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463. 自己展開力を支援する存在

今日のクネン先生とのミーティングも大変実りあるものであった。毎回のミーティングでは、次回までの課題を明らかにし、その課題に対する自分なりの回答をまとめてクネン先生に提出するというのが、決まった流れになっている。 現在取り掛かっているのは論文の骨子となる提案書である。先日受けた助言をもとに改稿した二度目のドラフトを事前にクネン先生に送り、それに対する先生のコメントをもとに、今日のミーティングが行われた。 この提案書を論文審査委員会に提出するまでに、実はあと二ヶ月の時間があるのだが、今の時期から論文の骨子を固めておけば、研究が非常にスムーズに進むと思っている。クネン先生からのアドバイスに従い、今の段階では提案書の規定文字数を意識することなく、研究の背景や方法論に関してできるだけ詳しく論述するように心がけている。 この提案書の内容を肉付けしたり、あるいは余分な箇所を削ぎ落とす形で、実際の論文に盛り込んでいくことができるのだ。米国の大学院時代を振り返ってみると、クラスの期末ペーパーにせよ修士論文にせよ、これまでの私は文章の骨子をそれほど明確にしないまま執筆に着手していたように思われる。 当然ながら何を文章として表現したいのかを事前に考えることは行っていたのであるが、往々にして書くべき項目の列挙をするぐらいだったように記憶している。当時の大学院にも親切な教授が何人かいて、彼らのクラスでは、期末ペーパーのストラクチャーを事前に提出することが義務付けられており、自分のストラクチャーに対して添削を施してくれる教授がいたことを覚えている。 事前にしっかりとアウトラインを作成するか否か、そしてそう

462. アヒルとパーソナリティ

今日はクネン先生と研究プロジェクトに関するミーティングを行った。決められたペースで定期的に行われるこのミーティングのおかげで、研究が順調に進んでいくのを実感している。 昨日は非常に暖かい日曜日であり、初冬の中休みという感じであった。今日も引き続き比較的暖かい一日であった。クネン先生とのミーティングは、社会行動科学ビルにある先生の研究室で毎回行われる。 自宅から社会行動科学ビルに向かう道中、ノーダープラントソン公園を通るのは、日課でもあり、儀式的なものでもある。静寂な環境と澄み渡る空気の中で小鳥のさえずりがいつも聞こえる。噴水が湧き出る音も遠くの方から静かに聞こえる。 毎回この公園を訪れるたびに、自分の意識状態が全く別種のものになることを感じている。自然の持つ力は途轍もなく大きい。私は自然なしでは生きていけないタイプの人間なのだとつくづく思う。 この公園が生み出してくれた観想的な意識状態の中で、自分が観想的な意識状態にいるということを自覚していた。そうした自覚を持ちながら、あたりの景色を見渡すと、通常の意識状態では発見できないようなことに多々気づく。 それは自分の内側で絶えず変化をし続けている思考や感情の波かもしれない。あるいは、そうした波そのものを生み出す内在的な力に気付けるかもしれない。通りかかった池の前に、十数羽のアヒルがおとなしく固まっているのが見えた。 何をしているのかそっと近寄ってみたところ、彼らは寝ていた。生まれて初めて、アヒルの寝顔をまじまじと観察したのだ。その時、アヒルの寝顔はこのようなものなのだということに初めて気づくことができ、さらに、アヒルは睡眠中に顔を後

