当たっている。 そのような景色が、書斎の窓から広がっている。これらの何気なく、かつ常に新鮮な気づきをもたらす景色に対して、私はいつも包み込まれているような感覚を持っていた。だが、今日のこの瞬間は少し違った印象でそれらの景色を捉えていたのだ。 これらの景色に呑み込まれている、包まれているというよりも、景色に包まれている自分と景色の双方を包んでいる自分がいることに気づいたのだ。この感覚は、以前どこかで味わったような気がしていた。 思い出してみると、それは今年の夏の欧州小旅行で体験したものであった。あれは確か、ハノーファーからライプチヒに向かっている列車の中での出来事だったように思う。ある瞬間に、景色を見ている自己が消え去り、私が環境の中にいるのではなく、環境が私の世界にいる、というような感覚に陥ったのである。 こうした感覚は、自己中心的なものとは性質を異にしている。実際に、目の

563. 待ちわびて

昨日は、丸一日何かをインプットするような作業に従事せず、時間の許す限りアウトプットの作業に従事していた。今日は、自己を対極に振り、午後からはインプットに多くの時間を充てたいと思う。 一つの大きな流れの中に自分がいるためか、ここ数年の自分では想像ができないくらいに、両者のバランスが最適なのだ。「バランス」というのも、なかなか奥が深い言葉である。 私が今感じているバランスというのは、インプットやアウトプットがほどほどの状態にある、というようなことを意味していない。それとは全く逆に、どちらも非常に極端な投入量でありながら、それらが新たな次元に存在する均衡点で落ち着くようになった、という意味である。 面白いもので、どうやら、自分の中にある「バランス」というものも、質的に変容するらしいのだ。自分がバランスと捉えているものが、どの次元にある均衡点なのかを、今後も観察していきたいと思う。 今日から数日間、フローニンゲンの街は晴天に恵まれるようである。クネン先生との先日のミーティングで話題になっていたように、フローニンゲンの気温の変動性が高くなっていたのは、まさに次の安定的な状態に移る前触れだったのだと思う。 つまり、冬に入ったかと思うような寒い日が続く一方で、秋らしさを残す少しばかり暖かな日が再びやってくるというような、変動性に満ちた天候状態は、本格的にやってくる冬を知らせる現象だったのだと思う。 実際に、明日からの最適気温はマイナスが続き、明後日の最適気温はマイナス五度になるそうだ。そのような厳しい寒さの中にあっても、今の自分の充実感が色あせることは決してない。 こうした厳しい寒さそのもの

562. 書籍の執筆について

今日も非常に仕事がはかどる一日であった。本日は、専門書や論文に目を通すことは一切なく、午前中は主に第二弾の書籍について構成案を考えていた。 前作の『なぜ部下とうまくいかないのか』は、五つの章立てを決めた段階で、ストーリーの流れが自分の頭の中にあったため、章ごとの細かな内容を決めることなく、筆をうまく進めていくことができた。 しかし、今回の作品は、コンセプトと表現形式の都合上、大まかな構成を決めるだけでは不十分であり、どんな論点をどんな順番で盛り込んでいくのかを事前にしっかりと考える必要がある。これは、書籍の執筆のみならず、論文や企画書の作成にも当てはまる基本的な原則だと思うのだが、これまでの私はそうした作業があまり得意ではなかった。 これまでの私は即興的に文章を書くことが多く、このようなスタイルだと、本当に意味のあるものを生み出していくことはなかなか難しい。ライプチヒのバッハ博物館で目の当たりにしたように、バッハは作品を生み出す法則性、言い換えると、美を創出することの法則性を発見することの探究に従事していた。 彼の探究成果から得られた法則性に基づくことによって、バッハは傑出した作品をあれだけ多く残せたのだと思う。まさに、今の私が取り組まなければならないのは、単に作品を残すことではなく、一人の表現者として、意味のある作品を生み出す規則性や法則性を自分なりに掴み、それを定式化させることである。 このような自分なりの作品創出理論のようなものがなければ、毎回の作品は単なる偶然の産物となってしまうだろう。さらには、自分の表現したいものが一向に深まることなく、同じ深度を常に旋回するような状

561. 複雑性と人間発達:Netlogoを活用したシミレーション実習

「複雑性と人間発達」というコースの第二回目のクラスについて、あれこれと振り返りを行っていた。毎回このコースに参加するたびに、多くの学びを得ることができるため、クラスの後の振り返りの量がどうしても多くなってしまう。もちろん、これは嬉しい悩みである。 クラスの前半では、物理学者のラルフ・コックス教授から、ダイナミックシステムアプローチの数学的側面に関する概略的な説明があった。具体的には、「連続システム」と「離散システム」の違い、「微分方程式」と「差分方程式」の特徴、微分方程式を活用したモデル化、「状態空間(state space)」、「アトラクター」の種類、「カップリング」、「線形写像」と「ロジスティック写像」、「バイファケーション(分岐点)」などの基礎的かつ非常に重要な概念について、明確な説明と共に理解を深めることができた。 理論的な講義が終わった後、小休憩を取り、後半は毎回楽しみにしているコンピューターシミレーションの実習を行った。前回と同様に、博士課程に所属しているドイツ人の友人であるヤニックと一緒に演習を行っていた。 本日行ったシミレーション実習では、「Netlogo」というツールを活用した。Netlogoは、エージェント型プログラミング言語を基にしており、このツールを活用すれば、人間や組織などの自律的に行動する存在(エージェント)の行動や相互作用をシミレーションすることができる。 さらには、エージェント間の相互作用がシステム全体にどのような影響を及ぼすかも分析することができる。複雑系研究のメッカであるサンタフェ研究所が提供しているオンラインコースに参加していた時に、すでに

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