461. 寿司と記憶の自己展開

サラダとチーズが主体の食生活を少し見直そうと思う出来事があった。それ以降、少し変化のある食生活になっている。今日は街の中心部のスーパーで手巻き寿司を購入した。 近くのスーパーには残念ながら日本食は置いておらず、街の中心部にあるスーパーに行かなければ日本食にありつくことができない。日本食と言っても寿司しか置かれていないのだが、置かれているだけでも有り難い。 実は三日前から寿司を食べることを計画しており、スーパーで購入したわずか4ユーロに満たない握り寿司を自宅で口に運んだ瞬間、思いがけないほどの感動を味わった。それぐらい私は日本食に飢えていたのかもしれない。 実際に、この二ヶ月半は日本食を口にすることはほどんとなく、和食主体の生活からかけ離れていたのだ。食生活というのは他の生活習慣と同様に、自分を形作る重要な生活実践である。 どのような食べ物を身体に取り入れるかは、どのような知識を精神に取り入れるのかと同じぐらい重要である。今日口にした握り寿司のセットは、実にありふれた具材だったのかもしれない。 しかしながら、そうしたありふれた具材の中でも、最も些細な具材と思われるキュウリ巻きを口にした瞬間、喚起されるものが一番あったことには驚きである。それを口に入れた瞬間、日本の夏が蘇ってきたのだ。 その後、キュウリにまつわるありとあらゆる思い出が記憶の玉手箱から溢れ出してきた。目の前の寿司をゆっくり味わうごとに、無数の記憶が喚起されるという状態の中に私はいた。 ここでも外部にある対象物の刺激によって、内側に現象が引き起こされるという図式が見て取れる。より正確には、外部からの刺激によって内側で思

460. 自己を研究対象とすることについて

これまで発達研究で気になっていたことが一つある。それは、研究者が自分自身を研究対象するとする可能性についてだ。研究者が自分自身を研究対象とした場合、方法論上様々な問題を解決しないといけないと思うのだが、人間の発達プロセスとメカニズムを研究することに関して、これは一つ面白いアプローチだと思う。 近年の発達科学の研究では、発達のプロセスに着目することが重要であるという考え方が浸透しつつある。変化のプロセスを追いかけることは確かに大事なのだが、実際には継続的にデータを集めることが難しいという研究上の課題を残している。 仮に発達のプロセスに着目せず、ある支援策の効果を実証したい場合には、その策を導入する前後で測定を行えば事足りることが多い。しかしながら、発達のプロセスを観察しようと思うと、データを連続的に収集していく必要がある。 このような課題を乗り越えなければ、発達過程で何が起こっているのかを把握することができない。現在私が取り掛かっている研究の場合、例えばオンラインクラスの一回分の対話を分析すれば、そのクラスの中でどのようなことが起こっているのかを把握することができる。 これは一回分のクラスを一つの全体とみなし、クラスという一つの大きな学習プロセスを観察していくという方法である。今回の研究で用いるデータは、自分が過去に行ってきたオンラインクラスが元になっている。その観点からすれば、今回の研究も自分自身を研究対象としていると言えなくもない。 しかし、ここでは私以外にも学習者の存在があるため、完全に自分自身を研究対象としているわけではないのだ。発達科学の研究を眺めてみると、例えばジャン

459. 光へ向かって

天空の雲間から朝日が差し込んできた。朝日と共に、早朝のフローニンゲンを包んでいた闇が徐々に姿を消していく。紅葉した木々に朝日が照らされる時、それは別種の輝きを私の眼に送り込んでくれる。 空を見上げると、渡り鳥たちが隊列をなして飛行していた。この隊列は、動的なシステムの産物であり、隊列の生成に「自己組織化」が関与していることに改めて思いを巡らせていた。隊列を指揮するリーダーがいなくても、あのように有機的かつ動的にフォーメーションが生成される姿には、思わず見とれてしまうものがある。 あれはドイツのリアーからハノーファーに向かう列車の中であったか。リアーからハノーファーへと向かう列車の車窓から、一つの古城が見えた時、自分に残された生の絶対量について思いを巡らせていた。 未だ何ら仕事らしい仕事を残せていない自分を振り返りながら、残りの人生の長さについて考えさせられていたのだ。車窓から見えるあの古城のような仕事を残す日が、果たして自分にやってくるのだろうか、そのようなことを思っていた。 目に見える形の仕事を残せていないだけではなく、現在取り掛かっている仕事の進め方や態度についても考えさせられていたのだ。自分の仕事の足取りを毎日書き留めるようになって気づいていたのは、その絶対量の不足であった。このペースで仕事を進めていった時、自分の生が終わるであろう時までに、微々たる絶対量の仕事しか成しえないことに気づかされたのだ。 もう少しで誕生日という日がやってくる。奇しくもその日は、オランダ語のクラスの最終日である。太陰暦に沿った時間軸を生きなくなってから四年が経ち、自分の年齢を徐々に忘れ始めている

458. 実践知について

全ての仕事がひと段落し、再び「実践知」と呼ばれるものについて考えていた。ここでふと、先日久しぶりにやり取りをしていたオットー・ラスキー博士の研究を思い出していた。 ラスキーに師事をしていた頃、彼の認知的発達段階モデルは非常に難解ながらも、最も関心を引く研究テーマであった。特に当時は、彼が提唱した「弁証法思考の28個の思考形態」について熱心に彼から学んでいたように思う。 ただ、当時を振り返ってみると、一つだけあまり注目をしていなかったテーマがある。それは「探求システム」の発達に関するラスキーの研究であった。 そこではラスキーは過去の偉大な哲学者を引用しながら、「ロック派探求システム」「カント派探求システム」「ヘーゲル派探求システム」の順番に、世界を探求していく思考システムが深まっていくことを指摘していた。 それらの探求システムの段階は、順番に簡単に述べると、対象を理解し知識を獲得する段階、対象に理性を働かせて知識を深める段階、弁証法的な高度な思考形態を用いて知識を結晶化させる段階となる。こうしたことを思い出しながら、まさにラスキーが探求システムの最後の段階に掲げていたものが「実践知(practical wisdom)」と呼ばれるものであることに今更ながら気づいたのである。 この気づきをきっかけに、さらにラスキーとの興味深いやり取りを思い出した。ラスキー曰く、「現代社会のほとんどの成人は『ロック派探求システム』ですらも獲得できていない」と述べていた。私が日常「実践」という言葉を安易に強調できないのは、ラスキーのこうした指摘が影にあるように思う。 つまり、ラスキーは「実践ということを

【お知らせ】オンライン新ゼミナールのご案内 「卓越性研究の最前線」

「発達理論の学び舎」をいつもご覧になってくださり、どうもありがとうございます。 このたび一年振りに新しい内容のオンラインゼミナールを開講することになり、その連絡をさせていただきました。 今回の新ゼミナールでは、「卓越性(高度な知性や能力)」をテーマに、発達理論だけではなく、他の科学領域から人間の成長・発達について理解を深めていくことを目的にしています。 11月から12月中旬にかけて7週にわたってゼミナールが開講されることになりますが、今回のゼミナールは課題もほとんどなく、週末の二時間だけオンラインクラスに参加していただくような負担のかからない内容にしています。 ゼミナールの詳細に関しては、こちらの案内パンフレットをご覧になっていただければ幸いです。 ゼミナールに関して質問等ございましたら何なりとウェブサイトのお問い合わせ欄からご連絡いただければと思います。 2016年の締めくくりに皆様と新ゼミナールで学び合えること楽しみにしております!

457. 知識基盤のない脆弱な実践について

秋が終わることを祝してなのか、冬が始まることを祝してなのか、今日は暖かい日曜日であった。早朝の仕事を終えてランニングに出かけた。今日のランニングは、いつものようにノーダープラントソン公園へ行くのではなく、以前発見したサイクリングロードを走ることにした。 これまでと同じコースを走りながら景色を眺めていると、あるところでふとコースを変えようと思い立った。そうした考えに至らせたのは、視界に飛び込んできた閑静な住宅地であった。住宅地の方へコースを変えると、サイクリングロードとは違う空間が広がっていた。 秋晴れの中、一軒一軒の住宅が個性的な輝きを放っているかに見えた。辺りを行く人も少なく、区画された広大な住宅地が、より一層広大な秩序空間として広がっているような印象を私に与えた。コースを変えてみると、やはりこれまで気づかなかったような発見があるものである。 「オランダの家はお洒落で可愛らしいものが多い」ということを耳にすることがあったが、これまでの私はそのような気持ちに満たされたことはほとんどない。確かに、お洒落で可愛らしい家は時折見かけるが、そうした家は日本でも探せばいくらでもあると思っていたのだ。 しかし、今日のランニングコースで通った住宅地には、思わずランニングの足を止めてしまうぐらいの洒落た家が数多く並んでいたのである。それらの家が黄金色の太陽に照らされ、幻想的な雰囲気を生み出していた。 ランニングと共に移り変わる幻想的な景色の中で、これは別種の夢なのかもしれないと思わされた。フローニンゲンでの日々の生活には、どうしても夢であるかのような性質が常にまとわりついている。この異国の街で

456. ロバート・シーグラーの「多重波モデル」

今日は何と気温が10度後半に達するという極めて暖かい日になるそうだ。日曜日にこうした気温になるのは有り難く、朝の仕事を終えたらランニングに出かけようと思う。 起床から一時間ほど仕事をした後に、書斎の窓から外の景色を眺めた。すると、空が朝の太陽に薄赤く照らされていた。空に浮かぶ雲も同様の恩恵を受けて、薄赤く照らされている。 今この瞬間の私の目の前には、なんとも形容できない美が顕現されている。薄赤く照らされた雲は、とてもゆっくりとした速度でかすかに動いているのがわかった。その様子に目を凝らしていると、それらの雲は空という大海の中で波のような役割を果たしているように思えた。 数多くの波が静かに進行していく様子には、思わず息を呑むものがある。太陽に礼拝を捧げることや空を仰ぎ見ることの意味と意義を実感せざるをえない。 昨日はカーネギーメロン大学教授ロバート・シーグラーという発達科学者の論文 “Concepts and methods for studying cognitive change(1997)”に目を通していた。おそらく過去どこかで、シーグラーについて言及したことがあるかもしれないが、新ピアジェ派以降の発達研究において彼の功績を忘れるわけにはいかない。 シーグラーはカート・フィッシャーやポール・ヴァン・ギアートと同様に、発達のプロセスを研究することの意義を強調した研究者である。ピアジェ派や新ピアジェ派の発達研究では、どうしても発達現象の始点と終点を比較するようなものが多く、始点と終点の間で起こっている微細な発達現象を捉えることが着目されていなかった。 厳密には、そうした始点と終

455. 意味の玉手箱

非常に滑稽なことが起こった。例のホワイトヘッドの哲学に関する専門書を70ページほど読み進めた結果、自分がノートにメモを取ったのは「全ての実体は非線形的な変化を遂げる」という記述だけであって、その具体例として「人は同じ川を渡ることは二度とない」「人は同じ事柄を考えることは二度とない」「主体として同じ経験をすることは二度とない」ということがノートにメモされている。 これらは複雑性科学の領域において前提となっている事柄であり、他の哲学者も同様のことを述べているため、知識として目新しいことなどほとんどないのだ。しかしそれにもかかわらず、私はこれらの事柄をメモしていたのである。 どうやらこれらの事柄が意味する内容は、私が思っている以上に奥深いのかもしれない。今の私は直感的に、後々これらの事柄が、思わぬ意味を私の眼前に開示させてくれることを把握していたかのように思われる。 ホワイトヘッドのそれらの考え方はまるで、目には見えない重層的な意味が梱包された玉手箱のように映る。今回の読書体験では、私はホワイトヘッドのそれらの言葉が持つさらに一歩深い意味を紐解くことに向かわなかった。 いや、もしかしたら向かえなかったのかもしれない。とにかく私にとって重要なことは、ある事柄が仮に既知だと思われたとしても、何か引っかかることがごくわずかでもあったのであれば、それを書き留めておくことにある。 「それはすでに知っている」という態度である知識と接する光景を頻繁に目にするが、そうした態度ではその知識が内包しているさらに深い意味を発見することができなくなってしまうだろう。意味というのは無限に重層的なものなのだ。

454. 促しをもたらす文章

昨日の夕方は面白いことに気づいた。書物を読むことに関してあれこれ考えていると、自分の内側に自己展開を促す書物の新たな特徴が浮かび上がってきたのだ。 フローニンゲンの街に到着してから二ヶ月半が経つが、かろうじて毎週末に日本語を読むという実践が継続している。土日の両日に日本語の文献を読めるとは限らないのだが、どちらか一方の日は何かしらの日本語に目を通すようにしている。 日本語の本といっても、オランダに持ってきたものはせいぜい森有正先生、辻邦生先生、井筒俊彦先生の全集ぐらいしかいないのだが、彼らの文章からはいつも大いに励まされるものがある。昨日は森有正先生の「城門のかたわらにて」を数ページほど読む時間を取ることができた。 この文章は今からおよそ60年前に執筆されたものである。森先生の文章を読みながら改めて気づいたことは、書き手が読者を強く意識した文章というのはいかにつまらないかということだ。つまらない文章とは、それを読んでいる最中や読了後に、自分の中で何も動くものがない文章を指す。 確かに文章を書くという行為には、少なからず読者が想定されている。ましてや世間に広く流通するような書籍の形態をとる場合、なおさら読者を想定することは大切なのかもしれない。 しかしながら、書き手が読者を意識しすぎた文章というのは、非常に味気ないものに映るのだ。読者に言葉を寄せようとした瞬間に、書き手の中の大切なものが消失してしまうような感覚である。 昨年から今後数年にかけて、私は上記三名以外の日本語を読むことはほとんどないと思う。手に入る和書の中で、自分を真に動かしてくれるものはそれくらい少ないと実感している

453. 三位一体の調和関係

今日も一日が静かに終わろうとしている。相変わらず観想的な生活リズムが刻まれている。このリズムはとても独特な音楽的なものだと形容していいかもしれない。 そうした生活をする中でも、あるいはそうした生活をしているからこそ、自分がどのように生きていくのかについて絶えず考えさせられている。自分はどうして母国を離れて、毎日毎日このような生活を刻み続けているのかについて考えさせられるのだ。 こうした観想的な生活を送る中で学んだことは、自分が諸々の探究を進めていく中で、外界の対象物に対して敬意を持つことの意味に気付いたことだろう。外界の対象物には無限の奥行きがあるのだ。 重層的な奥行きの一つ一つをこの目で確かめていくためには、一歩一歩の内側の成熟が求められる。なぜなら、外界の対象物が目に見えない形で内包している意味というのは、それを見る私たちの内側の成熟に応じて徐々に開示されるものだからだ。 言い換えると、内側の成熟に対応する形で、対象物はその奥行きをこちらに開示してくれるのだ。なぜだかこうした観想的な日々の中では、私を取り巻く何気ない対象物から学ばされることが多々あるのだ。 それは空の場合もあれば鳥の場合もある。書物の場合もあれば食物の場合もある。このように自分を取り巻く無数の対象物には、必ず重層的な奥行きが隠されており、自分の内側の成熟に応じて開示されるものが異なってくるのだ。 これは目に見える客観的な対象物のみならず、文化や組織といったものにも当てはまることだと思う。私自身、日本の文化から見える事柄というのは、この数年間で大きく変貌したように思う。 それはひとえに、自分の内側の成熟という

452. 物の奥行き

本日は、激しい雨が通り過ぎ去った後の土曜日である。やはり仕事が複数あると、当然ながら優先順位というものがある。休日に取り組む仕事は、平日には取り組めないようなものの中で、自分が最も意欲的に取り組みたいと望むものを選ぶようにしている。 今日の午前中は、新オンラインゼミナールの教材作成の合間合間にオランダ語の最終試験へ向けた学習を行っていた。以前紹介したように、期末にこのような大きなテストがあることによって、これまでの学習内容を振り返る絶好の機会になる。 実際に試験に向けて復習を進めていく中で、習ったはずの知識に漏れがあったり、理解が不十分である箇所に気づくことができる。午前と午後の仕事がある程度落ち着いたところで、ふと昨日と同様のテーマについて考えていた。 昨日は「生きた読書」について考えることを迫られていた。今日はほとんど特定の文献をじっくりと読む時間がなかったのだが、それでもホワイトヘッドの哲学に関する書籍を読み進めていた。それでは果たして、今日の自分の読書が「生きた読書」だったのかと問われるといささか疑問が残る。 昨日は、「生きた読書」に関する特徴を列挙するところで思考が終わり、どのようにすればそのような読書体験を積めるのかに関しては一切踏み込んでいなかった。そうした影響からか、ホワイトヘッドの哲学に関する本日の読書から何かを得られたかというと、それほど大きなことはなかったように思う。 ノートに書き留められたメモもごくわずかであり、そこから自分の思考や感情が自己展開を始めることはほとんどなかったのだ。ただし、非常に難しいのは、果たして今日の読書が不活発なものであったかという

451. 高みへ

昨夜は就寝前に、何気なく書斎の本棚を眺めていた。本棚をぼんやりと眺めているだけでも、いつも何かしらの発見があるものである。特に、本の背表紙には書籍の中身を喚起するような力があるらしいのだ。 そのように喚起されたものに応じて、こちら側の内側でも何かが喚起される。本棚の本から喚起されるものと私の内側で喚起されるものが共鳴した時、その本を手に取ってみるという動作が生じる。 そのようにして手に取ったのは、ブラッドフォード・ワラックという哲学者が執筆した “The epochal nature of process in Whitehead’s metaphysics (1981)”だった。この本は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学に対する解釈を見直すことが試みられており、ホワイトヘッド哲学の重要概念である「現実的存在(活動的存在)」を中心に、「抱握(prehension)」「プロセス」という用語の再解釈が試みられている。 人間の発達現象を探究していく際に、発達のプロセスを観察していくことが重要であると以前紹介したように思う。そのため、本書の中でも特に「プロセス」という用語を詳細に論述した章は、時間をかけてじっくり読もうと思う。 ここ二日間連続して不可解な夢を見ている。双方の夢に現れた現象を解釈すると、どちらの夢にも「高さ」を象徴するようなシンボルが現れている。それらのシンボルが持つ意味を改めて考えてみると、やはり自分は何らかの高みに向かって突き進もうとしていることがわかる。 覚醒状態でいくらそれを誤魔化したり抑制しようとしたりしても、それはほぼ無意味であり、私の無意識の領域で

450. 参禅開始

コンサルティングサービスを含め、どこかの企業と関係を持つ際には、必ず有価証券報告書を眺め、財務分析や企業価値評価のようなことを行ってしまう自分が未だにいる。これは大学の学部時代の専攻の影響がまだ私の中で色濃く残っていることを示している。 もしかすると、そうした過去の専攻の影響というよりも、そもそも企業経営のような外面的な現象を、客観的指標を用いて眺めることを好むというのは、拭い去ることのできない自分の性分の一つなのかもしれないと思った。 実際のところ、財務分析や企業価値評価という類のことからは足を洗ったと思っていたのだが、そもそも自分の根元部分には、客観的な指標を用いて外部現象を眺めることを欲する感情が渦巻いているのかもしれない。 そう考えると、ひょっとして自分はこの五年半という歳月において、人間の内面領域の探究など一切行えていなかったのかもしれないと思わされた。厳密には、今から六年半ほど前に、外側の事象を外側から眺めることはもうやめようと思って日本を離れる決意をしたのだ。 当時の私は、企業活動という外面領域に該当する現象と日々向き合っていた。そうした最中、人間の心や意識という内面領域の探究に舵を切ろうと思って米国に渡った。確かに、当時の私は、人間という存在を脳科学や認知科学などのように外側から捉えるようなことに関心を持っていたわけではない。 実際に私が関心を持ったのは、構造的発達心理学という領域であった。しかし、ここに少しばかり落とし穴があったことに、今頃になってようやく気付いたのだ。構造的発達心理学というのは、確かに人間の知性や能力という内面領域に該当する現象を扱う。 しか

449. 言葉の自己展開

オランダ語のクラスから帰宅後、最終試験に向けての総復習を簡単に行っていた。その後、研究プロジェクトを少しばかり前に進めるような仕事に取りかかっていた。 夕方の仕事がひと段落したところで風呂に入った。毎日、浴槽に浸っている時は至福の時間であり、身も心も非常にリラックスした状態に自分がいることに気づく。浴槽から出た後に書斎に戻ると、大抵何か新しい考えが自分の思考の海の中の表層に浮上していることがわかる。 そうして浮上してきたものを毎日逃さず掴み続けるというのも、日々欠かさずに行っていることかもしれない。夕方に読書について文章を書いていたのを思い出す。浴槽から出た後に気づいたのは、「生きた読書」の最中では、著者の言葉に触発されて、自分の内側で新たな言葉が芽生えていくような現象が起こっていることに気づく。 「発達(development)」という言葉の語源は、フランス語の”desvolper”であり、それは「開く(拓く)」という意味を持っていることを以前紹介したように思う。自分の中で読書体験が活性的なものである場合、まさに「言葉が開く」というような現象が内側に生じていることがわかるのだ。 生きた読書体験の中では、著者の言葉が引き金となり、私の言葉が自分の足取りで自己展開を進めていくのである。実際に時折見られる例としては、本文中の一行に刺激され、自分の内側で自己展開する思考や感情と向き合ってそれらを文章の形に言語化していると、気がつくとその一行しか読み進めぬままその日が終わることもある。 以前は、一行しか読み進めることができなかったという事実にしか焦点が当てられていなかったため、有意義な

448. 生きた読書に向けて

ここ数日間、読むことと書くことの比重について考えている。直近の三年間の私は、書くことよりも読むことの方に比重が置かれていたのは間違いない。実際に一日中なんらかの専門書や論文を読み、文章を全く書かないという日が多々あった。 それぐらい、過去三年間の中で読むことに比重が置かれており、文章を書くことはそれほど多くなかったように思う。三年間貪るように読書をした結果得られたものは何であったかというと、それはよくわからないというのが正直なところだ。 もちろんそのように旺盛な読書体験を経たことによって、幾分自分の中の知識体系が拡張したように思うが、それは微々たるものであるように思うし、少なくともこの瞬間にはまだ形となって現れていないのだ。「書を読む」というのは、実は相当に奥の深い実践なのではないかと最近強く思わされる。 読めているようで、全く読めていない。そのような経験をしたことはないだろうか。私はこうした経験をしょっちゅうしている。頻繁にそうした経験をしているというよりも、何かしらの専門書や論文を読むたびに、常にそうした経験に見舞われているといったほうが妥当だろう。 「読めている」という現象を、書き手の考えや意図に忠実になり、それらを正確に理解していることだとすると、それは相当に難しい芸当だと思う。私は他者の文章を読むたびに、常に自分の考えや意図が顔を出すのである。 そうしたことから、私は常に自分なりの考えや感情などを投影しながら他者の文章を読んでいることになる。「読めている」という上記の定義に従えば、こうした私の読み方は「読めていない」ことに該当するかもしれない。 しかし、果たしてそうな

447. 独学と学び合い

今日から本格的にフローニンゲンの街が冬に入ったことを実感した。外出する際には、もはや下にヒートテックを履いておかないと足元から冷えてくるのだ。同時に首元からも寒さが飛び込んでくるため、マフラーを巻いて外出する必要がありそうだ。 来週からは防寒対策をして外出しようと思う。今朝は残すところあとわずかのオランダ語のクラスに参加した。来週の火曜日がいよいよ最終試験であり、13回のクラスがあっという間に過ぎ去ったように思う。 今回の初級コースを受講したおかげで、オランダ語による簡単なやり取りができるようになったことは大きな収穫であった。文脈は限られたものだが、スーパー、カフェ、レストランでの会話をオランダ語で行えるようになったことは実に大きい。 これらの文脈では、基本的にそれほど込み入ったやり取りがなされることはなく、会話のパターンというものがある程度決まっているのだ。そうしたパターンをしっかりと身につけ、あとは語彙を増やしていけば、それらの文脈内での会話をオランダ語で展開することはなんとか可能になるのだ。 こうしたコースに思い切って参加してみると、往々にして思わぬ収穫があるものである。当初このコースに参加する前は、13回のクラスを通じてどれほど自分がオランダ語を習得できるのか全く未知であったが、コースに飛び込み、カリキュラムに沿って継続的に学び続けていった結果、自分が想定していた以上の変化を実感することができたのだ。 他者と共に教師から学ぶことの意義を大いに実感させてくれる経験であった。やはり独学には限界があるので、語学にせよ学術的な内容にせよ、他者と共に学習を進めていくことの効果は大

446. ベルグソンと時間の凝縮

今日からアンリ・ベルグソンの全集に取り掛かり始めた。全集をすでに所持していたにもかかわらず、昨年神保町の古書店で “Time and free will (1910)”と “Mind-energy (1920)”を購入した。 どちらも非常に古い書籍であり、前者に至っては、ページの所々にカビが生えており、独特な雰囲気を放っているハードカバーである。ベルグソンの思想は一世を風靡した時期もありながら、科学者たちからはその思想は推測的な実証性に乏しいものと見られていた時期もあったようである。 全集の方を最初に紐解くと、ベルグソンはウィリアム・ジェイムズ、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、バートランド・ラッセルなどに多大な影響を与えていたことがわかる。私は自分の専門領域である知性や能力の発達において、人間の意識について探究することが必然的に要求されており、ウィリアム・ジェイムズから大きな影響を受けている。 また、近年の発達科学が発達現象のプロセスに重点を置いているという傾向も後押しし、プロセスとは何かについて探究する上で、ホワイトヘッドの「プロセス哲学」からも私は大きな影響を受けているのだ。私に影響を与えたジェイムズやホワイトヘッドは、ベルグソンから影響を受けていたことを知り、ようやくこれからベルグソンの哲学思想に足を踏み入れ始めることになった。 本日ひょんな偶然から、「散逸構造論」を提唱したイリヤ・プリゴジンもベルグソンの「生の哲学」から影響を受けていたことを知った。複雑性科学を探究していく上で、プリゴジンの散逸構造論は必ずどこかで目にするものであり、ベルグソンの思想は複雑性科学と

445. 時間超越的な意識の中で

夕食をとりながら、食卓の窓越しに黄金色をした木々が闇夜の中で揺れているのに気づいた。この光景を目にした時、今日も一日が終わりに近づいていることを実感した。 客観的な物質がある主観的な精神状態を喚起するということは注目に値することであり、そういえば自分の日記における客観的な情景描写が、いつの間にか主観的な思考や感情を導いていることが多々ある。 もうすこし深くこのプロセスを見てみると、どうやら最初の段階から目には見えない思念や情念のようなものが私の中にあり、それらを心の奥底では最初から表現しようと思っているのだが、それらは輪郭しか持っていないため、客観的な物質や情景を描写することを通じて、輪郭に肉感を与えているのだということに気づいた。 客観世界を観察し、そこから喚起されるものを一旦言葉にすることによって、思念や情念がよりクリアな形となっていくのだ。このようなプロセスを見て取ると、どこからが客観世界でどこからが主観世界なのか、について線引きをすることは極めて難しいことがわかる。 夕食後、一日の仕事内容を振り返ってみると、今日は昼食後の仮眠を経たのち、論文提案書のドラフトがほぼひと段落ついた。来週の月曜日にクネン先生とのミーティングがあり、明日あたりにドラフトを先生に送っておこうと思う。 自分が今やるべき仕事や一生涯をかけてやり続けていく仕事は何なのかを、毎日どこかの時間帯で必ず考えるような日々が続いている。実際には、「考える」という能動的なものでは決してなく、なぜだか「考えさせられる」ことを迫られているのだ。 これはフローニンゲンで流れる時間感覚と密接に関係しているような気がしてい

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